Salute 2

第三章 輝ける月の夜

 ……時は海の上に遡る。

 船は順調に海の上を滑っていく。
 この時期は嵐もない絶好の渡航時期なのだと航海長が言っていたのを思い出す日はないほど、風は程よく吹き、雲は陽を覆わず、航海は極めて良好だった。
 うまくいかなくとも、嵐の欠片にも出会わないと航海長が胸を張る。
 別の季節じゃなかなかこうはいかない、と掌帆長とその部下達も嬉しそうに口を揃えた。
 帆がたっぷりと風をはらむ。船首が波を切っていく。オルダリーアからシルフィへと進んでいく。
 途中にある島々に寄港し、そのたびに人と荷が動く。シルフィの港まで船を下りない者の中の幾人かは、そのさまを興味深げに眺めていた。
 友も。
 ……自分も。
 そして、何故か隣で友と同じく身を乗り出している少女も。

 夜。
 すっかり慣れてしまった船揺れに乗るようにディリータは甲板へと出た。
 商船にしては珍しく──といっても、人を多く運ぶ定期便にはあってもおかしくないのだろうが──備え付けられている酒場では、まだ多くの乗客が酒をちびちびとやっている頃合で、それ故に闇もまだ深くはない。そう思い、しかし、見上げた夜空にディリータは自分の考えを取り消した。
 空は濃い闇に包まれていた。ただし、けして暗くはない。何故なら、その天高くには白く輝ける月があるからだ。
 陽が徐々に短くなり、夜は早くなる。そのかわりにというわけではないのだろうが、月の白さはいや増すように彼には思えた。
 あかりの少ない甲板上で夜目も利く前から歩き出せるのは結構なことだ、そうディリータは思う。冬に近い秋夜の冷たい海風は、酒で火照った体には心地よい。
 こことは対照的に甲板下にある「酒場」は人と酒との熱気で大変に暑く、また賑やかだった。誰かが手持ちの遊札を持ち出し、それに乗る幾人かの連中。次第に賭け事に発展していったゲームを見物する人々や行き過ぎないようにと目を配らせる酒場の主。別の場所で卓に並んで話し込む者達……ほんの少し前は自分もその一人だったし、ラムザは今もオルダリーアの商人と情報交換していたりする。
 そして、歌う者……。
 今日はそういえば、少女はいなかった。
 月の間近にも星が見える。普段から明るく輝く星ばかりだが、見えるその数は朧な闇空の春よりは余程多い。
 酒場に珍しく顔を出さなかった少女のことをふと思い出し、否、思い出してしまい、ディリータは短い溜息をついた。ラムザなどがその場にいてそんな彼のことを見やれば、間違いなく「変な顔」をしていると評しただろうが、それはよほど夜目が利いていればの話だ。
 オルダリーアからシルフィに向かうこの船の中で、少女に出会ったのは今から数日前──手っ取り早く言えば、出航した日のことだった。例の「酒場」で陽気に歌っていた彼女にラムザがこれまた陽気に声をかけ、……気が付けば巻き込まれるようにひとつの卓を囲んでいた。
 不思議なのは、友なのか。それとも少女のほうか。すっかり打ち解け、それから今まで自然と一緒に行動するようになってしまっているのは、自分以外のどちらもがそういう性格の持ち主だからなのだろう、とディリータはそう結論付けた。
 自分から彼女の方へ話しかけることは少ない。滅多にないと言っても良いくらいだ。それは別に話すようなことがないからであるし、興味もわかなかったからなのだが、もうひとつ理由らしい理由を挙げるならば、彼女のその元気のよさが苦手というのもある。
 元気で、朗らかで、誰に対しても遠慮がない。どこまでも強気で、勝気。少女──セレスタの表裏のない性格は、今もディリータには適当にあしらって逃げるほかない類のものだった。
 ──だいぶ鍛えられたと思ったんだがな。
 畏国に来るたびに子犬のように吠えてきた「引き取り手」の幼馴染を思い出し、ディリータは苦笑した。呂国の姫君においては用があるのは別のはずなのだが、彼女は何故か毎回自分に舌戦を挑んできたのだ。
 姫君が挑発するように何かを言う。同行人である呂国の貴族らが頭を抱える。
 適当に自分があしらう。その言葉の端に彼女の火種となるようなものを添えて。
 即座に彼女が言葉を返す。……その繰り返しをもはやすっかり慣れたという風情で、仕えている者達──ルークスとオリナスが見守っている。
 情景はすぐ眼の奥底に浮かび、それ故にディリータの笑みは深くなった。これほど遠くまで来ても自分ははっきりと覚えているということは、彼女──リュシェンカとのやり取りは煩わしいものであったことは間違いないが、少なくともそれだけではなかったということなのだろう。
 思い出せば笑みが零れる。その思い出はすぐ取り出せる。不思議な色合いとともに浮かび上がってくる。
 今頃は、とディリータは思い出したついでに思考を巡らせた。
 自分が国を出たのと同じ頃合にやって来たはずの姫君は、まだ滞在しているのだろうか。ルークスはともかく、幼馴染であるオリナスをいつものように景気良く怒鳴りつけているのだろうか?
 旅に出てからというもの、ディリータが彼らを思い出したのはこれが初めてだった。国を思い出すことは──王位を下りても考えることは、否、下りたからこそ様々あった──よくあったし、ラムザと己の自身の半生を語り合ったこともあった。その話の流れで彼らのことを話したこともあった。
 だが、こうして。
 しみじみと、というには聊か違うが、思い出したことはなかった。懐かしいのだろうかと柄にもなく考え、ディリータは首を横に振った。
 そうして知らず止めていた足をフォアマストへと向ける。
 懐かしいのとは、少し違うだろう。そう思えるほど時間はまだ自分の上に降り積もってはいない。
 きっと、それとは少し違う。
「……やあ」
「あれ、旦那」
 フォアマストの近くにぼんやり座り込んでいた船員に声をかけると、船員は被っていた帽子を取り軽く会釈した。ディリータも片手を挙げ、それに応える。
「今晩は酒場には?」
「先刻までいたが暑すぎてね。酔いを醒まそうかと上がって来たんだが……」
 言うほど酔ってやいないでしょう、と言う船員に口の端で笑うと、ディリータは彼に見張り台に登っていいかと訊ねた。
「いいですよ。たぶん昨日よりよく星も見えるでしょう。あと一刻もすればまた見張りに上がらなきゃですから、それまでなら」
 船員は二つ返事で笑い、慣れた素振りで親指でマストを指す。
 礼を言い、ディリータはマストを固定する静索に足と手をかけた。勝手が次第に分かってきたためか、それとも確かに酒の量が昨日よりも少ないためか、昨日よりも今日の方が足取りが軽い。もっとも、普段から登り慣れている船員達に比べれば遥かに鈍重であることは否めないが。
 やがて辿り着いた見張り台の床に両手をかけると、力を入れて一気に登る。反動で体が傾いだが、すぐに体勢を立て直すことができた。
「ふう」
 形ばかりの息をつき、改めて見張り台に腰を下ろす。見張り台は人があと数人は入れるくらいには大きく、それ故にやろうと思えば寝転ぶこともできるほどだった。だが、万一落ちたときのことを考えると寝転ぶ気にはとてもなれない。
 聞こえてくるのは波の音。風を受けてはためく帆の音。
 確かにそこに海はあるのだと示すように、月あかりをうけて波が輝いている。どうした所以かほんの少し丸みがかった水面すれすれに明るい星が見え、それを辿るように少しずつ視線を上げていくと、そこには冴え渡る月の光と踊る満天の星空があった。
 星座など、詳しくは知らない。人並み程度には言い当てられるが、その由来や伝説めいた話といった方面には疎い。……昔よくそんな物語を聞かされていたから、少し耳に入れれば思い出すものは幾つかあるのかもしれないが。
 だが、今はこうしてただ眺めるだけが良い。
 月のある方角とは違う空で瞬いている星々を眺めながら、ディリータはそう思う。
 誰にも干渉されず、こうしてただ時を消す。やはり自分にはそんな時間が必要なのだと改めて思う。──そう、自分は結局そうやって生きてきたのだから。
 要塞の水門を閉じる仕掛けのように何かが急激に変わるわけはない。玉座から下り、旅を始めたからといって、国を出たからといって、自分は自分でしかないのだ。
 出航の翌日にラムザに誘われるようにして昼間の見張り台に初めて登ったディリータだったが、それを最後に昼間の見張り台へは足を運んでいなかった。友はというと快晴の空と海が気に入ったらしく、時々登ってはやはりぼんやりと「日光浴」しているのだとそんな風に語っていた。
 見張り台を訪れるのは、友とは真逆の夜。毎日ではないが、それでも結構な回数を通っているためか、すっかり船員に覚えられてしまった。
 陽がないかわりに月を眺め、星を眺め。長く暮らしていた城の壁に凭れて時を消したように、聞こえる何かに耳をすます。
 ただそれだけの時間だ。
 ……だが。
「……?」
 下からふと聞こえてきた音に、ディリータは身じろぎした。音──、それは、縄の軋む音と人の声だった。
 おそらく静索を登ってくるのだろうその音は軽く、素早い。音の軽さと声に間違いようのない予想を立て、彼は見張り台の隙間から下を覗き込んだ。
 やはり誰かが登ってくる。月あかりにほんのりと照らされたその容姿には見覚えがある。そして声……歌にも覚えが。
 もっとも、歌いながらこんなところを登ってくる時点で「彼女」でしかあり得ない。半ば呆れながらディリータは彼女が登ってくる様子を眺めた。
 風が吹いているから、勿論それにあわせて静索も不規則に揺れる。その揺れに怖がって見張り台まで辿り着けずに引き返した乗客も多いらしいが、風と暗闇に恐れることなどなく彼女は滑らかに手足を動かした。
「……夜に空を見上げてみれば……」
 異国めいた調子で歌を口ずさみながら登る。そんな調子の歌をディリータは今まで聞いたことがなかった。無論、船の酒場で彼女が披露してきたどの曲でもない。
 優しい、だが風変わりな旋律。
 海向こうの言葉。
「雲も月も星もなく吸い込まれそうな……あれ?」
 脇目も振らず歌いながら登ってきた少女……セレスタが突然頓狂な声を出したのは、もう彼女が見張り台の床に手をかけようとした頃だった。見張り台に登るべく上を見据え、そうしてようやく先客の存在に気付いたらしい。
 それまではやはり登ることに夢中だったのだろう。
「あれ、あれれれ。ディリータ、さん、ここにいたんだ? 船員さんがどうぞどうぞって言ってくれたから登ってきちゃったけど、ここにいたら邪魔になる?」
 静索にしがみついたままいつもの口調で言い募ってきた少女にディリータは首を横に振った。
 確かにひとりの方が落ち着くし、そもそもそれを求めてこの見張り台に今自分はいる。だが、やって来た苦手な少女をそれでも拒まなかったのは、彼女の存在自体がこの場において云々などではなく、静索にぶら下がっている彼女をこれ以上見ている方が単純に恐ろしいというものだった。
 いいの?と少女が確認する。小首を傾げると、三つ編みを解いた長い髪が風に靡いた。
「いいから早く登れ」
 そのままぶら下がっているのを見る方が怖いとそのまま伝えると、少女は笑って見張り台によじ登った。

 波の音。風の音。
 星の光。月の光。
 ディリータは「相席の客」が来てからも変わらずにそれらの光景を眺め、聞いていた。この航海で見張り台に登ったどの夜とも同じように。
 ただ違うひとつの要因、セレスタの存在はディリータのそんな「習慣」の妨げには少しもならなかった。元気で賑やかで話好きな少女にしては珍しく、彼と同じように見張り台に座り込んで静かに星を眺めている。
 そして流れる静寂。
 波の音。風の音。
 星の光。月の光。
 波を越えるたびに揺れる船。陸ではなく海にいる自分。
 見える星の高さも記憶とは少し違う。そんな空。
 瞬きを一度すると、ディリータは傍らに座り込んだ少女を見やった。三つ編みでおさげにしている長い髪を解き、帽子を取ったほかは、少女は普段の格好のままだった。襟の詰まった丈の短い上衣の下には揃いの軽装の動きやすいドレスといった風体は、旅装としてはごく普通のものだ。ただ、少し寒そうではあったが。
 緩くうねる薄亜麻色の髪が昼間の太陽とは違う色に染まっている。それはちょうど目の前に広がる海面に映りこんだ月あかりの色にも似ていた。
 元気で、朗らかで、誰に対しても遠慮がなく、いつでも笑っている。そんな彼女も今は静かに空を見上げている。……小さく口元を動かしながら。
 きっとその口の動きは歌になるのだろう、とディリータは思う。先刻、登りながら口ずさんでいたあの歌なのかどうかは知らないが、この航行で彼女が歌う姿は本当によく目にしている。乗客や船員に囲まれて歌っていることもあったし、甲板でひとり歌っているのを見かけたこともあった。
 男だったら良い吟遊詩人になっただろうに。そう思いながらディリータはセレスタに口を開いた。
「歌いに来たのではないのか?」
「──え?」
 夜空を見上げていた少女はディリータの言葉にぽかんとした様子で振り返った。
「星を見にやって来たのか? まあ俺などはそんなものだが、お前の場合はそれだけではないだろう。……ただ何となくそう思っただけだが」
「え、いや、まあ……そうだけど」
 無意味な付け足しとともに重ねて問うと、セレスタは両手を上下に振りながら何度も頷いた。唐突に話しかけられて驚いているのか、それとも自分から話を振られて驚いているのか、あるいはその両方か。
 真偽を確かめる気もなく、ディリータは視線で続きを促した。
「……うん。ディリータ、さんの言うとおりだけど。いや、見張り台に誰もいないだろうなって勝手に思い込んじゃってたの」
 何度言っても何故かたどたどしい呼び方の後は、少女は落ち着きを取り戻したのかすらすらと話し出した。
「だって昼間ならともかくもう夜でしょう? 上を見上げてもよく見えないし、誰かいるなら船員さんは教えてくれるだろうし。……なんとなくね、今日は皆の前じゃなくて、星でも眺めながらぼんやり歌いたいなあってそう思ったんだ。でも来てみたらディリータ……さんがいるし、後からやって来た身だし」
「遠慮しているのか?」
 落ち着いたと思えば今度は次第に声が小さくなる彼女に再度問い、ディリータは言い方の拙さに苦みばしった顔をつくった。
「歌いたければ歌うといい。別にこの見張り台は俺のものなどではないし……それこそひとりで歌いたいというのなら気にせずにそう言え。俺は降りる」
 誰にも干渉されず、こうしてただ時を消す。そんな時間は自分だけではなく誰にとっても必要なのだと改めて思う。──勿論、目の前にいる自分より遥かに年少の少女にとっても。
 ディリータにそれを妨げる気はなかった。彼女がそれを歌に求めるならばそうすれば良い。星月夜に誘われて時間を歌に消すのならばそれはそれで良いし、自分と同じようにその場に誰もいない方が良いなら立ち去ろう。僅かな時間ではあったが、昔と同じように自分は今日も時を消すことができたのだから。
 すべては口に出さなかったが、言いたいことの大体は分かるだろうとディリータは彼女を再度見やった。
 セレスタはまたぽかんとした顔をしてディリータを凝視していた。視線が合い、それでようやく我に返ったのか、はっと目を瞠る。
「え? いや、降りなくていいよ! ディリータさんだって今来たばかりだよね? 歌はいつでも歌えるし、ひとりで歌いたいっていうわけでもないし、ああそうじゃなくて……何だろう……」
 問いかけにディリータが答えるよりも先にセレスタは言葉を積み重ねていく。それはすぐに誰に対してなのか分からない言い訳になり、終いには自問となった。
 宙に浮いた言葉をそのままどこかに放り、ディリータは頭を抱えた少女の様子をただ眺めていた。
 時間を消すか、否か。
 歌うか、否か。
 ひとりか、否か。
 他者は邪魔なのか、否か。
 たったそれだけの選択なのに、組み合わせてみれば少女にとってそれは無数の選択肢となり得てしまうのだろう。だが、結局答を出すのはほかの誰でもない彼女自身なのだ。
 苦手にしているはずなのだがな、と知らず湧き上がってきた笑みをディリータは口の中で殺した。むしろそんな風に苦手にしている彼女だから、こうして悩む姿は少し興味深いのかもしれない。
 それに……。
「じゃあ」
 次の思考へと移ろうとするディリータを遮るように、少女は思い切ったように顔を上げた。隣の大人を見やり、背に携えていたらしい小さな竪琴を取り出して抱える。
「持って歩いているのか……」
 一体どこから出てきたんだ、と呆れて呟いてしまったディリータに少女は笑った。
「これは私の宝物だから。……それじゃ、せっかくだから歌わせてもらいます」
 本物の吟遊詩人のように素早く調弦すると、セレスタは空を見上げて弦を爪弾き始めた。
 先刻聞こえてきた短い旋律と同じような、聞き慣れない……だが、どこか懐かしい旋律が竪琴から紡がれていく。そして、寄り添う優しい歌声。
 
 彼女の歌声はけして嫌いではない。そう思いながらディリータは目を瞑った。
闇の夜に空を見上げてみれば
雲も月も星もなく吸い込まれそうな空
どこかに消えた彼らに届くように私は弦を爪弾こう
また再び会えますようにと歌おう
何もない闇の夜
私は闇に溶け込み やがて消えていく

月の夜に空を見上げてみれば
ときには黄金に ときには真銀に輝く女神の姿
美しさに酔いしれながら私は弦を爪弾こう
少しでも近づけますようにと歌おう
輝ける月の夜
私は月に問いかけ やがて消えていく

星の夜に空を見上げてみれば
散りばめられた色とりどりの数多の星々
儚さに見入られながら彼らのために私は弦を爪弾こう
慰めとなりますようにと歌おう
さんざめく星の夜
私は空に手を伸ばし やがて消えていく

耳を澄ませば 星の声
夜の静けさに囁き 私に語りかける
羅針盤達

星はめぐり 月はめぐり 私もめぐる
私のことを知っていてと遠い星たちに歌おう
私はここにいるよともう会えない人たちに歌おう

月に誘われ 星に導かれ 風に吹かれ
長い年月をそうして暮らしてきた私たちの
生きているあかしをともに歌おう──
 歌声と竪琴の和音が空に消えていく。
 ここが海から遠い場所──甲板よりはるかに高い見張り台──で良かったと、ディリータは消えゆく音と別れながら思った。そうでなければ、ふたつの音は消える前に波に砕けただろうから。
 目を瞑っていても彼女の声音に促されるように導かれるように情景は脳裏に浮かんだ。闇へ、月へ、そして星へと思いを馳せる調べは、内に何か熱い祈りが秘められているように円を描く。円を描き、だが、それはひとつに繋がらずに次の調べへと移っていく不思議な旋律のかたまりとなっていた。
 めぐる星はやがて元のところへと戻ってくるはずなのに、予想を裏切って少し違うところにあるような。
 ──星は動かない。季節が巡っても、また同じ場所で輝く。そうなのだろう?
「……」
 連想の最中にひとつの問いかけが過ぎり、ディリータはゆっくりと目を瞬いた。もう忘れていた古いやりとり。それこそ風のようにただ受け流して過ぎていった会話の中の、ただの繋ぎの問い。何れの年にか、何処かで、誰かにそんな風に自分は尋ねた。
 ……遠くに連なる山脈は霞に沈み、その上に宵星がひとつ。
 何処からか漂う花の香は、無機質で人の気配の乏しいこの城を僅かに幻想めかせ。
 春の夕暮れは秋のそれとは対照的に、すべてが淡く消えていく。──記憶はあっさりとよみがえり、ディリータは深く嘆息した。
 王位に就いてまだ数年といった春の夕暮れ、城を囲む城壁にいつものように凭れていた自分と話をしたのは。問いに答えたのは。
 星も少しずつ動いていく。そんな風にも考えられている。星を見上げ、男は言った。
 人は歩み、大地は移ろい、そして星もまた。時の流れは異なれど、始まりがあって終わりがある。目指す先があるのだと。
 昔読んだ書にはそんな風に書かれていたと言った男に、自分は何と言っただろうか。……そう、それを探り証明することこそがお前の役割であり、本来の使命ではないのかと醒めた口調で言ったような気がする。
 何故なら、男は占星術士であったから。
 その時の男の応えがどのようなものであったか、ディリータはよく思い出せなかった。たぶん、彼は煙に巻くような埒もない応えを寄越し、そうして去っていったのだ。占星術士でありながら……星を読む者でありながら(あるいはだからこそ?)既にあの時彼の心は別のところにあった。
 星ではなく、天ではなく、それは過去。
 星の動きではなく、彼が詳らかにしたのは、教会の真相と戦の真実──事実を集約し、彼はそれを真実へと纏め上げた。顛末を書き残す者などいない。そう見据えた瞳で思いを定め、すべてを書に残した。
 戦いの行方。教会の奸計、異形の者。神秘の聖石。戦の真実。
 真相の暴露を恐れた教会は彼を異端者として捕らえ、短い審問の後に彼を世俗の腕に棄てた。
 世俗の腕として側近に命じた言葉。行列。物見台。積み上げられた薪。炎。黒い煙と白い煙。青空。旋回する鳥。その姿は白い炎のようにも見えた……すべてはもう昔のことだ。
 彼が発表した書は教会が焚書した。……公にはそう記録されているが、実際には今も城の隠れ部屋で眠っている。そうして己が定めた「守り手」によって未来へとそうして引き継がれていくだろう。……占星術士であったあの男が己の選択にどう思うのか計り知ることなどできないが、それこそが己の希みであるが故に。
 誰でもない、自分の……。
「……」
 思いのほか長くなってしまった回想を終え、ディリータは空を見上げた。雲は未だ月にかからず、海は月光を甘受している。
「……不思議な調べの歌だな」
 いつまでも黙っているのもおかしいかと思い、といって純粋な賞賛など簡単に出てくるわけもなく、少し考えた挙句にディリータはぼそりとそう呟いた。
「不思議……。あ、聞いてくれてありがとう」
 歌い終えた余韻が残っているのかどこかまだぼんやりとした調子で少女が繰り返し呟く。慌ててとってつけられた感謝の言葉にはディリータは素気なく肩を竦めた。
 自分はただ聞いていただけだ。
「あまり……いや、ほとんど聞き覚えのない調べだと思っただけだ。……それほど歌に精通しているわけではないが」
「ディリータさんはイヴァリースの人だっけ?」
「ああ」
 ディリータは首肯し、内心で続きを繋げた。
 イヴァリースでもオルダリーアでも……それに連なる他の国においても聞いたことのない調べをもった歌だった。若い頃に酒場で聞き流していた歌にも、嫌でも聴かされた宮廷風の歌にも、何にも当てはまらない不思議な歌。
 そっか、と少女は納得したように頷いた。
「こうして歌う人ももうあまりいないのかもしれないね。これ……リルっていう竪琴なんだけど、それも作ってる人減っちゃったかもしれないし」
「歌は、お前が作ったわけではないのか?」
 遊んだ手で竪琴を爪弾き始めたセレスタは、ディリータに「違うよ」と首を振った。
 優しい音色がまた別の旋律を紡ぎだす。それを序とするように、彼女は静かな口調で語った。
「歌はずっと小さい頃に教えてもらったの。すごく上手な人がいてね、その人がたくさん教えてくれた。リルの弾き方もそのとき教わって、そう、これもその人にもらったもので」
 ディリータは少女から視線を外すと、再び空を見上げた。
 波の音。風の音。
 星の光。月の光。
 同じように彼女の視線が自分から外れる。そうして彷徨った視線はたぶん同じ空に行き着くのだろう。
「本当にたくさん教えてもらったんだけど、だからそう、たくさん繰り返し練習して、一度は教えてもらった歌を全部歌えるようになったの。リルで弾き語りもできるようになって……皆に喜んでもらったわ。歌を聞いてもらって、楽しくなってもらうのが好きだった。悲しい歌や恋歌や寂しい歌もあったけど、そんなときにはしんみり聞いてもらって……子供が歌う歌だから、あんまりしんみりにもならなかったかもしれないけど」
 大人に教えてもらったものを披露する。あるいは、真似をして身につけたものを披露する。……子供の、ただの手習い。経験に培われた豊かな感情などない、ただの歌。
 よく練習したと褒めてくれたのだ。セレスタはひっそりと笑った。
「……そんなによく歌ったのに、一時まったく歌わなくなったときがあって、それでいくつかの歌は歌詞も忘れちゃった。これもそのひとつ。星が綺麗な日に歌う、ルリアの歌」
「ルリア……」
 少女の幼い頃の話に耳を傾けていたディリータは、彼女の言ったひとつの地名を繰り返した。その名に、覚えがあった。
 ルリア。確かそれは、今はもう亡い国の名前。
 シルフィのさらに南、高く連なる峰々に抱かれるようにして存在していた小国の名前がルリアといった。貴重な鉱石が採れるためにそれなりに潤い、北のシルフィとまではいかないものの、豊かな国だったらしい。
 城の文献を読み、城に出入りする商人から初めて話を聞いた頃は、まだルリアは存在していた。あともう少し畏国に国力がつき、あともう少しシルフィやルリアと近ければ貿易を考えてもよかったが、当時の──即位してまだ数年の──畏国は未だ戦の傷が癒えず、海の向こうの国は遠すぎた。
 ……そして、畏国が少しずつ潤いだした頃には、ルリアは滅んでいた。
「知ってる?」
 問いかけにあわせて音が弾ける。
「名前と位置くらいしか知らないが」
「それだけ知ってれば海向こうの陸の人たちだったら十分だよ。……あ、つまり私がルリア生まれだからそう言っちゃうんだけど」
「いや。別に……こちらも、俺やラムザもシルフィや他の国を指して海向こうと言うからな」
 海向こうというのであればロマンダもそうなのだが、あまり彼の国を指してそういうことはないなと頭の端で考えながら、ディリータは続きを促した。
「じゃあ知ってると思うけど……歌を教えてもらってから少し後に、ルリアは滅んじゃったの。闇長月のどの日だったかな……争いが起きて、本当に小さな国だからすぐに荒れちゃって」
 高き山に守られていたルリア。シルフィとさらに南の国を結ぶ交通の要衝でもあったルリア。
 王が持つ僅かな正規軍と、資源を我が物にせんと一貴族が雇い入れた傭兵隊の交戦はたった数日で終わった。その短い時間の中で戦いを仕掛けられた王族は殆どが死に、戦いを仕掛けた貴族も同様に死に、そして多くの民──貴族も、民衆も──が巻き込まれた。
 報せを聞いたシルフィの王が急ぎ兵を差し向けなければ、ルリアはさらに取り返しのつかないことになっていただろう……。
「束ねる人がいなくなって、それで仕方ないから今はシルフィに組み込まれてるんだけどね。……ええと、そんなこんなで私もルリアを逃げ出して、それでその「先生」とはそれきり。竪琴は寝るときも一緒だったから持ち出せたけど、まあ……しばらくは混乱してて歌うこともなくて……そしたら思い出せなくなってた……」
「……」
 何処の国でも起き得る権力争いだ。そして、挙句に繰り広げられる戦。
 戦場の臭いは今もはっきりと覚えている。戦いで寂れた街に村、糧に困った末に生まれ育った地を離れる民、略奪を企てる賊、力なく横たわる者の異様なまでにぎらぎらとした瞳。……覚えている。それは友も同じだろう。忘れることなどありはしない。自分たちは当事者であり過ぎた。
 だが、この少女は。
 幼かった頃のセレスタにとっては……。
「ああ、やっぱり話しすぎちゃった。ごめんなさい、しめっぽいしけしけの話で」
 移された視線に気付き、セレスタは笑顔をつくった。見張り台に来たときと同じように手をぱたぱたと振り、声音を上げる。
 心配してくれるな、と月あかりを映した瞳が語る。
「あまり大きな戦いじゃなかったって後で聞いたの。逃げた多くの人は戻って来れたみたいだし、上が消えちゃっただけで、その後シルフィになっちゃったけど、シルフィの王様はとても良くしてくれてるっていうし。直接束ねてるのはルリアの人だしね」
「……そうか」
「うん。……でも、だからかな。ルリアでは歌が好きな人少なくないけど、外に出ていってまで歌うのは……ましてや海向こうに行ける人なんてあんまりいなかったから、それでルリアの歌も届かなくなっちゃったんだと思うの。たぶんそれがディリータ、さんが聞いたことないって思った理由だよ。ルリアの歌は確かにちょっと風変わりだし、他のどこにも似てないしね」
「……先刻の歌の詞は……?」
 少女の解説に頷き、ディリータはもうひとつ問いを発した。
 歌詞を忘れてしまったという、星が綺麗な夜に歌う歌。──先刻、彼女が語りかけるように歌った星への優しい調べ。
 忘れてしまったというなら、あの詞は誰が。
 ちらりと心に過ぎった影を追いかける心持ちであったかもしれない。否、それよりももっと前の感情……そういえば「彼女」があの男の忘れ形見とともに行き着いた国もまたシルフィであったという、ただそれだけの思いつき。
 少なくとも十年前に少女がシルフィに身を寄せたならば、その頃にはあの女も……かつての「同僚」もその息子も同じ国にいたはずだ。会っていてもおかしくはない。
 そこまで考え、ディリータは己の思考の行き過ぎに苦笑した。シルフィはけして広い国ではないが、同じ村に住んでいたという確証はないのだ。
「あれはね」
 そんなディリータの思考に頓着せず、セレスタが頷く。
「忘れちゃったけど、思い出したの。……って、何もそんなに怖い顔しなくても。全部じゃないけど、だんだん思い出せたのもあるんだってこと」
 暗くとも雰囲気で分かるのか、肩透かしをくらった反動で睨み付けたディリータに少女は口を尖らせた。すぐに言い返してきたということは、今までにも何度か同じ反応をされたことがあるのかもしれない。
「リルもやっぱり最初はうまく弾けなかった。あれだけ弾いてたのにどう弾いていいか分からなくなっちゃってた。でも、……シルフィでも聞いてくれる人がいて、ゆっくりやったらいいって言ってくれた人もいて、少しずつまた弾けるようになったの。それで、リルが弾けるようになっていくうちに、手が歌を弾き出して……つられて歌も思い出してきて」
 羽が生えてどこかに飛んでっちゃったと思ってたら、そんなことはなかった。それか、リルが少しはまともになってきたから戻ってきてくれたのかも。
 少女はそう言って笑い、ディリータは黙って聞いていた。
「それでも全部は思い出しきれてないの、今も。さっきの歌も……そう。だから、足りないところは聞いてくれたいろんな人とああでもないこうでもないって継ぎ足してるんだけど……変なところなかった?」
「いや」
 問いかけられ、ディリータはゆっくりと瞬きをした。
 一度しか聞いていないが、だからこそ、特にどこをどう継ぎ足したのか分かりようもなかった。何度も聞けば、あるいは歌を生業とする者であれば初めから分かるのかもしれないが。
「言われなければ分からないな。元の歌を知っているわけでもないから仕方がないとはいえ……。周囲にはどう言われているんだ? ……ああ、その前にどうして……」
「歌は聞いてもらった方がいいから、「海向こうの言葉」で歌ったの」
 セレスタはディリータの問いを遮り、再びリルを爪弾きながら問いを先回りした答を繰り出した。
「──」
 言葉を失ったディリータに彼女は続ける。
「星や月の夜空が綺麗な日にはぴったりって言ってくれた人達がいて。好きだって言ってくれたその人達のために──その人達の故郷の言葉に、この歌だけは訳してるんだ」


 波の音。風の音。
 星の光。月の光。
「……」
 やってきた船員と入れ替わり見張り台からともに下りたセレスタと別れ、ディリータは甲板で海を眺めていた。別れ際に少女は「これから酒場で歌う」と言っていたから、結局今夜も酒場は大いに賑わうことだろう。
 ──星はめぐり 月はめぐり 私もめぐる
 ──私のことを知っていてと遠い星たちに歌おう
 ──私はここにいるよともう会えない人たちに歌おう
 最後にもう一度歌った彼女のおかげで耳に残った旋律をそっと転がしてみる。
 気のせいなのだろうかと自問する。そうではないと自答する。おそらく、と思考は自分の知る範囲での事象を繋ぎ合わせ、そして己に都合の良い結論を導く。
 彼女が歌った星月夜の歌。彼女が忘れ、そうして何者かと詞を新しく継ぎ足してできた星と月の歌。海向こう──イヴァリースの言葉でも歌うことのできる歌。
 シルフィに渡ったイヴァリースの人間がどれほどいるかなど、把握しようもない。ましてや、畏国の者と限った話でもない。イヴァリースとオルダリーアの言葉は、似通っているのだ。
 否定しようと湧き上がる思考の一方で、他方では「結論」を支え続ける文章の一節がくるくると回る。
 今では諳んじることすらできる一節。公には既に失われた白書の冒頭に記された、三つの問いかけ。
 それは、占星術士であった男の発した問いかけだ。
 ──人間は何に幸福を見いだすのだろうか?
 ──何のために今を生きるのだろうか?
 ──そして、何を残せるだろうか?
 誰にでもない、おそらくは書いた本人が自身にこそ発しただろうその問いかけを初めて目にしたとき、ディリータはただ黙した。「彼」が何に幸せを見出したのかそんなことは分からないけれども、「彼」が何を残したいのか……それは痛切に理解できたがために。
 そんな一節に歌は少し似ている。否、似ているような気がする。少女の言葉に散りばめられた合わせ絵の破片をひとつずつ組み合わせ、その絵を眺めている間に心の中に滑り込んできたような、そんな具合であの白書の一節は「結論」と輪舞曲を踊っている。
 そうでないのか。違うのか。「彼女達」なのか。違うのか。
 別れ際までに少女に問いを重ねることなど、本当はいくらでもできた。だが、結局はしなかった。敢えてしなかったともいえるし、単に臆病だったともいえる。疑問は疑問のままで良いと何かが囁いたのかもしれない。
 今はその時ではないと、そう高尚めいて囁く声などは何もなかったが。
 波間に月の姿が穏やかに映る。見上げた夜空には白銀の月と、少し時を移した星空。
 聞こえるのは、波の音と帆が風になびく音。
 耳に木霊するのは、異国の星月夜の歌だった。