Salute 2

吟遊詩人の歌

闇の夜に空を見上げてみれば
雲も月も星もなく吸い込まれそうな空
どこかに消えた彼らに届くように私は弦を爪弾こう
また再び会えますようにと歌おう
何もない闇の夜
私は闇に溶け込み やがて消えていく

月の夜に空を見上げてみれば
ときには黄金に ときには真銀に輝く女神の姿
美しさに酔いしれながら私は弦を爪弾こう
少しでも近づけますようにと歌おう
輝ける月の夜
私は月に問いかけ やがて消えていく

星の夜に空を見上げてみれば
散りばめられた色とりどりの数多の星々
儚さに見入られながら彼らのために私は弦を爪弾こう
慰めとなりますようにと歌おう
さんざめく星の夜
私は空に手を伸ばし やがて消えていく

耳を澄ませば 星の声
夜の静けさに囁き 私に語りかける
羅針盤達

星はめぐり 月はめぐり 私もめぐる
私のことを知っていてと遠い星たちに歌おう
私はここにいるよともう会えない人たちに歌おう

月に誘われ 星に導かれ 風に吹かれ
長い年月をそうして暮らしてきた私たちの
生きているあかしをともに歌おう

序章

 窓をコツコツと叩く音に、室内にいた二人の女は雑談を止めた。
 視線を二人そろって窓へ向け、その外に何がいるかを認めると「ああ」とどちらともなく呟く。女のうちの一人、長い金髪を邪魔にならないように束ねている方が立ち上がり、窓を開けた。
 慣れた所作で鳥の胸元に指を置くと、鳥も心得たものかおとなしく彼女の腕に乗った。その細い右足には、紙が括り付けられている。
 窓を閉め、鳥を指に留めたまま「いつもの場所」へと彼女は移動した。部屋の片隅の目立たないところにある止まり木に鳥を移し、籾殻や干した果実の残りなどを入れている袋から餌をいつものように器で汲む。別の器には水を注ぎ、あわせて傍らの台に置いた。
 鳥はぐったりしている。──それもそのはず、「彼」は多くの距離を移動してこの家まで戻ってきたのだ。
「やっぱり迷わず帰ってくるのね。何度見てもちょっと不思議」
「そうだな。……まあ、時々道草を食って予想以上に時間がかかることもあるが」
 笑って返しながら鳥の世話をしていた彼女は、鳥の足に括られた紙を外した。
 広げ、ごく短い手紙をざっと読む。手のひら大の紙片に綴られたそれは、彼女が人生の半分ほどを共にしてきた男からのものだった。
 少し疲れもとれたのか、あるいは「住処」に帰ってきた安堵感からか、傍らの鳥は緩く翼をはためかせた。そうして周囲をくるりと見渡すと、台の上に用意された餌と水に気付いたらしく、ぴょんと飛び乗って食事にありついた。
 白と灰色が入り混じった羽根は雪を思わせる。もう結構な昔──それがいつのことだったかもう定かではないが、送り鳥に属するこの鳥を見つけたとき彼はこの鳥に「シュネー」と名付けた。
 鳥は彼に──そして彼女を含む仲間たちによく懐き、そして文を運ぶという己が役目をよく果たした。シュネーがいなかったら自分たちは生きてはいない、そんな局面に遭遇したこともある。
 戦が終わり、皆が別れ、そしてまた時々出会う日々。
 昔に比べるとずっとずっと時間の流れは緩やかになった。
 劇的に変化していく故国を遠くから眺める日々。
 昔に比べるとずっとずっと空の色は晴れやかになった。
 そんな日々も鳥はこうして飛び、懐かしい人たちからの便りを届けてくれる。そして時には旅に出かけた彼からの手紙も。
 餌皿の中に果実をもういくつか落とすと、彼女は卓で待つ客人のもとへ戻った。
「それで? 兄さんはなんて?」
「『シルフィへの航海はきわめて順調。同行者の眉間の皺がとれてきたのは良い傾向。友人もできたし、もうしばらくこのまま一緒に旅を続けようかと思っている』……だそうだ。ああ、ありがとう」
 自分が鳥の世話をしていた間に茶を淹れなおしてくれた客人に、彼女は短く礼を言い、手にしていた紙片──差出人は客人の兄だ──を渡した。
「海越えちゃったのね。ということは……」
「そう、あと季節が数回変わるくらいには帰ってこないだろうな」
 はあ、と手紙の主の妹は呆れるように溜息をつく。その様子がおかしくて、彼女は茶器を片手に苦笑した。
「あれはひとつところにじっとしていられない。落ち着くことを知らないというか……戦中にほうぼうへ駆け回りすぎた名残が今もあるのかもしれないが」
 今日はあの街へ。明日はあの城へ。教会へ。荒野へ。あの頃──もう遠い遠い昔だ──は追いかけるように、逃げるように彼は生きていた。そんな彼に自分も仲間も、己が意思をもってついていった。あの飛空艇の墓場まで。
 連なる山々が遥か彼方に見える平原でシュネーに文を託し、その数日後には山脈を越えた街で返事を携えたシュネーと再会したこともあったか。
「じっとしていられないっていうのはそうね。兄さんたら昔っから大人しくしてないの。思いつくまま行動するというか……まあ、そんなところがいいところなのかもしれないけれど。ディリータはそれに大抵付き合わされてたわね。振り回されてたっていうか」
 客人は彼女の言葉に頷きながらも、少し訂正をいれた。父母のどちらの血が影響しているのか分からないが、生まれつきなのだろうと。
 彼女は大きく頷いた。
「昔……、そう、ベスラでオルランドゥ伯をお助けしたとき、伯がラムザの小さい頃の話をしていた。意外にやんちゃだったようだな」
 もう片鱗ほどにしかそのときのことは覚えていないが、牢の中でオルランドゥ伯は大笑し、ラムザの小さい頃の話を披露した。瞬間、澱のように淀んでいた空気は和らぎ、殺伐とした雰囲気もどこかへ行ってしまった。
 同じように笑うべきか、否か。当時、意外な過去に呆気にとられながら状況を見守っていた彼女だったが、斜め前で伯の話を聞く彼の頬が赤く染まっていたことはよく覚えている。
「そう。ああ見えてね」
 もう一度紙片をとりあげ、変わらない文章を読む客人の──アルマの目は諦めを含んだ色で笑っていた。
 たぶん自分も同じような具合で笑っているのだろう、と思いながら彼女は部屋を見渡す。
 切り出した木で作った四人掛けの卓。この地方独特の織り方で織られた……教わりながら苦心して作ったタペストリー。暖炉の傍には薪を入れた籠。壁に吊るしているのは乾いて小麦色になった花束。けして広くはない家。
 空っぽだった腹を餌で満たした鳥は、お気に入りの止まり木の上で静かにしている。今はこの鳥だけが同居人だ。──もっとも、この鳥も手紙を携えてすぐにまた出かけていくのだろうけれど。
 窓を見れば自分の表情も分かるだろうかと思ったが、彼女はそれを止めた。卓に肘をつき、両手に顎を乗せ、今ここにいない彼のことを考える。
 それは大抵いつも同じことだ。
「やっぱりふらふらしすぎよね。私も一筆書こうか。『あんまり義姉さんをほっとくな』って」
「いや、こちらもそんなに暇ではないしな。確かにひとりだが、やることはこう見えてたくさんある」
 気を回してくれた義妹に彼女は笑い、そんな必要はないのだと告げた。そう?と問い返す所作に、そう、ともう一度頷く。
 まず、短い手紙を書く。もう、暗号めいた手紙は書かなくてもよくなった。書く内容はいつもと同じ、旅の無事の祈念とこちらの日常。
 家の手入れをして、請われるように指南役となって久しい剣の稽古を村の子供たちにつけて。同じように、簡単な読み書きを教えて。
 木の実や野菜や肉を選り分けて漬け込んで。それらを配ってまわったり、反対にもらったり。冬の支度がそうして始まっていく。夜がどんどん長くなっていく。その頃には村の外へと出ている子供たちも顔を見せたりもするだろう。
 そんな日々の時々にはこうやって昔の友人が遊びに来てくれる。
 ──だから、大丈夫。
 ひとりではないと、見えない糸を感じることができる間は、大丈夫。
 今も無骨な指につけた指輪をさすると、彼女は微笑んだ。
 そうして付け足す。
「だが、そうだな。いつもの手紙に付け足すとするなら──」
 それは、これだろう。いつもと同じではないのだと、釘を刺しておかなければならない。
「『あまり同行者を振り回さないように』、だろうな」
 あとは、信じている。アグリアスは片目を瞑ってみせた。
 数呼吸の後、アルマは目を瞬かせると、やがて大きく頷いた。
「なるほど、それは確かに言わなきゃね」

 心地よい葉ずれの音と共に、木漏れ日は柔らかく煌めく。
 どこか上辺だけを撫で擦っていくような風に、熱っぽさを失った陽光。それらが生み出した木漏れ日の下で、彼はふと空を仰いだ。
 青い空の向こう、白い鳥が飛んでくる。白といっても真白ではなく、間近で見ればそれは薄灰色なのだが……、ともあれ、白い鳥は目標を見定めたのか、翼を広げ、ゆっくりと上空を旋回しながら降りてくる。
「陛下? ……ああ、スィークが」
「そう。戻ってきたようで……だ。──スィーク!」
 鳥に聞こえるかどうかは分からないが、彼は片手を挙げると鳥に呼びかけた。なんとなくそうしたかった。
 くるくる、とスィークは幾度か旋回を続け、時折翼をはためかせ速度を落としながら近づいていく。そうして彼の頭ほどの位置で一際大きくはばたき、彼の腕に止まった。
「お帰り。ご苦労様」
 長い旅路を終えぐったりとしている愛鳥に話しかけると、鳥は小さく鳴いた。もう片方の手をそんな鳥の足にやり、付けられていた紙片を外す。
「もうすっかり陛下に慣れましたな」
「元々の飼主の躾が良いし、城の暮らしも長いですか……長いからね」
 ──陛下?
 気を抜くと口調が敬語になってしまうのを演技がかった視線で咎めてくる側近に、彼は誤魔化すように苦笑をひらめかせた。そのままそっぽを向いても、側近にして偉大なる先輩の視線はついてくる。
 仕方がない、というのはある。一月ほど前まで自分は彼の部下で、弟子だったのだから。十年より少し前にこの地にやって来てからその時まで自分は国王付きの従者に過ぎなかったが、彼は──アンブル伯ルークス・コリエル・リムルヴェールは、緩やかに次第に権力を握り、最終的には宰相として前王を良く支えた。
 彼は今も自分の師匠のひとりだ、と鳥を腕に乗せたままの男は思う。かつては、王の従者という同じ役目を担っていた者同士として。そして、今は、政を司る役目を担う者として。乱世から始まったディリータ・ハイラルの治世を平らかにしたのはルークスの力も多分にあると知ったのは、従者になってすぐのことだ。
 だから──。
 示しがつかない、と咎められてもこうして時々間違うだろう。亡命先から戻って十年、温かく見守ってくれた人達を呼びつけにしたりはなかなかできない。
 いっそ彼には……、彼と、この手紙の差出人にしてもうひとりの彼には、ずっと敬語で話そうか。そんな風にも思う。
 オリナスは改めて笑った。すると、ルークスの飼い鳥であるスィークが小首を傾げる。同じように後ろでルークスも首を傾げた。目尻に皺を湛えた壮年の男がそんな素振りをすると少し可愛らしい。
「私には多分一生頭が上がらない人が二人いるなと、そんなふうに思って」
「それはディリータ様と、リュシェンカ様ですか?」
 切り出すと、ルークスは一人の名前を正確に挙げ、そうしてもう一人の名はオリナスが考えていなかった名前を挙げた。
 ──確かに、彼女もそうといえばそうかもしれない。
 若き王は目を見張り、まだこの城に留まっている幼馴染を思った。否、彼女こそが自分にとって最も頭が上がらない人物ではある。あるが……しかし、彼女とは永遠に友人口調で話すことになるのだろう。敬語など使おうものならぶっ飛ばされる。既に経験済みだからそれは分かる。
 いつでも元気なリュシェンカ──リュシィを思い出し、彼は溜息にも似た息を吐きながら歩き出した。午後の陽射しにうとうととしかけたスィークを起こさぬように静かに、静かに。
「三人です、ルークス。ディリータ様とリュシィと……あなたです」
「陛下」
「あなたは私の師匠ですから……。もう敬語で話したほうが楽で仕方がない」
 オリナス・アトカーシャ──一月ほど前に即位したばかりのイヴァリースの若き新王は、先王の手紙を持って開き直りの笑みを見せた。
 

 荒野を渡った。漠とした望みを抱き、慣れぬ故郷を歩いた。
 昔の、昔のことだ。
 持つべきは剣か。魔たる力か。何を彼にぶつければ良いのか。
 望みは何か。
 何か。
 唐突に彼に出会い、言葉を発することを許された。そうして出てきたのは。
 ──玉座を。私に。
 誰にも利用されぬことのない自分を、私に。
 傷つくことのない未来を、民に。
 それは、諸々の望みをひとつに繋げた末に零れた言葉だった。
 無言で彼は自分を見下ろした。しばしの静寂。そうして。
 ──今からこの先、見定める必要がある。
 お前が俺に──このディリータ・ハイラルに挿げ替わる存在として、相応しいか。
 彼は、言った。
 国を束ねる者として、どれほどのものなのか。
 そうして「守る者」となれるか、否か──。
 それは、彼の本心。彼は、守り抜いてきたものを継いでくれる者を待っていた。
 彼の傍に立った。見極められ、教えられ、背を見た日々だった。
 季節がめぐること十ほどの間。けして短くはない月日。
 幸せだと次第に思った。徐々に国が力を──人が未来を持ち始めるさまを見ることができるのは、本当に。この幸せが続けばいいとそんな風にも思った。
 だが、唐突に日々は終わる。暗い室の中、彼はひとつの未来を語った。
 彼は冠を外し、玉座から降りた。国と、彼自身が葬り去った真実と事実を託し、去った。
 見極めた相手にすべてを譲り、彼はまったくの自由となって、旅に。
 そうして自分は玉座に。
 

「海を、渡っちゃったっていうの?」
「そう」
 薄暗い図書室の中で読書に勤しんでいたリュシィに、オリナスは見上げて頷いた。書棚の高いところにある本を読みたかったのか、長いドレスのまま梯子の天辺に腰掛けて読んでいる姿は、やっぱりお転婆リュシィだな、とオリナスはどうでもいいことを思った。
 手にしていた紙片をリュシィに手渡す。
 リュシィはかけていた眼鏡を直し、ごく短い文章に目を通した。此処其処に置かれている灯火でしか表情を読み取ることはできないが、呆れた表情が一瞬真剣になり、そしてまた文字を追いかけるごとに呆れたものになっていくのがよく分かる。
 数瞬後、彼女はオリナスの思っていたとおり「はっ」と短く言葉を発して紙片を振った。
「梯子の上で暴れると危ないからね、リュシィ」
「何も、誰もそんなことしないわよ! でも何、どこまで行くのよあの……あの人は!」
 咄嗟に梯子を抑えたオリナスは、自分の行動が正解だったとすぐさま思った。「しない」と言った直後にリュシィが梯子を強く踏んで怒鳴ったからである。
 だが、それくらいでよろけたりはしないのがこれまたお転婆リュシィでならしてきた彼女の所以ではあったが。
 ──まあ、リュシィの怒りも分からないわけじゃないけれど。
 はいはい、と適当に宥めながらオリナスは思った。
 キーナ・リュシェンカ・ルシュ。愛称リュシィ──彼女はロマンダ国ルシュクレイ領の領主だ。そして、オリナスの数少ない、否、唯一の幼馴染と呼べる相手でもある。
 亡命先となったロマンダ国で、オリナスは呂国王の命によりルシュクレイ領の岬に幽閉された。身の回りを世話する者と監視をする者、そして数冊の書。それだけがある小さな古城で、時には衣食に窮しながら育った。
 彼女はルシュクレイ領ルシュ卿の娘であったから、ルシュ卿と岬の古城へたびたびやって来た。あるいは、ルシュクレイの城を「脱走」する形で、従者を巻き込んで遊びに来たこともある。
 自らの方が年少なのに、彼女は小心者でぼんやりとしたところのあるオリナスをよく叱りつけた。叱りつけ、ときにどやし……そうして岬に広がる野で転げるように遊んだ。
 春の夕べ、おべっか使いに疲れてひとりで野に出た自分を、複雑な心を隠して拗ねた顔にしてみせて迎えに来たのも彼女。
 夏には、川べりで二人して水の流れを見た。
 秋の夜には、いつまでも本を読んでいる自分から、目が悪くなるからと本を取り上げて。
 冬には朝からやって来て、ご機嫌伺いにやって来る貴族たちよりも前に連れ出してくれたりもした。……そうして、隠れた先から雪球をぶつけたものだからすぐにばれたりはしたが。
 鈍色に染められている幽閉時代も、彼女が絡んでいるところだけはそこが色を取り戻す。彼女は、オリナスにとって今も昔も眩い存在だ。
 そんなリュシィの天敵ともいえるのが、何故か、先王であるディリータ・ハイラルだった。
 天敵という言葉は少し適切ではないのかもしれない。先王は彼女のことを「少し苦手だ」と肩を竦めたが、その割に表情は柔らかかった。そして、彼女も本当に会いたくなければこうして怒らないだろうし、あんな言葉をいきなり投げつけたりもしないものだ。
 ──退位も即位も早すぎよ。間に合わなかったじゃない!
 ロマンダの国王に名代として畏国入りする許しを求めている間に退位式も即位式も終わってしまった。例によって同行者として一緒にやって来たセイル卿達をはらはらさせながらではあったが、そんな風に言った彼女の顔には「残念にも程がある」とありありと描かれていた。
 あとで、ルークスが面白そうに囁いたものだ。
 ──ディリータ様が旅に出て、リュシェンカ様が王都に入られる。それを私は絶妙な間合いと評させていただきましたが……。リュシェンカ様にとっては違ったようですね。
 彼の言葉に、オリナスはまったく、と頷いた。
 ──あれかな、ルークスさ……ルークス。リュシィはいつもどおり誰に対してもああだけど、たぶん陛……ディリータ様が最も「歯ごたえ」があったんだと思うよ。そして、ディリータ様には……。
 ──あんな風にまっすぐに接するご婦人方、いえ、人間は周囲におりませんでしたからね。ですから……。
 ──そうだね。
 また二人のやり合いが見たいとオリナスが言うと、ルークスは笑って頷いたのだった。
「……も、そうなるとさすがに……ああまったく……せっかく人が……。……ちょっと、オリナス。何ひとりで笑ってるのよ? ……聞いてるの? ……陛下!」
「……っわったっ……って。だからリュシィ、上で暴れるのは危ないって、あと、頼むから陛下って言うのはなしで」
 鈍い振動と呼ばれ慣れぬ呼称にオリナスが慌てて見上げると、いつのまにか眼鏡を外したリュシィは覗き込むように見やり、呆れた素振りでもう一度紙を振っていた。
「くすくすひとりで笑っているのって不気味よ。……さておき、陛……ディリータ、様が海を渡ってしまった以上、もうしばらくは帰ってこないわよね」
「そういうことになるね」
 幼馴染に頷き返しながらオリナスはそっと続けた。──そもそも、帰ってくるかどうか自体が分からないが。
 それを彼女に告げるつもりはない。告げたからといって彼女が彼を追いかけるとは思えないし、また、彼はきっとここに帰ってくると自分は思っているから。
「とすると……あと季節が数回変わらないくらいには帰らないわけだから……。いつまでもここに残っているわけにもいかないし。皆待ってるから帰らなきゃね」
 梯子の上で器用に足を組みかえると、彼女は低く唸った。とんとん、と組んだ腕の指先で自らの腕を叩き、何か思案を続ける。
 なるほど、とオリナスは思った。彼女はただの娘でもなければ、そもそも畏国の娘でもない。海を挟んだ隣国ロマンダのルシュクレイ領の領主なのだ。彼女自身がルシュ卿という立場にある。
 彼女がこの国に「遊びにやって来て」一月。主たる視察や会談も終え、暇ができた今となっては珍しく図書室に入り浸っている日々だが、やはりそれは永遠に続くものではない。彼女には彼女の民が待っている。
 ……彼女が帰ってしまうのは、自分には寂しいことだけれど。
「けれどリュシィ。また来るといいよ。今度はディリータ様が戻ってきた時にでも」
「……オリナス」
 寂しさが見えぬよう、未練が見えぬように笑顔で言ったオリナスに、リュシィは彼には分からぬ溜息を、肩からついたのだった。
 
 
 そうして三人でスィークに手紙を託す。
 旅の安全と、再会を願った手紙を。

登場人物一覧

ディリータ・ハイラル
畏国前国王。獅子戦争後の畏国を復興させた後、王位をオリナスに譲った
ラムザ・ベオルブ
異端者。ヴォルマルフとの戦い後、国境付近に住み、各地を旅している
セレスタ・シュピーゲル
歌の好きな少女。シルフィ行きの船でディリータ達と乗り合わせる
ウィリアル・D・ラナンドゥ
愛称ウィル。シルフィ王都にて風読み士として王に仕える