HEAL FOR HEEL

5.

「鍵?」
ハーディンは首を傾げた。符丁めいた言葉だ、と思った。
「そう、鍵だ。そいつが必要なのさ」
 不敵に笑み、目の前にいる友人が頷く。古い木椅子に座り、足を組み、膝には一冊の古びた書。
 ぱらぱらとそれを捲っていた手がふと止まり、シドニーが己を見上げる。見透かすような、それでいてやはりこの世の何処をも映していないような瞳。彼が持ちうる常の顔。

 魔を奪うのだ、と彼は言った。
 反旗を翻すのだ、と。先刻のことだ。

 何の前置きもない科白に、ハーディンは多少なりとも面食らった。面食らい、意味が掴めず、据えられてあった椅子に腰を下ろしたシドニーに彼は説明を求めた。
 シドニーは語った。
 公爵は耄碌した。病を得、臆病にでもなったか、魔を処分するつもりらしい。誰にも渡さず魔とこの街を消そうとしている。すべてをなかったことにしようと。
 もし、そんなことになれば俺達はどうなる? 探すより前に答は転がっている。古い物語の繰り返しだ。魔を支配しなければ一片たりとて未来はない……。
 だが。
 言葉を区切り、ふとシドニーは視線を彷徨わせた。何かを探し求めているのではなく、明確な意思を持って。まるで演技でもしているかのように。ハーディンはそう思い、視線を追ったがその先には何もなかった。
 ──だが、そうはさせない。そうだろう?
 ふとまなざしが戻り、追いかけてきた己のそれとぶつかる。呆気にとられ、当惑したがハーディンは頷いた。確かにシドニーの言うとおりだった。魔がなければ。
(魔とこの街がなければ、力がなければ?)
 頷き、そのまま床にハーディンは目を落とした。
 魔そのものには興味がなかった。もとより信仰心は薄かったし、実際に見たわけでもない古の伝説はやはり御伽話としか思えない。神も啓示も魔も祝福もどうでもよかったのだ。
 欲するのは、力だ。薄汚れたこの世を一掃してしまえるような力が欲しい。甘言を囁き、自分を貶めた輩を葬り去るような力を。何もかも……そう、たとえば世界中を笑い飛ばせてしまうような、そんな力がいい。抜け出せぬ真暗闇の泥の中を彷徨いながら、そればかりを求めた。
 シドニーに出会い、魔の存在を知った。闇の中からすべてを操るさまを見た。力を得、そうしてようやく復讐に手を伸ばせると思った矢先に。
『……そうはさせない』
 ハーディンは低く呻いた。
 手にした刃を落とすことはできず、鎖に繋がれ切り取られた空を見上げるのはもうたくさんだった。
『そうだ。だから、魔を奪う。公爵から鍵を奪い、魔都を継承する』
 顔を上げたハーディンに、シドニーは再び笑んだ。
 

 紛れ込んだ回想から立ち戻り、ハーディンは我に返った。
「魔都を支配するのに、その『鍵』とやらが必要なのか?」
 己の思考を半ば誤魔化すように彼は再度シドニーに問うた。鍵のことは初耳だった──鍵とは何であるのか。魔の支配とはどんなものか。シドニーが語らず、ハーディンの知らぬことは案外に多い。それでいいと今までは思っていたが、これからは違う。
 誰にも縛られず魔という強大な力を手にする、そのために知る必要があるのだ。
「そうだ。魔都を支配するということは、この街に潜む魔をそっくりそのまま受け継ぐということ。俺達が長い間求めてきたグラン・グリモアの力を知るということ……そのためには、メレンカンプの作った条件を呑む必要がある。魔を存続させたくば、所有者は後継者を探し出し、ある儀式を行わなければならない」
 手に遊ばせていた書を開き、シドニーは言った。長い鉤爪で器用に頁を繰り、目当ての頁を見つけ出すと、彼はハーディンに書を差し出した。
 古い書物。書としての体裁を辛うじて保っているらしいそれに、ハーディンは恐る恐る手を伸ばした。が、よく見ると、ところどころ真新しい糸で補強されており、虫の食った頁には紙がとめられてある。見かけより丈夫そうな書を手にとり、文字を追った。
 書には、古の文字がびっしりと書き連ねられていた。図などはひとつもなく、意味はまるで読み取れない。それでも意を読み取ろうと苦心したが、やがてハーディンは読むのを諦め、顔を上げた。かつてこの書物を修繕した少年と同じように。
「そこにその条件とやらが書いてある」
「俺には読めんよ」
 開かれた頁をそのままに、書をシドニーに突き返す。だろうな、と素っ気なくシドニーは書を受け取ると、見もせずに書を閉じた。
「……メレンカンプは『鍵』を作った。鍵を持った者にこの街を支配させ、魔を真に統べさせようとした。鍵を持ち、魂を贄とし魔に捧げた者こそ、彼女が生涯をかけて編み出した究極魔法を託す相手たりえるのだ、と。書物にはそう書いてある。──そして」
 シドニーの瞳の色が深みを増した。
「当然、その鍵は公爵が持っている。後継者をさだめぬまま、魔を己の命と共に封じようとしている現所有者がな」
 シドニーは囁き、深みの増した瞳を眇めた。
 魔そのものがなくなってしまうことを最も危惧しているのは彼なのだろう。ハーディンは思う。魔を誰よりもよく知り、恩恵を受けながら闇で人を操る。そう、誰よりも魔を知っている。おそらく、所有者である公爵よりも。
 それに、自分の推測が正しければシドニーは──……。
「……公爵が持っているなら、鍵の所在は公爵邸ということか? 何か心あたりでも?」
 胸を掠めた考えを押しやり、ハーディンは訊ねた。今は推測に想いをとらわれている時ではない。そのようなことは、何時でも聞けることだ。
 ハーディンの問いに、シドニーは鷹揚に頷いた。
「ああ。おそらく……いや、確実に鍵はあの男の邸にある。巧妙に隠してはいるだろうがな。探し出せるか?」
「人手が要るな。信者達を使って手分けさせれば、さほど難しいことでもないと思うが」
 答えながらハーディンは計画を組み立てていった。探索に廻る者、邸を抑える者。場合によっては、公爵付きの兵士と一戦交えることになるかもしれぬ。剣の使い手。弓の使い手。連絡係。間者。
 ──肝心なことを聞き忘れていた。
 考えを巡らし、顎を撫で回す。その手をふと止め、ハーディンはシドニーを見やった。
「今夜だ」
 言葉を待たずに、シドニーがハーディンの問いの先を告げる。立ち上がり、書を卓に置くと、再び繰り返した。今夜、と。
「……随分と急だな」
「こういうことは時を置かない方がいい。──ハーディン、皆を集めてくれ」
 あまり時間がない、とシドニーは言う。
 確かに状況は刻々と変化している。まして公爵の意向が知られれば、魔を付け狙う者は増えこそすれ、減りはしないだろう。多少の困難はあったとしても、利のある今の方が。そうハーディンは理解した。
 魔を手にし、世界をも握る。自分を踏みにじり、命より大事なものを嘲った連中を今度は自分が踏みにじるのだ。シドニーを旗頭として。
 ハーディンは頷くと、戸口へ向かった。間もなく陽が翳り始める。今夜だというなら急がなくてはならない。
 が。
 不意に振り返った。振り返り、室の中央に佇むシドニーを確認する。そうして彼は問いをひとつ口にした。
「シドニー、お前はそれでいいんだな?」
 引っ張られるように再び胸を掠めた想い。推測の域を出ない問いをハーディンはシドニーにぶつけた。
 シドニーは、無言で頷いた。


 扉が音を立てて閉まる。
 唯一の友が仲間を集めるため室を出るのを見送り、シドニーは息を吐いた。
 再び椅子に座り、天井を仰ぐ。弱々しい冬の陽射しでは到底打ち消すことのできない影がそこにはあった。
 影は彼自身でもあり、新たなる獲物を待ち構える魔そのものでもあった。次第に弱る主の行く末に惑い、継承者を探せとひっきりなしに喚きたてる魔の姿。街とは別の、ずっと深くにあるはずの存在。
 虚ばかりを吐いた己に憤慨し、威圧でもするかのような。
 いつしか怨念を宿したような響きで魔は街に漂い、無知なる魂は使い手に吸収されることなく魔を取り込み、逆にその使い手に牙を剥くようになった。それらすべてを街は厭い、地鳴りを繰り返し膨れ上がった想いを訴え続ける。
 暴走は静かに始まり、作られた秩序と均衡は脆く崩れ去ろうとしている……そんな、時に。
 ──虚を告げたのだった。
 瞼を閉じると、灰色の闇。狭いのか広いのか白いのか黒いのか……何かを狂わせるどうどうめぐりの闇に己を漂わせ、シドニーは続きを思いやった。
 鍵とは。真の意味での鍵とは。
 魔を継ぐために「鍵」が要る、それは確かだ。魔を狙い、奪おうとする連中もその存在くらいは掴んでいるだろう。二十年もただ指を咥えて見ていた訳がない。だが。
 誰も知り得ない真実。
 薄氷に覆われたように危うい、しかし確実に外気とは隔絶された事実。
 ──鍵を持つのはこの自分だという、ただそれだけの。
 あの男の邸に、鍵はない。公爵は「鍵」を持っていない。鍵は、男が木偶人形を動かすために使われた。己という儡を動かすために。理を崩し、歪な円を描き出したがため、鍵は不自然な形で所有者を離れている。所有者にも後継者にもなれぬ者が、その生を保つために。
 男は主。己は従。
 目に見えぬ、だがそれ故に強固な均衡。ひとりではけして成り立たぬ微妙な地位。作り出された歪な円。
 ともあれ、すべてが狂言という訳だ。
 閉じた瞼を開き、再び閉じた。偽の手をだらりと下げると、重力がいやにはっきりと感じられる。留める何かを失ったなら、この手もおそらく簡単に抜け落ちるのだろう。手だけではない、何もかもが魔という繋ぎ目を失い、砕け散る時が来る。
 ──故に、その前に狂言を打った。捨てきれぬ己の想いを果たすために。
 ひとつは、魔の継承。朽ちかけた躰から別のそれへと魔と鍵とを移し、狩人の追跡を退ける。歪んだ円を真円に戻し、それから魔の消滅でも何でも望めばよい。
 それが安寧の時を得る最後の賭けであり、魔にしがみつき、魔に喰われた者が最後に果たす役目でもあった。これ以上の魔を望まず、育った街と同じ願いを抱いてきた己の。
 主と袂を分かった従の、最後の矜持でもあった。
 だが、同時に別の心も囁く。あの男のこと、意図を読み既に何処ぞへ逃げ失せているかもしれぬ。従わぬ者の報復を恐れ、ただじっと時を待つことを選んだ臆病者には似合いの手段だ。
 その時には。もしそうなった時には。
 目を瞑ったまま、シドニーは笑みを作った。常のように空々しく演技めいた、だが見る者によってはこの上もなく寂寥を帯びた、微笑。
 ──その時にはすべてを巻き込み、魔を滅ぼすのも一興か。
 そんな笑みを浮かべ、思う。だがそれは、笑みを浮かべでもしなければ思いもできぬことだった。
 どの勢力とも油断なく目を光らせている。己が、魔が動くのを看過せず、すぐさま動いてくるはずだ。彼らにとっても、これは最後の機会なのだから。
 甘い蜜を塗り、引き付け……そうしてぎりぎりのところで矢を放つ。街もろとも混沌の渦に叩き込み、すべてを消滅させる。後顧の憂いなく、それで何もかもが終わる。
 ──男がくたばるのが先かも知れないが。思い、また笑った。それならばそれでよい。魔を誰にも渡さず、虚ろな時に終止符を打てればそれでよかった。
 結局。
 魔を手放せないのは男ではなく、己なのだ。棄てたいと誰よりも願った自分が、何よりも魔に囚われていた。だからこそ、こんな芝居を打った。時を待てず、主を裏切った。友をも騙し、偽の事実を語った。
 誰かの命で、終わらせるのではなく。
 終焉を己の手で作り上げたかったがために。
 ただ、それだけのために。
 

 ふと視線を感じ、シドニーは瞼を上げた。なお室は薄暗く、天井にはびこる影は増えこそすれ減りはしない。先刻より確実に濃くなった影と身に迫る魔には目をやらず起き上がると、彼はそのまま視線を彷徨わせた。
 他には誰もいない室。人の気配は届かず、魔と漂魂の気配のみが色濃く支配する空間をゆっくり眺めやる。顔も動かさず、ただ眼だけを動かした。
 影と魔に埋もれた場に、ひとつだけ異質な存在が佇んでいる。
 己を穿つ真摯なまなざしを、知っている。
 探すまでもなく追うまでもない影の中の影を、そうして彼は捉えた。室の隅、今にも魔の影に紛れて消えてしまいそうな幼子の姿を。
 幼子は何か言いたげに唇を歪め、しかし言葉を発することすらできず、ただじっとシドニーを見つめている。シドニーもまた、そんな幼子を見つめ返した。
 幼子は、彼自身だった。
 数多の秘密、幾多の秘術よりも心の奥底に眠る……それ故に誰も知らない、知る訳がない、彼すら長いこと忘れていた、そんな存在。無垢で純粋な心の発露。
 ──まだ、残っていたのか。
 胸の内で呟き、シドニーは苦笑する。そんな心が己に残っているとは思いもしなかった。もう、とうに消えてしまったとばかり思っていた。消してしまったかと。
 あまりにも懐かしく、遠すぎる過去。男が日々切り捨てていったものと同じように、己が捨てたもの。
 なおも見つめ続ける幼子にシドニーは語りかけた。苦い笑みのまま低く囁いた。
「……力と命は返す。それでいいだろう?」
 幼子がさっと表情を変える。だがシドニーはそれを見ず、立ち上がった。そうして次第に近付きつつある靴音に耳を傾けた。
 不安定な、急くような足音。何処か期待に満ちたそれ。
 室の前で足を止め、呼びに来た信徒が戸を叩く。若々しい声に、シドニーは短く応えた。声を聞き、また去っていく足音。
 消えた足音にそっと息を吐いた。迫る影と魔を跳ね除け、虚空を見据える。耳の奥で長いこと誰かの願いが木霊していたが、それは既に消え失せていた。
 時が来たのだ。もう戻れない、戻らない時が。
 室を後にしようとしてシドニーは足を止めた。振り返り、己を止めた己を見やった。
 幼少の彼は瞬きもせず、ただひたすらに彼を見つめていた。初めて見るような穏やかなまなざしで。
 視線に、シドニーは頷いた。頷き、小さく微笑んだ。
 そうしてその場を去った。


 憧憬にも似た数多のまなざしの前に彼は立った。
 呟くように、囁くように言葉を紡いだ。

 ひとつの時の流れが、終わろうとしている。
 だが、哀しむことはない。
 怖れることはない。
 時の狭間にこそ、求めるものがあるのだ。
 時の終わりにこそ、得る力があるのだ。
 欠けた破片を取り戻し、完全となる時が来た。
 日陰に暮らし、虐げられし時は終わりを告げた。
 そのために我が盟友よ、力を貸してほしい。
 我らの求めるものを奪わんとする輩に鉄槌を下し、
 魔を嘲る不遜にして愚鈍なる民に裁きを与えるために。
 追われし御座につき、世界をあまねく照らしだすために。
 すべての時は来たれり。
 時は来たれり……。

 虚な科白と偽の真実が弧を描いて室に満ちていく。言葉に導かれ、陶酔の表情を浮かべた信徒達が頷いていくさまを、彼は眺めていた。
 言葉の余韻が緩やかに消えていくのを、彼は聞いていた。

 同日夕刻、メレンカンプ教団はバルドルバ公爵邸を占拠し、人質の解放と引きかえに、VKPに捕捉されている教団員の釈放と法王バドゥイズムの辞任を要求した。
 それを引き金に、魔を巡る争いはついに表面化した。公爵は草を送り、議会は凄腕のリスクブレイカーを派遣し、法王庁は独断で直属の騎士団を投入した。
 時の歯車は回り始めた。魔と父に命を貰った者が敷いた軌条の上を、軋む音を奏で、転がり始めた。

 ──ただひとつ、アシュレイ・ライオットという予期せぬ因子を内包して。


Ended, and date back.

<終>

あとがき

メレンカンプ教団の話でした。シドニーと公爵はやはりどこか似ているというか、建前と本音と本当の本音という三段構えの人々だと思っております。通じ合っていればまだいいのですが、それがそうでもないあたり…。難しいですね。

2001.08.10 / 2017.08.30