HEAL FOR HEEL

2.

As the sun wheels through the sky, the beauty of their
Shifting colors surpasses that of any palace.
 レアモンデは忘れ去られた街だった。
 バレンディアという名前の国が歴史に登場するよりも早く、聖人ヨクスが魔を排し人々に神への祈りを教えたよりも古く、この地にあり続けた街は、長い歴史においてひとときは魔を統べる者達の棲家として、また別のひとときにはヨクスの教えを守る者達の修練の場としてその有り様を様々に変えた。
 この街を作り、育てたのは古の大魔導師メレンカンプだとされている。この地と魔の結びつきが強いことを察知した彼女は、魔の力を借りるため、そして魔そのものを鎮めるため街を作り、神殿を興した。やがて、強大な魔とそれを操るメレンカンプの存在は古代キルティアの国々、人々にあまねく広まり、レアモンデは隆盛を極めた。
 しかし、燃え上がった炎をそのままの姿で制御するのは相当な困難を要する。メレンカンプが消えた後──彼女の生没の仔細については記述がない──、魔を尊び敬う者は急速に減った。
 メレンカンプによって人の世に引き出された魔は、彼女という器によって増幅され、あまりにも強大なものと成り得た。そのようなものと向き合うには、魔導師を失った人々には荷が勝ち過ぎたのである。
 やがて破壊の風が吹き、焼けた鉄石が空より降った。制御する術を失った魔の奔流は濁流となり、時には恐ろしい魔物を生み出し、太陽を掻き消さんと暗黒の雲を空に覆い被せた。
 人々は恐怖に慄き、震えた。魔の河に流され、変わり果てた姿になった者もいた。絶望と悔恨。そうして生み出された暗黒の闇の末に一人の男がこの邪悪なる存在に立ち向かい、神への祈りを捧げ、封印した。
 男は名をヨクスといった。ヨクスは災禍をもたらした魔を封じ、己と民とを救い給うた神に祈り、語った。打ちひしがれた人々もまた神を唯一無二の存在として崇めるようになった……。
 教会の教えではじめに語られるそれはしかし、いずれにせよ、別の物語である。
 その後、「聖地」として時を重ねたレアモンデがその歴史を唐突に終わらせたのは、今より二十数年前に起こった大地震だった。局地的に襲った地の揺れは、人々の命を喰らい、建造物を瓦解せしめ、一瞬にしてこの街を廃墟と死の街へと変貌させた。遥か昔の厄災と同じように。
 人々はレアモンデを忘れた。忌まわしい記憶、数多の漂流する魂達と共にこの街を棄てた。
 レアモンデは、忘れ去られた街となった。

 ヴィノは音を立てぬよう抱えた書物を石床に置くと、自らもその場に座り込んだ。ひんやりと冷たい石床に尻がもぞもぞしたが、少しすると落ち着いた。
 古い書物を一冊一冊床に並べ、あたりを見回す。広い石造りの室の中に幾人かの姿が見える。己と同じように書物と向き合う者、何ごとかを紙にしるす者。目を瞑り、じっと瞑想に耽る者。老若男女問わず、様々な過去を持つ者がここに集っていた。その中でもヴィノはかなり若い方だ。
 しばらく彼は「仲間達」をぼんやりと眺め、その雰囲気に浸っていたが、やがて我に返ると慌てて仕事に取りかかった。長いこと眠っていた魔に関する文献の数々は、ヨクス教の連中によって粗雑に扱われたため、傷み、虫喰っている。それを修繕し、本に風を通すのがヴィノに与えられた仕事だった。
 服の裾で手の脂と汚れを拭き、頁を繰る。ついでに読み解こうと顔を近づけてみたが、文字が分からない。だが、もし仮に読めたとしてもきっと意味まではわからないだろうな、とヴィノは思い、諦めて糸と針を手にした。
 幾年もその姿を保ち続けるようにと、一針一針に念を篭める。そうすると、魔を帯びた紙と糸とがよりいっそう馴染む。虫喰いは裏打ち紙を手でちぎり、丁寧にひとつずつとめていった。
 そうした作業を繰り返しながら、延々と針を運びながら、ヴィノは時々顔を上げ、室を見回した。
 ──彼はまだだろうか。まだ来ないのだろうか。
 ぐるりと見回すと、同じように目を走らせている男と目が合った。ひとりではない。見れば、仕事に取り組んでいる者も瞑想に耽る者も、この室にいる誰もが時折その所作を中断しては室を見やっている。
 彼らは待っていた。皆、同じ者を。心のよすがの訪いを。
 室のもっとも明るい場所、大きく切り取られた窓にヴィノの目は止まった。彼はここを訪うとき決まってこの窓辺に座するのだ。だが今そこには何人の姿もなく、ヴィノは溜息をつくと、再び針を動かした。
 ──テナーンは「彼」から直接その力の幾ばくかをもらい、祝福を受けたのであるらしい。
 弓の扱いに長けていたテナーンは昨年の冬、国王暗殺の任を負った。彼はヴィノの世話役であったから、少年は我が事のように喜んだ。「彼」に認められ、「彼」のために働けるということは大変なことなのだ。まして、祝福を受けるなど。
 暗殺は失敗し、テナーンと数人はそれきり帰ってこなかったが、ヴィノも他の仲間もそれを悲しんだりはしなかった。寧ろ、羨んだ。彼らは恐怖を感じず、幸福の只中にあったのだから。
 力を受け、感覚を共有し、幸福の内に我が身を塵と変えた者は、貰い受けた力を返すため再び「彼」へと戻っていく。流浪の責め苦を負うことなく、魂は永遠に「彼」と共にあり続ける。それは、「力」の代償に永遠の漂流をさだめられた己等にとっては唯一の救いでもあった。
 数針も進めぬうちに考えごとに没頭してしまった頭を少年は振った。手先に集中しなければいけないのに、すぐに別のことに気持ちが移ってしまう。見よ、己の思考にとらわれてしまった間、糸目は歪み、捻れ、乱れているではないか。
 しばらく眺めていたが、やがて意を決したように糸目を解きにかかった、その時。
 ──頭の奥で、鈴の音が鳴った。
 鈴の音にヴィノは弾かれるように顔を上げた。持っていた鋏を取り落としたのにも気付かず、石枠の窓を凝視した。彼だけではない、その場にいる者全てが手を止め、瞼を開き、窓を見た。傾きかけた陽の光を受け、窓に浮かぶシルエット。「彼」だ。
 ヴィノが推測したように、「彼」……シドニーは石枠に腰掛けていた。何時現れたか、どのようにして現れたか、まるで空気のように溶け込み調和している。
 誰だったろうか、彼の訪いを指して風のようだと言ったのは。喉の奥で殺した吐息を零し、ヴィノはその言葉を思い起こしてひとり深く頷いた。
 孤高の預言者。滅びし魔の使い手。来たるべき世界に君臨する者……。シドニーが姿を見せるたび、彼ら信徒の心に様々な形容が過ぎる。形容は降る雪のように積もっていき、飽和することなく彼らの心を占め続けていく。
 陶酔と尊敬の入り混じったまなざしを浴びながら、やがてシドニーは口を開いた。呟くように、囁くように語られる言葉は宙を彷徨い、緩やかな弧を描いて室に満ちる。
 語るは古の物語。闇に沈み、鎖に繋がれた真実。本来あるべきこの世の理。魔導師が聞き、そして見たもの。想い。魔はけして我々を疎んだりはしなかった。手ずから与えられた魔の威力。水のように、血のように魔は体をめぐり、街を流れた。もたらされた繁栄。幸福。実体なき魔は人を愛した。人は魔を愛した。
 均衡を崩したのもまた人だった。何も持たぬ粗野な者達。すべてを奪い、踏みにじり、声高に罵倒する。響き渡る呪詛と慟哭。やがて訪れた不気味な静寂。死へ向かう者達が最期に伸ばした手を振り切り、魔は姿を消した。枯れた魔の泉。枯れた涙。ぽっかりと明いたふたつの目玉。からからに干乾びて塵となった体。何処にも行けぬ魂。安らえる地は何処なのだろう……。
 幾度となく聞いた物語は、聞きべりすることなく彼らと彼とを繋ぐ。それは信ずるものへの想いを確かめ、その偉大さを改めて知るための儀式。そして祈る、この身が失せようとも魂は永遠に──彼とともに──在り続けることを。
 色を失った陽光の射し込む室にシドニーの投げた言葉の余韻が漂う。空気の粒子となったそれらはヴィノ達を静かに取り巻き、肌に触れる。触れた拍子に粒子はあっけなく弾け、幾多のさらに細かい粒子となり溶け込んでいく……残響。
 陶然と窓を見上げる彼らの眼はもはやこの世の何をも映してはいない。映されるのは、幻像。古の真実と時の彼方の夢。故に、見上げる先、己の信ずる者が既に姿を消したことに気付く者はなかった。
 シドニーは音もなく去った。訪いと同じように、鮮やかに。
 ヴィノが石床に並べた書が一冊、なくなっていた。


 短き春の夕暮れは空の端がぼうっと淡く霞みがかり、幻想めいた雰囲気を醸し出す。それは忘れ去られた都にして廃墟の街であるレアモンデとて例外ではなかった。
 高台に至る坂をシドニーは登っていった。金属と石とがぶつかる音が聞こえるたびに、耳に届く波の音は少しずつ大きくなる。家と家の合間に水平線がもうじき見えるはずだ。
 何度登ったか数え切れぬ石坂は、記憶の辿れるかぎりでは変わるところなく存在し続けている。石坂だけではない、先刻立ち寄った室も、陽の輝きを受け精いっぱい煌めいてみせる大聖堂も、この街並みも……全てがまるで時を止めたかのように朽ちず、滅びず、この場に在り続けているのだ。生気という生気をそっくり失ったまま。
 ──いや、少し違うか。
 坂を登りきり、高台から海を望む。波の立たぬ穏やかな風情はあくまでも見かけのもの。海は潮目を数多持ち、ひとたび入り込めば、頑健な船であろうと名うての舵取りであろうと脱出することは難い。底を探ればそうして沈んだ船の残骸が降り積もっていることだろう。
 己の考えを軽く否定したままシドニーは海を眺めた。魔が描き出した結界によって守られし海を。潮目は魔が生み出したもの……、魔より生まれ、魔を守るために張った結界が具現化したものだった。
 街もそれと同じことなのだ。海が魔を得、潮目という存在を作り出したのと同じように、魔を守るために街は時を制御した。
 時は止まらない。常に流れ、連続するものを止めることは魔の力をもってしても不可能だ。たとい可逆なものであったとしても、事象をひとつところに止めるのは自然に反する。魔もまた自然に属するもの。
 故に、魔とこの街は、殆ど止まりかけるほどの時流にこの地を置いた。人の命など虫けらにも等価な時間の周期は、逆を返せば、只人の目には止まっているようにしか見えない。ごく少数、この街と語らうことのできる者だけが時の流れを知り得るのだ。
 シドニーはそれを知り得る唯一の生者だった。
 それこそが、魔を手にすなる者の宿命でもあった。
 追憶色の空気が、何かに急き立てられるようにふと揺らいだ。行きかけて、また戻る。街の主を取り巻くように渦を巻く。かすかに聞こえていた怪しい唸りは瞬く間に膨れ上がり、波となって地を走った。
 街が鳴りはじめたのだ。
 耳を澄まさずともひっきりなしに聞こえる魂の呻きと同様に、街も彼に語り続ける。地と空気とを震わせ、時折大きく身悶えてみせる。恋人を待ち侘びる乙女の如く、剥き出しの背に熱いまなざしを送る。
 たったひとり、心を通ずることのできる相手へ。
(……振り向いて。話を聞いて)
 声なき声で語るそれは、確かに届いているはずだった。だが、彼は応えようとはしない。応えず、背を向けたまま海を眺めやるばかり。その所作に古い街は吐息をつくと、また静寂に己の身を帰した。
 夕暮れ時の地鳴りはそれで収まった。

 閉じていた瞼をそっと開けると、シドニーは肩の力を抜いた。先刻眺めた時より、海は大分暗く深い青を帯び始めている。
 室での昔語りと同じように高台で海を眺め、街の叫びを聞くことは彼の日課だった。対話をせず、ただ伝え、ただ聞く。それらの時の間、思考は介在する余地を得ない。シドニーという「個」は浮き、そこから己を眺めている。もうひとつの「個」を。
 それは不可思議な感覚ではあったが、違和感はない。ふたつの「個」は、どちらもが己自身であり、己が望むもの。状況に応じてどちらかの「個」が表出するだけのことだ。
 不可思議ではなかった。
 不可思議と思い悩むには、もう時が経ち過ぎた。
 耳に残る街の声を拭い去るかのように天を仰ぐと、宵星が瞬き始めている。時は既に夜。静まり返った街は昼日中の輝きを失い、輪郭だけを残して闇に沈もうとしている。
 日中じっと息を潜め、浅い惰眠を貪っていた屍は勿論のこと、地下に漂い、屍や魂を喰らう魔物達にとっても夜は宴の時。夜が濃くなるにつれ、街に魂は溢れ、魔そのものも満ちる海のようにその力を膨張させていくのだ。
 気の早い漂魂の幾つかがシドニーの頬に触れ、そのまま何処かへ飛び退っていった。
 不意にシドニーは振り返った。己が登ってきた坂を見つめ、耳を澄ますと宵闇の中に歩を進める者の姿が浮かび上がる。
「随分と遅かったな。待ちくたびれたぞ」
 闇に向かって声を発すると、さして待たずに応えがあった。
「尾けられていたらしい。撒くのに多少時間がかかった」
 夜には不釣り合いなほどの足音と共に、大男がにゅっと姿を現した。
「それに、地鳴りに巻き込まれたからな……。森まで飛ばされてしまった」
「そいつは御苦労だったな」
「……まあな」
 疲労混じりの声で投げやりに呟くハーディンを、シドニーは無言のまま、見上げた。
 頭や肩に葉を付けているところを見ると、森をそのまま抜けてきたのだろう。街の外れの森は魔の仕業か、空間が捩れている。そこに飛ばされてしまっては、自力で抜け出すほかないのだ。
 だが、捩れた森を抜け出すのは容易いことではない。迷い込み、そのまま彷徨える存在となった者は数多。それらはまやかしの濃い霧となり、森を白に染め上げ、新たに彷徨う者を引きずり込む。時空の捩れと惑いの霧……余程力を持つ者でなければ森から逃れる術はないといえた。
 無論、シドニーには造作もないことだ。彼の大柄な友人にとっても森からの脱出は困難ではない。困難ではないが、多少疲れの色が見えてしまうのは仕方のないことだった。ハーディンは只人なのだから。
 ほんの一瞬見上げただけで、シドニーはすぐ視線を下ろした。鋼の腕を上げて言葉を促すと、ハーディンが思い出したように喋りはじめる。
「教会は例によって各地で説教を繰り返している。奇跡だ神だ赦しだと……あの様子だと相当焦っているようだな。カルト系の弾圧も辞さないとの噂だ」
「そうか」
 ハーディンの報告を聞くこともまたシドニーの日課だった。じっと耳を傾け、何事かを思案するように指で頬を叩く。尖った付爪が肌を刺し、傷を作ったが血は流れなかった。
 ヨクス教の連中の動向、世情、人々の心の流れ、陰に蠢く者の行く先。閉じられた世界であるこの街の外はおしなべて騒がしく、なんとも忙しない。人と人の思惑が飛び交う様は、あたかも彷徨える魂のよう。
 そう思わぬでもないが、シドニーは口にしたことはなかった。己もまた、それらの事々と無関係ではない。
「……とまあ、こんなところだ。尾けていたのは教会の連中か、それとも他の輩か……そいつは分からなかったが」
「いや、それはいい。気にするようなことでもないだろう」
 腑に落ちぬ顔で首を捻るハーディンの横を過ぎ、シドニーは来た道を戻り始める。片手を再び上げ、友にもそうするように促した。今日為すべきことは、すべてし終えたのだ。
 陽はとうに落ち、真暗闇。信徒達は休んだ頃合いか。
 星々の倹しい明かりを頼りに石坂を下ると、歩毎に鋼と石とが擦れあう硬い音が響く。音に驚いたか、通りすがりの漂魂がひとつ、シドニーの手前で消え失せた。
 シドニーの後にハーディンは続かなかった。足を止めず気配で探ってみれば、未だその場に立ち止まり思案に暮れている様子。もしくは、伝え忘れた何事かを思い出しているのか。ふらふらと目を泳がせるそれは、記憶を辿る時のハーディンの癖だ。
 やがて、視線は虚空の一点に定まった。宙を見据えた強さのまま、ハーディンはシドニーへと視線を移す。
 伝え忘れた「何か」を口にするのだろう。新たな「依頼」か。それとも。
「公爵が、近いうちに来るようにと」
 シドニーは足を止め、振り返った。
 伝えるハーディンの顔は真暗闇で分からない。同様に己の表情の僅かな変化も、友には読み取れないに違いない。
 ハーディンの口から漏れたのは、予期せぬ名だった。
「話があるらしい。何の話かは伝えられなかったが、とにかく来るようにと言っていた」
 気付かぬ様子でハーディンは続けた。鈍い音を伴いながら石坂を降りてくると、立ち止まったままのシドニーの前で足を止める。そうして再び首を傾げた。
「どうした?」
 ──珍しいこともある。
 問いには耳を貸さず、シドニーは眉根を寄せた。止めかけた息をゆるゆると吐き、また吸い込む。夜露に濡れ始めた空気と魔とが痩せた肺に満たされていく。
 聞かされた名は、彼にとって深い意味を持っていた。と同時にそれは、己がけして万能ではないということを思い起こさせる名前でもあった。誰かの道具に過ぎぬことを。儡であることを。闇に走る身であることを。
 誰も気付かない、誰も知らない事実だ。目の前の友人ですらも知り得ない。隠している訳ではない、だが、巧妙に隠された事実。喩えていうならば、外套があって初めて成り立つような。
 ──己にとってもさして重みを持たない、事実。深い意味を持ちながら、重さのないもの。
 躰の重心を僅かにずらし、シドニーは足を踏みかえた。見上げるハーディンの向こう、新月の夜にきらきらしく瞬く星々を目に移し、ついでのように肩を竦めてみせる。
「また無理難題を言ってきそうだな」
 ハーディンは答えなかった。
 シドニーも返事を待たなかった。待たず、再び踵を返すとそのまま坂を降りていった。
 真暗闇に、仄かに燐光が漂いはじめる。魂が、魔が仲間を求めて彷徨う頃合い。
 鐘の音が、崩れた街に一日の終わりを告げ始めていた。