HEAL FOR HEEL

3.

 隙間を抜ける風の音。
 彷徨い続ける魂のかすかな嘆き。
 ……それらの他は何者の気配もない回廊をシドニーはひとり、歩いていた。
 廃墟の街で唯一、空の高みに近付ける場所。地下深く眠る魔の神殿を踏みつけるようにそびえる「神」の聖地。こもるような湿り気と冥府の匂いからもっともかけ離れたところ。
 星が空にひとつふたつと瞬き出す頃にはえもいわれぬ色に染まる大聖堂は、今は穏やかに陽の光に包まれていた。
 ヨクスの聖地であるこの地に入り込む者は、今、彼の他にはいない。魔に傾倒しヨクスの神を忌避する彼の信徒達は、その象徴である大聖堂をも遠ざけているのだ。中には、かの大地震にこの聖堂が耐え、残ったことにすら不平を漏らす者もいるらしい。
 シドニーはそれらの不満に取り合わなかった。関心がなかった。そう思うのなら思っていればいい。それが彼の偽らざる本心だ。
 虚の空間に靴音を響かせ、聖堂内を進む。
 ところどころ石壁の崩れたところから外界が覗く。地平の彼方まで続く空、浮かぶ雲。霞む緑の草原。世界より隔絶された空間でありながら、それでもやはりこの地が世界の一部であることを示す不思議な光景。
 彼にとっては見慣れた風景だった。
 ふと足を止め、石壁を探った。紋様がびっしりと描きこまれた壁の一点に鋼の手をやると、そこで探っていた手を止める。ひとつにやりと笑み、まじないを唱えた。
 石壁が消え失せ、その先に現れた秘密の通路に、彼は足を踏み入れた。


 狭く曲がりくねった階段通路を登りきると、狭い室に出た。中央に据えられているのは緑青が入り混じった真鍮の鐘。聞く者がなくなった今でも正確に時を知らせ続ける鐘を横目に、シドニーは窓辺へと歩み寄り、常のようにそこへ腰掛けた。
 片膝を手繰り寄せ、頬を寄せると、鋼のひんやりとした冷たさが伝わる。そこに、人の持つ温かさはない。
 なくした手足のかわりに与えられた贋物のそれ。抜け落ちた肉と骨と血のかわりに与えられたつくりものの中は、何もないのだ。ただ、虚虚とした空間だけが広がっている。魔を十分に帯びた空気のみが彼の手と足には詰まっていた。
 誰も──おそらく、ただ一人を除いて──知り得ない事実。誰も聞かない現実。
 そんな事実ばかりだ、と誰もいない室でひとり、笑う。我ながら秘密事が多い、と自嘲気味に。
 誰が知り得るだろうか? 想像するだろうか? 想像などし得ないだろう、己が魔に生かされているなどという現実を。
 魔を得た者の辿る末路とは別に、己の躰は魔に支配されていた。不倶であった命は、永らえるために半ば本能的に「力」を欲し、魔は器としての己の肉体を欲した。遥か昔、もう記憶の彼方にすらない出来事だ。
 だが、その時感じた痛みだけははっきりと思い出すことができる。忘れられず、その度に偽の腕と足とを抱え込んではじっと時をやり過ごす……ちょうど今のように。
 それはひとつの戦いだった。魔は己に入り込み、暴れまわった。過ぎた力は身を焦がし、腐りかけた手足の血を沸騰させ、肉を焼き、骨を溶かした。痛みに耐えかね、泣き叫ぶ赤子は己。
 泣き濡れた眼を見開くと、映し出されたのは視界いっぱいの青い光。そして、傍らに佇む誰かの影。影に己は訴える。しかし、影は己の小さな手を握りしめ、首を振った。光の洪水、吹き荒れる魔の風。一瞬の閃光。訪れた静寂。
 何かのもげた音を意識の端で聞いたような気がした──。


 かくして魔は己を司った。
 魔の継ぎ手として選ばれし己は、その力の恩恵を受けるかわりに魔に喰らわれ続けるさだめを得た。
 完全であって、完全でない歪な不死者。己の思考を交えず、ただ伝え、ただ聞き、闇に動く。幼い己はそれを不思議とも思わなかった。そして今も。人ならば誰しもが呼吸をするように、魔を受けた己には自然なこと。
 何より、そう望んだのは自分自身なのだ。拒まず受け止め、魔と調和したのは、生にしがみついた己だった。
 少しずつ意識を現に戻しながら斜めになった街を眺めやる。廃墟の街に沈殿するのは魔に取り込まれた魂の骸。熟成させた葡萄酒のごとく、魂の嘆きはねっとりと重く地にたゆとう。
 生々しい嘆きが空高く咆哮していた光景は遠かった。見慣れた風景は確実に時の流れを映し出している。
 街は、朽ちはじめていた。
 白い瓦礫を瞼の外に追いやり、闇を呼ぶ。瞼の内側に思い描く街並みは、まだあのようには白くはなかった。
 風に揺れ続ける店の看板、守る者がいなくなった棺。水は濁りだし、切り出した大理石で作られた建物の数々は、少しずつであるがその形を失いはじめている。
 誰もが知り得ないまま。
 元々、それは仕方のないことなのかもしれない。時という流れにあるかぎり、形あるものはすべて滅びの道を辿る。緩やかであるにせよ、この街もそうした流れの中にあるのだから。
 だが。
 ゆっくりと瞬きを数度。そうすると、街の白さはいや増すように思えた。
 陽の光の眩しさに──あるいは何がしかの想いのために──、目を眇める。そうして長い時を過ごした街を改めて見やると、数え切れぬほど聞いた「彼女」の願いもまた、耳によみがえってくる。
 古の大魔導師の遺志を、何よりも確かに刻んでいる彼女。
 運命に、人の欲望に振り回され続けている哀しい存在。
 彼女の願いはただひとつ。唯一の主人を失ってからひとつのことを訴え続ける彼女は、当然の顔で己にも語りかける。魂を喰らい、魔を纏わせながら相反する願いを。
 素通りするだけと知りながら幾度も願うのだ。
 願いは、本心。本当のこころ。何人も預かり知らぬ想いを、そっとどこかに託す。託して、叶うのを願う。願う、願い続ける……ずっと、ずっと。
 顔を上げ、シドニーは正面に街を捉えた。
(わたしを)
 望みを繰り返す声は震え、甘かった。
(わたしを、ほろぼして)
(あなたにしか、できない)
(ねむりたい、眠りたい。もっと穏やかに。誰にも必要とされず、溶けていった数多の夢を子守唄にして)
 塞き止められた想いは、次第に逃げ道を求めて彷徨い出す。地を鳴らし空気を震わせ訴え続けられる想いは、魔の繁栄や存続とは正反対の事柄。
 魔に魅入られている者には、届くはずもない想いだ。
 彼自身も「彼女」の願いそのものに心を傾けることはなかった。背を向け、言葉を聞きながら答を返すことはなかった。魔を欲し、魔に喰われ続けながらも生を得ている者に、この願いが応えられようか? 想いが呑めようか?
 己は魔の継ぎ手であるとしても、所有者ではない。真にこの力を欲した者の卑小なる木偶人形にしか過ぎないのだ。
 だが。
 冷えついた心のどこかで何かが囁く。
 それならば心のみでなく、耳も傾けなければよい。聞いたふりをして素通りさせればよい……ただ「聞けば」よいのに、囚われる必要がどこにある?
 ──単なる木偶でありながら何を悩む?
 繰り返される街の願いの名残に囁くのは、魔。残響の僅かな合間に、魔は己の耳にひそりと囁くのだ。
 鋼で覆った肩を竦め、囁き声をも退ける。幾多の願いに、幾多の囁き。そして、同じ数だけの拒絶。閉じられた円環。不毛な繰り返し。
 ──惹きつけられているのか。
 己の思考もまた、何かの円環にはまりこんだことに気付き、シドニーは溜息を漏らした。縺れた髪を手で梳き、かきあげる。
 直截な街の望みに、確かに惹きつけられる瞬間がある。内なる魔に指摘されるまでもなく、気が付いていたことだ。
 たとえば、今日のように。ひとり街を眺め、過去や魔や他の何かに……常ならば思考の範疇外である何かに想いをやる時、街の願いは心の琴線に触れた。
 甘く、純粋な願いであるからこそ。
 緩やかに吹きはじめた海風に撫ぜられながら、ふと笑む。己がこのような思考の持ち主だということを知り得たら、皆はどのように思うだろう?
 魔を継ぎながら、強大な力を手にし、それ以上を望めるところにいながら、そんなものは要らないのだと告げたなら。
 仲間の多くは。友は。
 呆然とするだろうか。怯むだろうか。それとも、嘆いたり?
 名も覚えていない者達の顔が浮かんでは消えていく。いずれも、魔の片鱗に触れ、畏れをなした者達。僅かな自由を不安がり、誰かに縛られることを望んだ者達。
 彼らは、己の信ずる対象が現の世界を席巻することを望んでいる。そして、陶然とその内に漂い、彷徨うことを。
 もしくは、己を拒んだ世界に復讐することを。
「……底意地が悪いな」
 呟きに使った声は、妙にしゃがれていた。張り付いたような笑みを消し、肩を竦めた。
 現実にはあり得ないことだ。己が魔を棄てるのも、同様に彼らを見放すのも。故にこそ空想は空想の内に留められ、街の願いもまたその場に留め置かれる。
 魔にしがみつくかぎりは。魔を占めようとするかぎりは。
 だが、別の事象もまた、出現しようとしている。魔の存在に見て見ぬふりをし、口を頑なに噤んできた者達も、いよいよこの奇異なる力を我がものにせんと謀略を巡らせはじめた。きっかけさえあれば、「彼ら」は何時でもこの街に足を踏み入れ、荒らしまわるだろう。
 波動を感じる。街が希い、殊更身悶えるのは、塞き止められた願いのためだけではない。街に眠る魔が、己の内の魔が騒ぐのは、古の顛末と同じ匂いを嗅いでいるからだ。
 ──闇に張られた均衡が崩れてきている。
 瞬間、脳裏を影が掠めた。
 赤子のもげた手を握り続けた影は、己を魔とは別次元で司る存在。己の主であるあの男は蠢く輩にどう動くのか。どう己を使うのか。
 眠っていた魔を揺り起こし、欲望のままにそれを手にした男は。歪な不死者をわざわざ作り上げ、儡として魔に捧げた男は。
 己と血を分け、命の砂をも分かつ男はどうするつもりなのか。
 あの男のことだ、とシドニーは思う。常のように大して声色も変えず命令するに違いない。
 男の中では均衡は常に磐石であり、それに揺さぶりをかける者は誰であろうと容赦はしない。かつて興味本位で手を出しかけたがために、魔の毒矢で射られた哀れな王君は、今も豪奢な寝台の中で震えていることだろう。
 命を削り、木偶を用意してまで魔を支配し続ける。なんと強欲なことか。己の培った均衡を尊び、そうして男は魔を愛で続けるのだ。
 男の滑稽さを彼は笑おうとしたが、消えた笑みはついぞ戻りはしなかった。


 陽射しが翳り始めていた。
 陽の光に暖められた空気がすうっと冷えていくのを感じ、シドニーは窓枠から降りた。まもなく、錆びた鐘が鳴り出す。もういない鐘付き男のかわりに魔と魂に力を借り、鐘は無人の街に時を知らせ続けるのだ。
 鐘の周囲の大気が次第にびりびりと震え出すのを合図に、埃の降り積もった階段通路を下りようとした時。
 前触れもなく、ぐらりと上体が傾いだ。
 よろめき、壁に手をつく。不意に浅くなった呼吸を宥め、眩む目を瞑る。奇妙な静寂にか細い呼吸音ばかりが響いた。

 数瞬の間。

 シドニーは何事もなかったかのように立ち上がった。
 何事もなかったかのように、歩き去った。