HEAL FOR HEEL

1.

 空は灰白く、何もなかった。
 本来ならば低く顔を覗かせるはずの太陽は、どこかにその姿を隠し、空の青は消え失せている。それらを全て遮っている冬の灰雲を取り除けば、うつろで寒々しく、生気のない青空が広がることだろう。
 だが、今、空には何もなかった。青空と太陽を覆っているはずの雲さえも境界が見えない。古びた漆喰の色にも似た薄い灰色がただ平面的に塗られていた。
 空から吹き降りる風が冬枯れの木立を通り抜け、枝々を打つ。それらに揺さぶられながら風の音は、細く悲しく、まるで繰り返し呟かれる呪詛のようにその場に響き、そして消えていく。
「毒矢だ」
 枯れ朽ちた残り葉が風に乗せられ、どこかへ飛んでいくのを視界の端に映しながら、ハーディンは片手を前に突き出した。手には、数本の矢が握られている。鏃に触れぬよう注意深く矢を指し示すと、彼の目の前に膝を突いていた男達が身を乗り出し、覗き込んだ。
 黒く鈍く光る鏃は、何の変哲もなかった。だがよく目をこらすと、鏃の周りだけが仄かに青白く光っているのが分かる。その様子に男達は顔を見合わせた。
「……邪毒の性を帯びた魔に三昼夜浸したものだ。常人なら触れただけで間違いなく死ぬ」
 ハーディンは白い息を吐き、言葉を継いだ。
「教えたとおり、二時間後に国王を乗せた馬車がカロンノに到着する。馬車から降りて司教の出迎えを受けるだろう。その時を狙え」
 矢を指し示した骨太な指がすい、と動き、ある方角を指す。
 落葉樹が多く植わる丘からは、都の様子がよく見えた。石造りの堅牢な城壁が城と教会と街とをぐるりと囲む。時間の皺を刻んだ建物の数々も、その隙間を埋めるよう植えられている木々も、やはり今は石灰色に沈んでいた。
 ハーディンの指した先にあるものを、男達はすぐに理解した。威厳に満ちた構えの王城とは対照的に、細く高く空へと伸びる灰色の塔。
 カロンノは、王家や高位の貴族のみが立ち入ることを許される教会だった。
「腹の中ではどう思ってようと、国王はヨクスの信徒だからな。めったに教会には足を運ばないが今日は別だ……」
 風がまたひょろろ、と鳴いた。物寂しい音。
「年おさめの祈り」
 膝を突いた男達の中のひとりがカロンノの尖塔を見やり、ぼそりと呟いた。それに合わせ、ああ、とハーディンも頷いた。
 今日は国王のみならず、ヨクスの信徒すべてが──それはこの国の民衆の殆どを示すと同義だが──神に祈りを捧げる日。この世界をあまねく照らし、手にした剣で秩序を作り出したという神は、人々にとって絶対的な存在であり、また、唯一畏怖すべき存在でもある。
 その神を、そしてバレンディアに「神を呼んだ」聖伝道師ヨクスを称え、尊び、共にあらんと年に一度、敬虔な祈りを捧げる日、それが今日──、「年おさめの祈り」と呼ばれる日だった。
 だが、彼らには「神」も「ヨクス」も「年おさめの祈り」とやらも何の意味をももたらさない。
 彼らはヨクスの「神」を信仰していなかった。彼らが心の拠りどころとしているものは、もっと別のところにある。
「いいな、二時間後だ。二時間後にカロンノの門の影に隠れ、機を待て。チャンスは一度きりだ」
 カロンノに向けていた視線を戻し、再び男達にハーディンが向き直ると、男達は同調するように頷いた。
 手にしたままだった魔毒の矢を矢筒に入れ、男達に手渡す。魔の気配を外にもらさぬよう工夫がこらされた矢筒である。弓持つ男がそれを受け取り、腰に結わえた。
 枯れ葉を自在に舞わせていた風に白いものが混じり始めていた。木にぶつかり、山にぶつかり、風は音を変えていく。上空では余程強く吹き荒れているのだろうか、薄灰色に塗り込められた空は雲の輪郭を万華鏡のように作り出し、流していった。
 男達は暫し押し黙り、冬の光景を眺めていた。風の音しか耳を打たない奇妙な静寂。
 と、風音の調子がふいに変わった。あたかも曲が転調したかのように。
 思い思いにかぼそく己の音色を奏でていた風達が、糸のように依られていき、次第にひとつのうねりになっていく。
 それは、音ならぬ音だった。少なくとも、彼らの耳は何の音も拾わず、鼓膜は震えなかった。しかし、脳裏に風の音は凛として響き、心地よい調べとなって脳髄から体中へと流れた。
 男達──膝を突いた者達──は一様にその調べにうっとりと聞き入った。ただハーディンのみが顔色も変えずに空を見上げ、雲を確かめ、音もなく枝々を揺らす風を眺めやり、そして振り返った。
 風の音は止み、黒の外套を纏う男がそこには立っていた。
 名残の風にフードから零れ落ちた金の髪が揺れる。ハーディンと男達の前、伏せていた面を上げると、男は口の端を僅かに釣り上げ、フードを落とした。
 男は名をシドニー・ロスタロットといった。本名なのかもしれないし、通り名にしか過ぎないのかもしれぬ。だが、彼ら信徒は彼の名をそのようにしか知らなかった。
 国教であるヨクス教ではなく、魔を──古代の大魔導師メレンカンプが広め、ヨクスによって滅ぼされた古の秘術を──拝する彼らにとって、シドニーは畏怖すべき存在である。
 いや、むしろ魔は口実にしか過ぎないのかもしれない。口実というべきか、「魔」と呼ばれしものを自在に使いこなし、具現して見せたその「存在自体」にこそ彼らは畏れ、尊んだ。つまりメレンカンプ教団の信徒にとっては、教祖シドニーは「魔」を強く感じることのできる「器」であり、それはいきおい、「開祖」メレンカンプと彼とを同一視するような流れを作り出しているのだった。
 シドニーは頭を二、三度降ると、ゆっくりとした足取りで男達の傍へ歩み寄った。元々膝を突いていた者達はますます平伏した。年長の彼らがまだ年若い美貌の教祖に頭を垂れるという奇異な光景を滑稽と思う者はこの場にはいない。
「手筈は整ったか?」
 ハーディンの傍らに立ち、シドニーは訊ねた。目を細め、遠くカロンノを見据えたまま。
「ああ。あとはこいつらがカロンノの門前に移動して機を待つだけだ。矢はもう渡した」
「そうか」
 友人でもある教団幹部のジョン・ハーディンの言にシドニーは頷いた。頷き、彼は平れ伏す者達に視線を向けた。
 視線を感じ最初に顔を上げたのは、矢を受け取った男。射貫くような、それでいて何にも捉えないようなシドニーの瞳に一瞬怯み、体を強張らせる。
 目が、合った。
 覗き込まれているわけでもないのに、彼の瞳は己のそれを穿ち、柔らかにそして鋭く捕らえた。吸い寄せられる。逸らせない。逸らそうという、ある種本能的な意識までが絡め取られ、身動きすらできなくなる。いや、できないのではない。やはり、そのような意識すらはたらかなくなるのだ。
 そうして彼らは──ひとりではなく、跪いた者達が一様に──、シドニーの中に己の感覚が取り込まれるような感覚を覚えた。彼が常にその身に保有している強大な力の一端に触れ、感じ、己をその内で泳がせる。同時に、己の内には新鮮な息吹が吹き込まれた。
 凪の海。ちっぽけな舟を凪海は抱き、波立たぬほどに吹いた風は舟のみを揺らし、帆を張り、どこかへと連れ去ろうとしている。それがどこなのか、舟に知るすべはない。だが、知らずともよかった。知る必要はどこにもない。
 感覚は重なり合い、混じり合い、奇妙にして神秘のものとなる。何の思考も持ち得ぬはずの魔の海で男達は歓喜に震え、流せぬ涙を落とした。
 それは福音だった。
 奇跡でもあった。
「……時が迫っている」
 永遠にも一瞬のうちにも思えた感覚の果てに発せられた言葉に、跪いた男達は皆、我に返った。
 感覚を素に戻してしまえば海はなく、己であった舟もなく、そこは灰色の枯木立に囲まれた丘。止んでいた風は再び吹き始め、空は複雑な紋様を描き出す。丘より見える王都は今も灰色に沈んでいる。
 そして、目の前には元のとおりにシドニーが己達を見下ろしていた。だが、シドニーは再び視線を合わせようとはせず、カロンノの尖塔を見やり、次いで宙空へ目線を置いた。
「今、地上において富める者、御座につきし者は昔、咎人だった」
 独白の如く紡がれる言葉。
 シドニーの紡いだそれは、けして声高に叫ぶようなものではなく、静かに、ただ静かに跪く者達の前に置かれた。
「己が手の内に何も持たぬ者達は、『持つ者』を妬み、嫉み、憎んだ。与えられしものに満足できぬ者達は、『持つ者』から奪い、搾り取り、そして捨てた。彼らは忘却の呪いを唱え、『持ち、与える者』を切り刻んだ。切り刻まれ、幾千幾万の破片となった我らの親は虚空に漂い、安らかならぬ永の眠りにつき、時を待った」
 その時が迫っている。未だぼうっとした顔つきの男達にシドニーは語り、続けた。
「忘却は罪。愚鈍である己の性に気付きもせず、胡座をかく者に裁きを。古より託された妙なる力を使うときは今」
 指先を男達の額に軽く押し当てる。長く尖った爪が彼らの肌を傷つけ、薄く赤い線を描き、そして消えた。
「では、行け。我が盟友よ」
 言葉に男達は立ち上がり、しかし、それぞれが縋るような目でシドニーを見た。声もなく語られる望みをシドニーは知ってか知らずかひとつ頷くと、鋼で覆われた腕を上げ、ある方向を指す。
 指し示した先は、空に突き刺さらんと伸びた尖塔。
 ──カロンノ。

 風が吹き渡っていた。

 シドニーはしばらく男達が降りていった丘の道筋を眺めていたが、やがて外套の釦に手をかけた。釦を外した外套は風にはためき、風と共に彼の躰をすり抜け飛んでいく。
 外套の下に隠されていたのは肉という肉をすべて削げ落としたような痩躯だった。鎖骨は浮き、両の腕は鋼で包まれ、細紐で繋がれている。白磁の背には古の紋様を象った入れ墨があり、それらはすべて彼を奇異的なものとして印象づけていた。
 事実、彼は奇異であった。そして、それ故に彼を敬い信じる者達は奇跡と呼んだ。
「……不満そうな顔だな、ハーディン?」
 飛んできた外套を捕まえ歩み寄ったハーディンに向き直り、シドニーは言った。数分前まで紡がれていたような神がかった言葉ではなく、平易な物言いで。
 何も言わずハーディンはシドニーに外套を渡した。シドニーが指摘したとおり、あまり好意的な表情は浮かんでいない。
 大きくひとつ息を吐き、何か言おうとする友人をしかし宣教師は制した。
「随分と迂遠なことをする。わざわざ魔漬けの矢なんか使わなくとも、いつものように秘密裏に『処理』すればよいではないか。まあ、こんなところか?」
「……人の心を勝手に読むな」
 ハーディンは唸った。
「読んでなどないさ。顔を見れば分かることだ」
 素っ気なく言い、シドニーは両手を広げてみせる。その芝居めいた所作にハーディンは呆れ返ったが、やがて諦めたのか手近の木に凭れて腕を組み、シドニーを見やった。
「そこまで分かって何故だ?」
 声にはやはり多少の非難の色があった。
 国王を暗殺する──。数週間前、シドニーからこの計画を聞いた時、ハーディンはてっきり、彼が己の力を用い、「いつものように」秘密裏にことを運ぶのだと思ったのだ。少なくとも、今まではそうしてきた。
 だが、ハーディンに計画の概要を打ち明けると、シドニーは数人の信徒をすぐに呼び寄せた。呼び寄せ、彼はハーディンに語ったのと同じ内容を彼らに聞かせた。
 ──大魔導師の裔、偉大なるメレンカンプの遺志を継ぐ者として愚鈍の象徴である国王を魔の縄で縊り殺せ。
 同じ内容、同じ意味でありながら深長な啓示に満ちた言葉。信徒達はごくりと唾を飲み込んだが、室の中、ひとりハーディンは違和感を覚えていた。
「語って聞かせるほど重要な理由などないが」
 雪まじりの風に髪を嬲らせ、素肌を外気に晒したままの格好でシドニーは肩を竦める。もう相当に寒いのに、寒がる様子ひとつ見せない。色白という形容よりも大分青ざめた素肌は、冷気のためではなく、常のことだった。
 少しばかりの沈黙の後、再びシドニーは口を開いた。
「敢えて理由をつけるとすれば、リスクの問題だな。直接国王を弑し奉るはかなり骨が折れる。腺病質な王様の傍に近付く前に蜂の巣だ。それに」
「それに?」
 ハーディンは続きを促した。懐疑の声音で訊き返してもシドニーは素知らぬ顔で同じことを言うだろう。胸の内、呑み込むことのできなかったシドニーの言葉が居心地悪げに転がっている。
「『仲間達』はおまえの想像よりも力をつけている。彼らの力を借りるのも悪くはあるまい?」
 言葉の塊はまた音を立て転がった。
 ──本当か。
 ハーディンは再度問い質そうとしたが、突き刺すような視線に口を噤んだ。シドニーが己を見ている。見透かすような、それでいてやはりこの世の何処をも映していないような瞳。幻惑の眼。
 この瞳にハーディンは弱かった。彼だけではない、シドニーを慕う者は勿論そうであったし、忌み厭う者とて例外ではなかった。底無しの沼に足を踏み入れたように、足掻けば足掻くほど、より深く魅入られてしまうのだ。
「結局、理由はないのさ。……帰るぞ」
 シドニーは呟き、外套を羽織ると友人との距離をさらに詰めた。組んだ腕を鋼のガントレットでつつき、次いで己の肩をつつく。
 先刻まで熱心に教義を説き、信徒達を魅了し、謀殺を命じていたはずの若き教祖は、結果を待たずにこの場を去るつもりであるらしい。急速に興味を失ったような、与えられた玩具に飽きた子どものような顔をシドニーはしていた。もうカロンノの尖塔を見やろうともしない。
 無関心。ハーディンは少なからず混乱していた。けして短い付き合いではないはずなのだが振り回されるばかり。すべて計算しているように見えて気まぐれだけで動いているように見える。しかし、反対に気まぐれのような行動と思った事柄が、実際には綿密な計算に基いて──それを「啓示」と称しているのかもしれない──動いているようにもやはり見える。
 シドニーをハーディンはじっと見下ろした。今回の件ははたして計算か、気まぐれか、それとも「依頼」か。だが、凝視しようと表情ひとつ変えぬシドニーを相手にしたところで、どれほど時を費やそうともその真意を図ることは難く、途中で匙を投げた。匙を投げ、そうして再度空を見上げた。
 吹き飛ばされた雲の隙間から僅かに陽が射し込む。狂い降りの雪が止むことはなく、再び空を覆わんとする雲を風は運び続けている。葉と枝を落とした裸の木々が白く己を染めるのも、もう遠い未来ではない。
 見下ろす街もまた、冬の色に染め上げられようとしている。
 複雑な思いを胸にハーディンはシドニーの肩に手をかけた。あの信徒達はうまくやるだろうか。それとも。
 細肩の重みを確認し、シドニーが移動呪文を詠唱し始める。少しずつ風景が溶け出し、感覚がぼやけ、意識が四散していくのに身を任せながら、ハーディンは男達が向かった塔を──、カロンノを見やった。
 故に、彼は気付かなかった。無関心の素振りを見せた術者もまた同じように尖塔を見据えていたことを。

 転移の術とは異なったまじないを唇が結んだことを。