HEAL FOR HEEL

QUIET MOMENT

 古に刻まれし声を。
 
 空を染め上げた黄昏色が夜の藍色へと変化を遂げる頃、馬車は落葉樹の森を抜け、主の帰宅に合わせ開かれた門をくぐった。
 慣れた手つきで玄関の間のあたりで馬を停め、御者が車の扉を開ける。次いで、迎えに出ていた従者のひとりが足置きを具合良く置いた。
 そうしてすべての準備が整ったのを見計らい、主はその老身を引き上げるように馬車より降りた。頬を撫でる宵の風はほどよく冷たく、吐息でこもった車中で息苦しさを訴えた肺に新鮮な空気を与えた。
「お戻りなされませ」
 常のように口数少なく主──アルドゥス・バイロン・バルドルバ公爵──を迎えた執事に彼は頷いてみせた。それもやはり、常のことだった。
 役目を果たした馬車は再び乗り込んだ御者によって遠くその場を離れていく。それを合図としたのか、執事は戻ったばかりのアルドゥスの傍らに立ち、不在の間の報告をした。
 既にアルドゥスは歩を進めている。貴人の住まう館にしては無骨だが頑健な扉をくぐった主より数歩遅れて執事もまた扉をくぐった。
「グラファ様、キッテル様より親書が届いております。また、ペルマロウ様の御使者がお会いになりたいとお待ちです。そして……」
「そして?」
 ふと低くなった執事の声にアルドゥスは立ち止まり、振り返った。視線の先、執事は二度三度辺りを注意深く見まわすと、彼とアルドゥス以外は聞き取れない程の声で言葉の続きを告げた。
「シドニー様がお見えです」
「……シドニーが?」
「書物を幾つか御覧になりたいと仰られましたので、図書室の方に御案内しましたが」
 自分の判断の是非を問うような視線を執事は投げたが、アルドゥスは頓着しなかった。だが、執務室へと向けられたはずの足は、言葉を受けたためか階段へとその方向を変える。
 二階の東の端に図書室はあるのだった。
「……客人には半刻ほど後に参るとお伝えしろ」
「分かりました。では、そのように」
 振り返ることもなく階段を上り始めた主の背に、執事は深々と一礼する。主の足音は敷き詰められた絨毯に吸い取られ、鈍く微かに彼の耳に届いた。

 今は静謐に眠る過去よ。
 己の問いを聞きとどけたまえ。
 今はこの器に眠る古よ。
 古に刻まれし声よ。
 今は闇に沈みしその想いを我に聞かせたまえ……。

 扉は僅かに開かれていた。
 隙間より流れ出る空気は他のどのような感覚よりも鋭く、室中の人物が何者かであるかをアルドゥスに囁く。古びた書物の黴びくさい匂いに混じるそれは、彼もまた持ち得るもの。
 取手に手をかけるまでもなく扉を押しやると、彼の立っていた廊下と室はひとつに繋がれる。アルドゥスはそのまま室の中へと歩を進めた。古い石畳に足音が響いた。
 代々受け継がれ、長い月日の最中に足されていった蔵書は今やこの室を埋め尽くすほどだった。元より高く設計された天井にも迫る勢いの書物を眺めるついでの如く、書の持ち主は周囲を見まわした。
 執事の言っていた人物はそうした所作の過程で視界に入った。室のやや隅、備え付けられたあかりのもたらす光も届かぬようなところで男が一人、梯子に腰掛けたままの姿勢で書物に没頭している。
 男は、名をシドニー・ロスタロットといった。少なくとも彼はアルドゥスにそう名乗り、アルドゥスもまたこれを受け容れた。
 この邸に出入りするようになったのは今より数年前のこと。霧の中より現れ、闇に紛れ去っていくのが常のような男なれば、このように悠然と姿を表すのは珍しいことといえた。
 アルドゥスはそのような役目こそを男へ託していた。そのための存在だった。
 その実、男はアルドゥスにとりもっとも近しい存在でもある。だが、この事実を知り得る者はそう多くはない。あの執事だとて正確には知り得ず、また、今この室にいる両者にとってみても、それはさして重みを持たない事実のひとつに過ぎなかった。
 そのように少なくとも彼らは意識していた。むしろ、意識するあまりに感覚が麻痺しているのかもしれなかったが。
 アルドゥスは無言のまま暫し戸口に佇んでいたが、やがて口を開いた。
「……珍しいな」
 訪いを指した短い言葉は、重々しくも埃臭い空気に溶けていく。言葉を吐いた本人は返答をまるで期待していなかったが、数呼吸の後に応えがあった。
「酔狂者、とあの執事に愚痴を言われたからな」
 頁を繰り、書から目も離さずにシドニーは淡々と、しかしどこか愉快そうに言った。
「酔狂者」
 思わずアルドゥスは目を丸くし、復唱した。それで合点がいった。シドニーの訪問と同様、珍しいと思っていたことがもうひとつあったのだった。
 シドニーは常の奇妙な格好ではなく──無論あれにも厳粛なる意味付けがあるのだが──、上質の布で仕立てた背広を身につけていた。髪もひとつに結わえてあるため、受ける印象は常とまるで異なる。
 執事には潔癖症なところがあるのを、主であるアルドゥスは知っている。そんな執事がただでさえ胡散臭い風情のあるシドニーを快くは思っていないだろうことは、容易に想像がついた。
 それが酔狂者という言葉と結びついただろうことも。
 言葉を真に受けたのではなく、むしろ逆の意でこのような行動にシドニーは出たのだろうとアルドゥスは推測した。この青年にはそのようなところがある。
 室に再び沈黙が流れる。頁を繰る音も、目当ての記述を見つけたのか今は途絶えている。巧緻な模様を彫りこんだ扉に凭れアルドゥスはその様子を眺めた。
 不思議に落ち着いた空気が流れる。今に生きる者を包み込んでなお、古に沈んでいくような感覚がこの空間にはあった。
「暗くは、ないか?」
 ふと思い出し、アルドゥスはシドニーに問うた。書を読むにこの室のあかりは乏しい。ましてや、シドニーのいる付近などは字を読み取ることも難いのではと思ったのだった。
 問われ、シドニーは顔を上げた。丁寧に作り上げられた陶器人形のような顔をアルドゥスに向け、おもむろに口を開いた。
「目は必要ない。読むのではなく、見るのではなく、聞けばいいのだから」
 やはり醒めた口調で彼は言い、念を押すような視線をアルドゥスに投げかけた。
「……そうだな」
 一拍の後にアルドゥスは頷く。壁の灯火が僅かに揺らいだ。
 頁を繰ると、書に手を当てシドニーは瞑目した。
「俺は公爵、あんたみたいに『すべて』を知っている訳じゃない。だが、聞くことはできる」
 言葉に、今度は心の内でアルドゥスは頷いた。実際、シドニーには不思議な力をその細身に秘めており、「聞く」と彼が語ったこともそのひとつだった。それはアルドゥスも解している。誰よりも深く。
 不思議な力……遥か古に滅したとされる魔の力をこの若者に与えたのは、ほかでもない彼自身なのだから。
 今より二十年ほど前の出来事。
 魔の知識を持ち合わせていた男は、己の欲望のために生まれたばかりの赤子に魔の洗礼を受けさせた。赤子は内に入りし魔にその身を喰われそうになりながらも奇跡的に生き長らえ、成長した後は魔を自在に操るようになった。
「……何を聞くというのだ?」
 不穏な言葉の響きに父は再度、子に問うた。魔の力を用い、古の魔導師達に何を聞こうというのか。
 強大なる魔法の在処か。魔の更なる希求か。
「さて?」
 だが、シドニーは肩を竦め、問いをかわした。答えるつもりもないのだろう、伏せられた瞼には微かに拒絶の色が。
 時を告げる鐘の音が、離れの聖堂より聞こえてくる。
 アルドゥスはひとつ溜息をつくと扉に凭れさせていた身を起こし、室を出るべく踵を返した。客人へ約束した刻限が近づいている。
「少なくとも、あんたの考えているようなことを聞いたりはしないさ」
 向けた背に、声が飛んだ。
 振り返ると、伏せられていたはずの眼差しはアルドゥスを捉えている。が、老人が振り返ったことを確認すると、それは不意に和らいだ。
「体を労れよ」
 告げられ、アルドゥスは僅かに目を見開いた。予想もし得なかった言葉だった。
「……分かっておる」
 だが、言葉に彼はただそれだけを返した。表情をつくり重々しく頷いて見せた後、室を出た。

 去っていく足音はやはり絨毯に吸い取られ、鈍く微かに残った音も鐘音の余韻にかき消されていく。
 残された者はしばらくそれらの音に耳を傾けていたが、やがて、手にしていた書を元の位置へ戻すと梯子を飛び降りた。

 石畳に、足音は響かなかった。