HEAL FOR HEEL

4.

 暗く湿ったこの通路が何処から通じ、何処に通じているかなど、知る者はもはやない。
 滅びたどこぞの街の其処彼処と同じように、その場に人の気配などはなく、時折、水滴の落ちる音が響くのみ。
 通るのは、せいぜい鼠か何かといった具合だ。それすらも滅多に通らず、通ったとしても長くは留まらない。そうしてこの場は捨ておかれる。じとじとと嫌な臭いの空気が立ち込めたまま。
 故に、場の空気が流れ出し風を作り出したことを、真暗闇に仄かに光が浮かんだことを知る者はなかった。
 水気を多分に含んだ粒子が揺れ、僅かの間。
 仄かな光が寄り添い、ひとつの影を生み出したことを知る者はなかった。


 付けられたあかりに、落日を迎えたのだと男は気付いた。
 晩秋の日暮れは早い。陽射しが翳ったかと思ったか思わぬかのうちに、太陽は山の端に隠れてしまう。あかりは、これから訪れる長夜の慰めという役割を果たすべく、心得た執事によってひっそりと控えめに付けられていた。
 病床から窓を見やると、ざわめく風に乗せられて、千切れた雲が幾つも流されていくのが見える。明日の朝には夜風に吹かれ落ちた葉が森を厚く覆っているに違いない。
 繰り返す呼吸のたびに肺が軋み、皺の刻まれた顔が僅かに歪んだ。
 男は病んでいた。病は、濡れた真綿で縊るが如く緩慢に、しかし確実に男の老いた体を蝕んでいる。誰が見ても、男の命が間もなく終焉を迎えようとしているのは明らかだった。
 だが、空気の如く纏った威厳は翳りなど微塵も見せず、男の眼光は病を得る前と同様に常に鋭い。常に世の動きに目を光らせ、己の利となるよう事を謀る。病は彼の前に意味を為さなかった。
 時折、飛んだ小枝が窓を叩きでもしたか、こつこつと音を立てる。誰の訪いもない僅かな間、男は窓越しに暗く染まった空を眺めた。
 こつこつと音は響き、不意に止む。そしてまた。鋼の擦れるような音を伴わせて。
 次第に大きくなる音に、男はうっそりと目線を変えると、黙したまま真正面を見据えた。
 ――繰り返しの音が、男の背後でぴたりと止まった。

 問いかけるような、視線。
 決断の、声色。

 秘密通路の始点は、邸の主の寝室だった。
 遥か昔に仕掛けられたからくりを慣れた手つきで解き、シドニーは室に入った。張り巡らされた緞子の隙間からかすかにあかりが差し込んでいる。
 緞子を挟んだ向こう側には、床に臥した男がひとり。邸の主であるアルドゥス・バイロン・バルドルバ公爵の気配のみが、その場にはあった。
 気配を肌で感じ取りつつ、常のように小部屋の内へ歩を進める。毛足の長い絨毯が彼の足音を吸い込んだ。
 霧より現れ、闇に紛れ消える者。
 主である公爵がそう評したように――そしてそう定めたように――、彼の訪いは常に隠されたものであり、同時にそうあるべきものだった。中世の昔に役目を終えた秘密通路やこの隠し小部屋が使われるようになったのも、そのような理由からだ。
 公爵の前に彼が姿を現すことなど、滅多になく。
 数歩、足を進め立ち止まり、豪奢に垂れ下がった緞子に背を向ける。緞子の先には公爵の臥す寝台があった。
 互いの顔色を両者は必要としない。必要なのは、言葉のみ。血の通わぬ、冷えた言葉だけが絶対であり、重要だった。魔と血で繋がれた者達にはそれで事足りた。
 故に、シドニーは公爵の言葉を待った。自分で話を切り出すような真似はしない。男に語りかける言葉を持ち得ず、新たに用意するつもりもなかった。呼び出したのは公爵であり、自分ではないのだ。
 だが、公爵の考えと言葉は容易に想像がつく。己が常のように闇の内より現れたように、男もまた常のように淡々と命を下すのだろう。
 敵対する勢力の調整か。野望猛々しい者への牽制か。口封じの抹殺を望むか。
 或いは。
 魔の拡大か。独占のための新たな策か。
 ――欲望に凝り固まった命。
 生臭い言葉をシドニーは待ち続けた。彼の内なる想いや、街の意思などはこの場では何の力も持ち得ない。口を噤み、緞子の襞を嘲りと侮蔑の色で睨み、命を待った。
 待った。時を。言葉を。
 風に振り回されざわめく木立の音。油を吸い上げたランプの芯の焼ける音。何処に据えられているのか、時計の針の触れる音。揃わない呼吸音。……それらばかりが耳を撫ぜ、意識を夜の闇へと押し込もうとするのをやんわりと拒み、ただ待った。
 長い沈黙が漂う。訪問をとうに知り得ているはずの公爵は、羽根枕を支えに身を起こしたままじっと動かない。緞子の影には目もくれず、真正面を見据えたままだ。
 薄闇と沈黙に時の感覚は狂い、どれほど時が過ぎたものやら、シドニーは次第に焦れた。
 ――何をもったいぶっているのか。
 欲に塗れた言葉を繰り出すのではなかったか。気配ひとつ揺らさず、己の身も省みずに冷酷で身勝手な言葉を投げるのではないのか。呆れ、眉を顰める。
 そうして長の沈黙に耐えかね、彼が口を開きかけた時。
「……すべてを無に還すのだ。このまま」
 息を吸い込むような音が聞こえ、緞子越しに独白のような言葉が投げられた。
 シドニーは、目を見開いた。


 確かに言葉は投げられた。繰り出された。まったく予想もし得ない言葉が。科白が。
 ――何と、言った?
 耳を疑った。その場に立ち尽くし、空転する思考に問い返す。あの男は今、何と言ったのだ?
 ――すべてを無に還せ、だと?
 瞬間、喉は乾上がり、血の気が失せた。問い返そうとしても唇が言葉を形作らない。詰め寄りたい衝動を抑え、シドニーは棒のように立ち尽くした。
 すべてとは、魔。魔こそが男のすべてだった。古に栄え、滅びたものを復活させ、支配した。そうすることによって富も権力も手に入れた。それを今、男は手放すという。
 俄かには信じ難かった。当惑した。あれほどしがみついてきたものをあっさりと手放すつもりであるらしい男の心の内について。男の言を信じ難く思った己の心の内について。
 再び空いた間に唇を湿らせる。問いを重ねるべきとは思ったが、シドニーは問わなかった。己の心を隠し、言葉を返すには時間を要した。
 何故。
 再び訪れた沈黙に思いが巡る。先が見え、怖くなったか? 死の間際に罪を清算したくなったのか? それとも?
 魔に魅入られながら、街の望みを耳にしたのか。己しか知り得ないはずの咆哮を、この場にいながら聞いたというのか。
 氷を懐に落としたような感覚。だが、他方では何も感じずに――それこそ常の命と同じように――受け止めた自分がいる。何故、戸惑うのか? 心の内、多少なりとも動揺した己にそう問うた思考は、瞳を無垢に揺らす幼子の形をしていた。
 ――それは。
「力は……魔都に眠る所産は誰にも渡しはせん。この世から葬り去る」
 シドニーの思考を遮るかのように、公爵は言葉を継いだ。沈みかけた意識を引き戻し、青年はそれを聞く。
 魔を消す。公爵は語った。後の世には継承させず、己の身の滅ぶまま消滅させる。開きかけた円環は閉じられ、魔に手を伸ばしかけた者に奪われることもない。
 時を戻し、結界を壊し、街を眠らせるのだ。望むままに。
 低く呟かれる科白は、命ではなかった。命と呼べるものではなかった。言葉の中身を果たすために、シドニーが動くべき事柄は何ひとつなかった。
 何もする必要はない。ただ時を待てば、すべては終わる。
 魔を手に入れ、魔都を支配した男が――真の所有者たる公爵が――生を終えれば、それで魔は滅んでしまうのだ。寄せる存在が消滅すれば、魔は行き場をなくし闇に消え失せる。病に冒された男が死んだ時、魔は。
 何故、話す必要がある。シドニーは歯噛みした。牽制か。己に、朽ちるまでの火の粉を払えとでもいうのか。弱り、魔が喰い尽そうとしているこの身で。
 ――何もかもが足りないのに?
 幾重にも波打った緞子の襞を睨み、思わず舌を鳴らした。どこかの何かが痛んだような気がしたが、敢えて気付かぬふりをした。
「……無理なことを言う」
 ひとつ息を吐き、男の気配にシドニーは言った。腕を組み、考える素振りで科白を繋ぐ。
 命ではない命を聞くとしても。
「今の状況を知って言っているのか? 魔を欲している輩は大勢いる……あんたがせっせと餌を撒いたんだ、連中の目にはさぞ美味なる獲物に映っているだろうさ」
 故に。
「奴等にとっては格好の契機となるな。生臭坊主どもも、あんたの大事な飼い犬も周到に準備を進めてきた……、そんな中でただ時を待つと?」
 吐き捨てた科白に、返事はなかった。
 そのかわり、科白は室をめぐり、そのままシドニーの胸へと飛び込んできた。科白は、心密かに魔を手放したいと願った己自身に対する答でもあった。
 魔を棄て、心穏やかに眠りに――。街の願いを日毎聞き、己の想いを重ね合わせ、しかしその想いすら拒絶した。現実にはあり得ないと思いなし、空想の内に遊んだのは。
 ――不可能だと知っていたからだ。
 徐々に朽ちていく躰。時が経てば経つほど魔は己を嘲り、喰い尽そうとする。そのような中で、終焉を迎えるのは不可能だと知っていたからこそ。
 真円を描けぬ歪な不死者に安寧の時はない。生の瞬間も死の瞬間も翻弄され、邪な者に襲われ、そうして何処かに墜ちていく。魔の消滅を願えば願うほど、その想いは逆流する。……それが「魂」を差し出しきれなかった者が負うさだめであり、罰であったはずだ。
 奪われた魔はどうなるだろうか? 答は明らかだ。魔は生きた魂を好む。欲に塗れ、盲となった魂こそを好む。強奪者が胸を高鳴らせ、魔へ語りかけた瞬間に魔はその者へ牙を剥くだろう。そうして数多の只人が辿ってきた道筋と同じように、奪者は魔に喰われ、魔は完全なものとなる。終末の時が来るのだ。
 魔にしがみつき、魔に蝕まれた者は魔そのものの消滅を願えない。少なくとも、今は。願えども、それが叶う余地は少したりとてないのだ。滅びゆく躰と時間がすべてを許さない。
 故に。
 歪な不死者が己の末路に為すべきことは、ただひとつ。
 真円に戻すことこそが。
「魔の継承を」
 最後通牒のような響きで、シドニーは言い放った。そのような言い方しか彼にはできなかった。
 それが考えられ得る最良の術であったから。
 ――命であるならば。行く末を定めるのならば。
「それが願いならば聞くことだ。今はできない。無理だ。分かるな? 魔の継承を。魔を移し、真の継承を果たして付け狙う連中を排除する。それからでも遅くは」
「……継承はせん」
 老人は我が子の言を拒んだ。最後まで待たずに遮られ、何処にも引っかからずに受け容れられず拒まれた言葉は宙に浮き、瞬く間に掻き消えた。
「誰にも継がせはせん。無論、お前にもこの力は渡さない。受け継がせはしない。……残念か?」
「……!」
 億劫そうな声色の拒絶。
 だが、シドニーを打ったのは、拒絶よりもその先の科白だった。鋼の拳を食い込むほどに――人のそれであったなら赤い血が流れたに違いない――にぎり、彼はその衝撃に耐えた。
 ――まさか。
 鈍器で殴られたような、胃の腑を引っくり返したような感覚に何もかもがぐらぐらする。止んだ風のもたらす静寂が耳を貫く。一瞬であり永遠であるような時間に、老公爵の放った言葉がぐるぐると円を描いた。歪で終わりのない円を。
 恐ろしいほどの静寂。そして、沈黙。
 冷え込んでいく空間。
 数瞬後、シドニーは隠し小部屋を出た。追い払うが如く、音を立て閉まったからくり扉に悪態をつき、真暗闇を進んだ。
 ――まさか。
 進みながら今一度、否定する。誰が何を望んでいるというのだ。今更これ以上の魔を手に入れて一体どうしようというのだ。それは己の望みと到底かけ離れたもの。まるで正反対の事柄。
 胸に渦巻くのは、絶望か。憤怒か。頼りない自嘲の笑みか。混濁し、何者にもなれぬ自分自身か。
 不意に止まり、固めたままの拳で湿った石壁を殴る。誰も聞かぬ、誰も通らぬ忘れ去られた空間に金属音は響き、余韻の漂う前に次の音に音が掻き消されていく。言い表せぬ想いをぶつけるように強く、強く。光が寄り添い彼を包み、何処かへ連れていくその瞬間まで、音は続いた。
 そして唐突に訪れた静寂。
 叩きつけた石壁に血は付かず、散った魔だけが僅かに残った。

 
 剣で石を斬るようなかすかな音に閉じていた瞼を開き、男は息をついた。
 傍らの卓に手を伸ばし、飴色の卓鈴をとる。小ぶりなそれを数回鳴らすと、瞬きもせぬ間に執事が現れた。
 緩く握った鈴をそのまま数度撫ぜ、男は再び目を閉じた。そうして何かを思い出すような、懐かしむような声色で命を繰り出した。
「……絵師を。肖像画を描いた絵師を呼ぶのだ」
 再び吹きだした風に、あかりが揺れた。