Juvabit

「俺が言っていいことではないと思うが」
 斜向いに座る男がそう切り出したので、バルマウフラは彼の幼馴染に目で問いかけた。なんとなく、男の声色が懺悔のようにも聞こえたからだ。
 彼の幼馴染は少し遠い目をして、それから微笑んだ。その表情にも、何か特別なことを男は言うのだとバルマウフラには思えた。
 長の年月を経て、再会した。そうして、今は卓を囲んで語り合っている。酒は男の誕生月の葡萄酒、肴はこれまでそれぞれが辿ってきた道行き──既に知っていることも、初めて聞いたこともある、そんな昔話。懐かしさに目を細めて聞き、そして話した。時には笑い、時にはしんみりと。
 一通り話し尽くしてしまい、沈黙が降りる。気まずくはなかったが、不思議な心地よさがあった。
 ──いつか、これらのことを思い出すことも。
 その心地よさに、バルマウフラは過去に抱いた感情と詩の一節を思い出した。かつて、かの人が書き留めていた詩の一節。それが不意に頭に浮かんだ。
 男が切り出したのは、そんな頃合いだった。
「何かしら? ディリータ」
 ともすれば感慨に耽ってしまいそうな心を現に戻し、その昔には同僚だった男──ディリータをバルマウフラは見つめた。僅かに顔をしかめて言いよどむディリータに、ゆったりと笑いかける。
 特別なこと。だが、それが何なのかバルマウフラには既に分かっていた。
 ……きっと、それは。
「欲張りになろうと思ったことは、なかったか」
 指を組み、卓に肘をついてディリータがぽつりと言う。見つめられるのが苦しかったのだろう、彼は視線を少しばかり落とした。
 いつも前だけを見据えて突き進んでいた、そんな姿ばかり見ていたあの頃とは違う。夢物語を当然の顔で語る、そんな男に昏い怒りを抱いていたあの頃とは違う。
 言葉の、表情の、声色の、その意味。彼がここまで抱いてきた特別な──誰にも話すことなく心の奥底に眠らせていたのだろう想いが、それらには表れていた。
 誰にも話せずに、幾度も季節を廻らせて。
「あるわよ、それは勿論」
 だから、ディリータの謎掛けのような問いにバルマウフラは素直に答えた。
「あの人があの本を書いて……それが何を引き起こすかなんて分かりきっていたわ。未来に何が待っているかなんて、きっと誰にでも考えつくことだった」
 真実を探りたい、突き止めたい。でも、立ち竦むこともあるかもしれない。だから、見ていてほしい。──そんなふうに言われた日があった。己の未来を感じた日だった。
 真実を伝えたい。後の世に残し、誰かに知ってもらいたい。──そんなふうに言われた日があった。彼の未来が潰えるさまを見た日だった。
 いや、彼が……オーランが今この場にいれば、それは誤りだと言うだろう。自らの望みを叶えると君に誓った日だと、そうして笑うに違いない。あの人はそういう人だった。
 でも。
「そうね、本を書いて、世に出して。その先にどんな未来があれば、あの人は満足だったのかしらね」
 教会を、国を屈服させたいという望みは一度も聞いたことがなかった。真実を残したいが、今すぐ認めてほしいとは願っていなかった。教会が白旗を上げてすべてを認める、そんなことはありえないと端から諦めていた。……あったかもしれない可能性を、未来を、命を諦めてしまった。抗わなかった。
「名声とか、地位とか。そんなものは本当にどうでもよかっただろうね」
 ラムザの言葉に、バルマウフラは頷いた。もし、支援者に操られるのを良しとしていたならば彼は今も生きていたかもしれないとも思う。だが、自分はそんな彼と共に歩みはしなかっただろう。短くはなかったが、長くもない日々のなかで苦悩を見ることもなかっただろう。
 ……勿論、共に在りたかったという想いは今もあるけれど。
 星の名も、真実の欠片も知ることもなく。
 宵闇の空を、異国で見上げることもなく。
「信念というのかしら、想いはすべて聞いたと思うわ。もっと遠くの未来を見ていたことも知っていた。でも、結局は灰になって消えたのでしょう? 本も、あの人も。これだけが残って」
 ペンダントに下げた指輪をバルマウフラはそっと撫でた。今も煤けたままの指輪は、あのとき飼鳥が海を渡って運んできたものだ。
「……。……そうだな」
「ディリータ」
 長い沈黙を経て呟いたディリータを見やって、ラムザが名を呼んだ。どこか咎めの響きを帯びたその声にバルマウフラは苦笑する。再会してからここまで、彼らは何度も同じようなやり取りをしたのだろう。想像することは難しくなかった。
 そういえば。バルマウフラはオーランの言葉を思い出した。──奴は随分と自罰的になった。ひとりですべてを背負い込んでいるような顔をしていたよ。
 誰にも見えぬ仮面をつけていると言っていた。戦のさなか、自信たっぷりに振る舞っていた姿のその延長線上に仮面はあるのだと。だが、偶然垣間見た表情は思い詰めたようなそれで。
 その話を聞いたとき、なんとなく分かるような気がした。彼らしい、とまでは思えなかったが。
 いずれにせよ、今もそんな調子で何もかもを背負う癖は抜けないでいるのだろう。勿論、最終的には自らが業火の向こうに追いやった真実の究明者のことも。
「──いつかこれらのことを思い出すことも、喜びとなるだろう」
 思い出した詩を唇に乗せ、バルマウフラは二人を見た。唐突な言葉にどちらもが面食らったような顔をしたが、そんな二人に微笑む。
「ずっとこの意味がよく分からなかったわ。悲しいことや悔しいことが喜びに変わるだなんて思えなかった。そうしてしまう自分が許せない気持ちもあって……でも少しずつ何かが変わっていって」
 思い出はそのままに。最後には素直に向き合うこともできた想いもそのままに。それでも、消えていったものや変わったものはあって。
 そうして、その先には。
「今は優しい記憶になっている。まあ、そう仕向けたのはあの人ね」
「……」
「いつまでも引きずっていても仕方がないのよ。どうしても後悔はあるけれど、楽しかった記憶を思い出すほうが嬉しい」
 バルマウフラの言葉にディリータが何かを言いかけて口を閉ざす。そんな彼をもう一度横目で見て、ラムザが目を細めた。
「同感だね。僕も失った家族に対してはそんなふうに思い出すことにしてるから……。自分を責めても、相手を責めても過去は何も変わらない……変えられはしない。だから、ディリータ」
 ぽん、とラムザがディリータの肩を叩く。
「君にもそんな過去はあると思うよ。そうだね、どうしても思い出せないって言うなら、それなら新しく作ればいい」
 まだ、時間はあるんだから──だからこそ君は王冠と錫杖を手放した。
「……ラムザ」
「何度でも僕は言うからね」
「分かった、分かった」
 そのまま抱いた肩をゆさゆさと揺さぶりだすラムザにディリータが苦笑する。慣れないのだろうその笑みが今の彼らしくて、バルマウフラには面白く思えた。
「すぐに切り替えるのは無理な相談のようね。頭の螺子をゆっくり緩めて、色々見つめ直すといいわ」
 緩めっぱなしもよくないけれど、と付け足してバルマウフラが片目を瞑ってみせると、ディリータは「当たり前だ」と芝居がかった溜息を返してきた。それから一呼吸置き、背を椅子に預けて目を閉じる。
 何か特別なことを言うのだと、その様子にバルマウフラは思った。

 人間は何に幸福を見いだすのだろうか?
 何のために今を生きるのだろうか?
 そして、何を残せるだろうか……?

 歌うようにディリータが紡いだ懐かしい文言に、バルマウフラは胸を押さえた。「特別なこと」は予想の範疇を超えていた。
 書き留められた詩と共に記された問いかけ。その先にあった想い。
 もう消えてしまった──思い出にしか残らないのだろう、願い。
「それは……」
「もう覚えてしまったな。繰り返し読んでいるうちに」
 目を開き、ディリータが笑う。悪戯をしかけた子供のような目をして、彼はバルマウフラを見つめた。
「幸せの在処も生きる意義も、あの男の胸の内にはあったのだろうが、結局は灰に消えた。そして、記憶を携えている俺達もやがては消える。……だが」
 ──いつかこれらのことを思い出すことも、喜びとなるだろう。
「奴の残した想いのひとつは……「真実」はいつか必ず光を見る」
 そう断言すると、ディリータは不思議な仕草をした。指で何かを宙に描き、最後にはそれを掻き消すように手を叩く。
「俺なりの「おまじない」だ」
 虚を突かれた格好になってしまっていたバルマウフラは、ディリータの言葉に我に返った。おまじない、と思わず繰り返して幼子のような声色になった自分に複雑な感情を抱く。
「……なんだか、貴方が言うと違和感がすごいわ」
「でも、かなりのとっておきじゃないかな。ある意味、ディリータらしくもあるけどね」
 取り繕うために言葉を重ねたバルマウフラに嬉しそうに答えたのは、ディリータではなくラムザだった。ディリータはといえば目尻の皺を少し深めて語る幼馴染を雑に小突き、軽く睨んでいる。それ以上何も言うなとでも言いたげな彼の視線は、ラムザの言葉が正しいことを雄弁に語っていた。
 きっと、とバルマウフラは思う。あの「おまじない」は不器用な王様にとっての精一杯だったのだろう。欲張りきれなかった同士だから分かる──人ひとりができることはそう多くはない。
 それだから、ひとりは闇を進んだ。そうして、異形の者から家族と国とを守った。
 それだから、ひとりは光を選んだ。王冠と仮面を手にし、世を平らかにした。
 ……そして、それだからあの人は。
「確かに、そうね。とはいえ、あの人がそこまで見越していたとは思わないけれど……でも」
 ディリータとラムザ、それぞれの視線のやわらかさにバルマウフラは確信する。心の内にずっと抱えていた想いが、目には見えないままにその姿を変えたことを。
 ──いつかこれらのことを思い出すことも。
「喜びは、私だけじゃなく……私達だけじゃなく、あの人にもあるのね」
 時の彼方に、それはきっとあるのだろう。あの頃ではなく、今でもなく、未来に。
 「真実」という名の証が開かれたとき、そのときこそ。
 よかった、とバルマウフラは吐息混じりに呟いた。何よりも自分の心に忠実であれ、そう誓わせたときのかの人のまなざしを思い出す。苦悶の色を浮かべて机に向かっていたときの背中を思い出す。心を曝け出したときの腕の中の温かさを、そうして。
 報われるのだと思う。彼の願いが、心が。少しばかり切ない、そう思ってしまった自分の心も。
 時の彼方で、それはきっと。
「ああ。もっとも、それだけがすべてじゃない」
 続けたディリータに、バルマウフラは首を傾げた。
「すべてじゃない?」
「奴は俺に惚気けてきて……こちらが砂を吐きそうになることもあった。そこにいる、どこかの誰かと同じような具合に延々と「如何に自分が幸せか」を語って寄越した」
 くい、と親指でラムザを指差すと、ディリータは腕を組んだ。うんざりといった具合の幼馴染の表情に、ひどいなあ、とラムザが笑う。
「そりゃそうだよ。だって、幸せなんだもの」
「程度というものがあるだろう。お前も、あの男も、本当に……」
 ぶつくさとディリータが愚痴り出す。その姿にバルマウフラは瞬きを繰り返したが、口をついて出たのは「待って」という短い言葉だった。
「待って、どういうこと?」
 そんな話は聞いていない。確かに、かの人は呆れるほどに言葉を尽くしてきた。いっそ、鬱陶しいほどに。
 だが、それが他人にも聞かれていたとは思ってもいなかった。
「どうもこうも、言葉通りだ。俺にとってはいい迷惑だったが、つまり」
 大きな溜息をつき、ディリータは言葉を区切った。ちら、とこちらを見やり、意味ありげな笑みを見せる。
「奴にとって、幸せは「真実」とやらの他にもあった。違う類の──比べても仕方がない類の幸せは確かにあって、それらは奴の心の内で矛盾もせずに共生していた。……あれほど聞かせられたら、そんなことは誰にでも分かる」
 胸焼けがしたものだ、そう締められたディリータの言葉にバルマウフラは頬が熱くなるのを感じた。若い頃でもあるまいし動揺する必要などないと思ったが、こればかりは気性だから仕方がない。
 ──まったく、あの人は。
 身の内にあるのは、呆れまじりの愉快な怒りだった。この場にかの人がいたならば、叱り飛ばしていただろう。
 そうして、それから。
「本当に、本当に馬鹿ね。ディリータ、あの人は──オーランはいったい何を言っていたの。教えなさい」
 有無を言わせない口調で命じたバルマウフラに、ディリータが笑った。
「聞きたいか?」
「勿論よ。事と次第によってはとっちめてやるんだから」
 煤けた指輪を撫で、バルマウフラは決意を固めた。時の彼方までいつか追いかけて、かの人が振り返ったなら、そのときは。
 ──そのときは、きっと。
 分かった、とディリータが頷き、ラムザが笑いながら次の葡萄酒の栓を開ける。
「とっちめる、というのとは違うだろう。……そうだな、抱きしめてもらえ」
「勿論よ」
 昔だったら想像もできなかったディリータの言葉に、バルマウフラは即答した。


 長き夜。
 追憶の色をした過去。
 いつかは、と願う心で、今はかわりにそれを抱きしめて。

 長き夜。
 透明な光の向こうの未来。
 いつかは、と願う心のままに、想いはすべて時の彼方に。

あとがき

バルマウフラとディリータとラムザの思い出話である本作は、今まで書いてきた話のカケラを前提というか下敷きにして書いたものとなっています。そんなわけで、過去作品をお読みになっているとさらに楽しめる仕様なのですが、できるだけ寄りかからないようにしつつ、でも途中から諦めモードにもなりつつ…こういう話を書きたいなと前々から思っていたものを書けたので、よかったと思っています。

ちなみに、本作の主な関連作品は以下の通りとなります。もしよろしければ、こちらも合わせてお楽しみいただければと思います。

2021.07.25