White Fire

 春まだ浅い空の色はどこか頼りなげで。
 不安になって、彼は一声「クゥ」と鳴くと自身の翼に力を込めた。
 風に流され筋状に伸びる雲も。陽の光に色濃く反射する海も。
 時折姿を見せる彼の仲間達さえも、彼の視界には入らない。

 しっかりと、前だけを見据える彼の脳裏に焼き付いているのは──、イヴァリース。
 自分が生まれ育った場所……そして育ててくれた人のいる地。
 見慣れた大地の姿は、まだ、ない。あるのは先程と同じ空と雲と海、そして陽の光。

 それでも自分は知っている、この方角こそが目指す地への道。
 すべては、この先にある。彼──セセリ──は知っていた。
 それを見届けるために。自分にすべてを託した人達の代わりに、「真実」のあるべき姿を見送るために。

 彼は再び翼を広げると、強い南風に身を任せた。

Scene 1

「……」
 全てを掻き消すまでに鳴り響く荘厳な鐘の音に、彼はしばし口を閉ざした。閉ざし、そのまま窓の外を見やると先程の鐘の音に驚いたのか、多くの鳥が鐘塔の周りを群れなし飛んでいる。
 ──一羽では何もできない。滑稽だな。
 口の端を歪めさせ、なおも鳥達を彼は見続けた。鳥は、ひとしきり飛び回ると塔の先端や屋根にとまる。一羽の例外もないその動作に、彼は嘲笑したい気分になっていた。
「……アクチノラ伯、アンバー伯、ラズイト子爵……それにフェラト司教が既にこのクレメンスから逃走しています。もうひとり……シリカ司教もまもなく動きを見せるだろうとの報告です」
 やがて全ての鐘の音が静まり返ると、彼と共にこの部屋にいた側近が再び口を開いた。
「……」
 その言葉に彼は何も反応を示さない。故に側近の報告はそのまま続くことになる。
「教会はこれらの諸卿の追跡を開始しました。それと同時に……」
「これでオーラン・デュライはいよいよ孤立無援となったわけだ」
 しかし、側近の報告はややあって遮られた。遮られ、側近は顔を上げる。
 窓の外に広がる青空が、この暗い部屋ではやけに眩しい。
「……はい」
「教会はこの機会を絶対に逃さない」
 側近の視線を無視し、男はなおも窓の外へ目を向ける。
 鳥達はほんの一瞬の間に何処かへ飛んでいったようだった。鐘塔の周りには生を成す者はなく、それが彼の目には死んだ光景となって映る。
「……先程、シェフラー司教より通告がありました。『予定通りに』総会を本日行うとの由」
「……やはりか」
 男はゆっくりと視線を部屋の中へと向けた。なおも臣従の礼をとっている側近の横を素通りすると、しつらえてあった椅子に腰を下ろす。
「逃げ出した者達も捕えられ裁かれることになるだろうが……この一件はそれで終わり、だ」
 冷たい微笑が男の顔に浮かぶ。その冷たさの一端に不可思議な無表情があった。
「……」
 その不可思議さに矛盾を感じ、側近は自分の主を盗み見るようにしばし眺めてみる。
 ──押し殺しているのは、どの感情か?
 「邪魔者」が消えることによる安堵感か。
 「異端者」に対する奇妙な哀れみか。
 それとも、「戦友」への惜別の情か。
 それとも……。
「……何を見ている、ルークス」
 ふいに男は側近──ルークスと呼ばれた男──に目をむけた。先程の不可思議だとも思った表情は消え失せ、無機質で冷たい印象だけがそこには残っていた。
「い、いえ……。……陛下」
「何だ」
 鋭く射抜く矢のような視線が言葉と共に返ってくる。その視線にルークスは臆しながらも言葉を続けた。
「……陛下はどのような答を用意されているのですか」
 聞く必要はないのかもしれない。ルークスは思った。
 目の前にいる自分の主君──若きイヴァリース国王、ディリータ・ハイラルが自分が繰り出した問いにどう答えるか……それを想像するに難くはなかった。
「……」
 ディリータはルークスの問いには答えず、側にあった葡萄酒の瓶に手を伸ばした。陶器の水飲みにそれを注ぎ、軽く唇を湿らせる。ここは教会。葡萄酒の入った酒瓶も、ディリータの手にしている器も華美ではなく質素であり、素朴な代物だった。
「それをお前が知る必要があるのか?」
 しばらくして返ってきた言葉はやはり、ルークスにとって予想通りのものだった。
「……いいえ」
「ならば聞く必要はあるまい。下がれ」
 主君の言にルークスが何か言おうとしたとき、再び鐘が鳴り始めた。空気の震えが窓枠を揺らし、小さな音を立てる。
「……失礼します」
 鐘の音に言葉を奪われる格好になり、ルークスは諦めたように軽く首を振った。立ち上がり、礼をするとそのままその場を辞した。


「答、か」
 壮麗に鐘が鳴り響く中でディリータは小さく呟いた。
 「真実」という、喉元に突きつけられた刃への自分自身の答が全ての運命を左右する。
 だがしかし。
「それを用意するのは俺じゃない……」
 彼は思っていた。「真実」に対する答はもうとっくに出ている。自分の役目は、ただその答を明らかにするのみ。
 このクレメンスの、本来ならば教皇を選出する、ただそれだけの公会議において突如波紋を投げかけたひとつの真実。月日が流れ、誰もが記憶の片隅にだけ留めようとした戦への疑問と語られた事実。
 発言台から発せられたこの告発に多くの者が動揺し、顔色を失くした。平静を装うことができた者など、誰一人としていなかった。
 それは、この国を治める彼とて例外ではなかった。もっとも、その場にいた者の中では最も表情を変えなかったかもしれない。彼はオーランの──、元南天騎士団の参謀として名を馳せた「雷神シドの片腕」オーラン・デュライの背信ともいえる発言に対して、僅かに眉をひそめただけだった。
 公会議は完全に中断し、静寂が支配するはずのこの場──クレメンスの大聖堂──を喧騒が支配する。その光景をイヴァリース国王だけが冷めた目で見つめていた。