Versus

Balmaufra and Orlan

 春雷は、朝の光とともに過ぎ去っていった。

「これだけでいいんですか?」
「そうね、大丈夫だと思うわ。ちょっと壊れやすいものが入っているから……それだけを気をつけてもらえれば」
「分かりました」
 朝一番でやって来た鳥車の御者へ鞄を渡し、旅装のバルマウフラは木々を揺らす風の音に振り向いた。
 昨夜から今朝方まで降っていた雨は幸いなことにもう止んでいて、今は朝の陽光が目に眩しい。春の嵐というべきか、昨晩遅くに雷まで鳴り出したときには予定立てていた明朝の出立も遅くなるかと危うんだが、どうやらこの様子では無事出発できそうだった。
 雨滴をたっぷり含んでいるためか森の息吹も清々しい、とそんなふうにも思う。
「──影響されたかしら?」
 自分の考えが少しばかり森羅万象に基づくものになっていることにはたと気付き、彼女はそっと笑った。昔だったらこんな具合に陽の光や風を感じることもなかったような気もする。
 変わったのか。変えられたのか。やはり影響という名の後者なのだろうか。
「誰にだい?」
「聞こえていたの、オーラン?」
 やがて玄関から現れた人物にバルマウフラは問いかけた。独り言は風に吹かれてどうやら思いのほか響いたらしい。
 くだけた格好のままのオーランは頷いた。人好きのする笑みでもってそうして続ける。
「影響されたかな、とか言っていたね。さて、それは誰にかな?」
「さあね」
 言外に自分だろう、と問いかけた瞳から自分のそれを逸らし、彼女はそっけなく答えようとした。……だが、その答も空に消える。
 ──何も、今日に至ってもこんなやりとりをしなくても。
 もうすぐ……時間が迫ってきているというのに。
「まあ、答は聞かないでおこうか。分かりきっていることだと思うし」
「分かりきっているって何よ」
 言及してこなかったオーランに肩透かしを食らった想いでバルマウフラはもう一度逸らした視線を戻した。だが、オーランの視線は自分のそれとは随分と下にあった。
 今、彼の視線は傍らで展開を見守っていたらしい子供に合わせられていた。この子もバルマウフラと同じように旅装だった。
「いいか、ウィル。母上は今でこそ穏やかで優しいが、昔は結構あんなふうにつっけんどんだったり意地っ張りだったり泣き虫だったりしたんだぞ? 覚えておくんだ」
「ちょっと、オーラン」
「……。それは今も、ではないの?」
 しかし幼子ウィルは、言い含めるようなオーランと呆れた様子のバルマウフラ──ウィルにとってこの二人が両親だ──を見比べてそう首を傾げた。
 その様子にオーランとバルマウフラは顔を見合わせ、一人は大笑し、もう一人は肩を落とした。


 風が吹く。風が吹く。
 木々から振り落とされて小さくなった水滴を跳ね飛ばすかのように風が吹き、滴は空へと消えながら最後の光を戴く。
 きらきらと瞬くそのさまはとても儚くて、ただ綺麗だと思った。
 綺麗だと思えるようになった日があった。
 季節は巡る。春が来て、夏になり、秋を迎え、冬を越え。
 二人だった暮らしに一人加わってまた季節は巡り。
 星を見上げては時が消えるようなそんな日々。
 過去に光を当てては時を消すようなそんな日々。
 それももうすぐ終わる。
 そして、この先には。


 出立前の家族の会話を遮らぬように配慮していたのだろう、鳥御者の男は暫く車の向こう側で煙草を燻らせていたが、やがて時間だと思い定めたのか或いは話に区切りがついたと感じたのか、バルマウフラに再び声をかけた。
「そろそろ時間ですが、よろしいでしょうか?」
「分かったわ」
 履き慣れたブーツと外套を確かめながらバルマウフラは短く答えた。次いで、ウィルの旅装も手早く確かめる。
 少し外套の紐が緩んでいたのでそれだけを結びなおして、ぽんぽんと軽く埃を払った。
 いよいよ別れの時が迫ろうとしていた。
 旅装の二人はこれからイヴァリースを出、一路オルダリーアを目指す手筈になっている。それから先は分からないが、できるだけ遠くへ。叶うならば海向こうの国まで行く算段も立てていた。その為に欠かせない手形や路銀は既に調達済みだ。
 他方、オーランは。
「公会議でどうなるか……分からないけど。教会が慌てふためく姿は目に浮かぶようよ」
「君らしい物言いだね」
 オーランは苦笑したが、彼女の言を取り消さなかった。
 まもなくクレメンスで開催される公会議にオーランは出席する予定でいた。……一冊の書を携えて。
 過去という名の闇に葬り去られた事実の数々。大地に転がる骸のように風化していくだろう、戦の記憶。
 公開してしまえば間違いなく異端の者として処されるだろう、そんな内容の書を世に放つつもりなのだと、それこそが自身に課された役目なのだと彼は言い、時期を見据えていた。
 それはもうまもなく。……彼がこの世から去る心積もりでいる時はもうまもなくに。
 バルマウフラには彼を止めることはできなかった。莫迦なことを、と大声で怒鳴り散らして睨み付けたこともあったが、彼の目は穏やかなまま。だからこそ本気なのだと窺い知ることができたが。
「忘れ物はない?」
「多分ないと思うわ。用意してもらった手形や路銀のほかに……ウィルの本と星の早見盤と望遠鏡。旅の最中で壊れそうな気もするけど……何処かで直せるかしら?」
 小首を傾げると、オーランは多分、と頷いた。
「まあ、ムスタディオに調整を頼んだときに彼はあと数百年は大丈夫と太鼓判を押していたからね。意外と頑丈じゃないかな」
「そう? なら大丈夫ね」
 これでもう繋ぐ話題も途切れた。いい頃合いなのかもしれないと思い、バルマウフラはウィルの背をそっと押す。
「じゃあウィル。オーラン……父上に行ってきますのご挨拶をなさい?」
「うん。父上、行ってきます」
「行ってらっしゃい。母上の言うことをよく聞くんだよ?」
 素直に挨拶をしたウィルにオーランの目が細められる。手を伸ばし、くしゃくしゃと子の頭を撫ぜた。
「はーい」
 くすぐったそうに幼子が笑う。そうしてひとしきり笑うと、ウィルはバルマウフラを見上げた。
「母上も行ってきますのごあいさつを?」
「はいはい」
「はい、は一回だよー」
 誰に似たのか、言い募るウィルに苦笑いを返し、バルマウフラはオーランに向き直る。片膝をついて子供の視線に合わせていたオーランも立ち上がり、彼女を見つめていた。
 すべてを包容するような優しい笑みで。
「……本当に今まで有難う」
 そうして彼はそれだけを言った。
「……こちらこそ。目まぐるしかったけど、悪くはない日々だったと思うわ」
 オーランの言にバルマウフラはうまく返すことができなかった。視線を地面に落としたせいか、言葉も地に落ちる。もしかすると、最後の方は彼には聞き取れなかったかもしれない。
 だが、オーランはそれには何も言わないでくれた。言わず、彼女の腕をとるとすっぽりと抱きしめた。
「元気で」
「……うん」
 小さく頷くと、別れの口付けが寄せられた。


 見送ってくれた男の姿も、仮の棲家ももう見えない。森は小さくなっていく。
「……」
 見るともなしに眺める景色はどこか味気なくてバルマウフラはそっと溜息をついた。
「ねえ、母上」
 他方、飽かず風景を眺め続けるウィルがふと振り返った。
「なに?」
「……ぼく、父上のように母上をまもるからね」
「──」
 幼子にしては強いまなざし。その真剣な表情にバルマウフラは一瞬言葉を失った。
 これからこの子にも辛い現実が降り注ぐ。イヴァリースという故郷を失ったという過去はもはや変えられない。
 そして父にも二度と会えない──。
 それでも幼子は何かを決意したかのように。
「……ありがとう」
 やがて彼女はそれだけを答えた。
 頬を雫が、伝った。