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「今日はここまで、といったところかな。もうお客さんも来ないだろうし」
帳簿をつけていた手を止めて店の主人がかけてきた声に、店番をしていたバルマウフラは丸椅子から立ち上がった。
「そうですね。いつものお客さんは大体来たみたい、ですし」
まだ少し操り慣れない言葉でバルマウフラがそう返すと、主人は人好きのする笑みを浮かべて頷いた。
「ありがとう、バルマウフラ。また明日もお願いするわね」
「分かりました。ありがとう、シャロン」
そうしていつものやり取りをしてバルマウフラが帰り支度を始めたそのとき、扉が開いた。
「ま、間に合いました?」
「あら、ファーリャ。遅かったわね? どうぞ」
頬は上気し、息が切れている。まさしく走ってきたという風情の青年に店の主人であるシャロンが声をかけると、どうも、と言いながら青年ファーリャは店に入った。
新たな客の登場にバルマウフラは丸椅子に座り直すと、彼に声をかけた。
「こんにちは、ファーリャ。いえ、こんばんは、かしら?」
「こんにちは、バルマウフラ」
すうはあと何度か息を整え、ファーリャが笑顔で挨拶を返す。定型文の微笑ましいやり取りを見ていたシャロンは、苦笑して青年を急かした。
「すっかりもう夕方、こんばんはの刻限よ。何か買いに来たのなら早くしなさい。閉めるんだから」
「は、はい。ジェイスの薬草酒はまだありますか?」
ファーリャの注文に、バルマウフラは背後を振り返った。そうして棚に置かれた何本かの酒瓶から一本を取り出すと、ラベルを彼に見せた。
「ありますよ。何本ご入用かしら?」
「じゃあ、二本で」
言われたとおり、もう一本を棚から出す。代金をバルマウフラが告げると、ファーリャはきっちりと言われたとおりの金額をバルマウフラの手に乗せた。
指先が触れる。
「ありがとう、ファーリャ」
「ありがとう、バルマウフラ。今度……あれ?」
酒瓶を受け取ったファーリャが何かに気付いたのか、首を傾げる。その様子を不思議に思ったバルマウフラは彼が注ぐ視線を追った。
視線の先は、自分の手。正確には、左手の薬指にはめた指輪。
「ああ、これ?」
「指輪……していました?」
ファーリャの遠慮がちな問いに、バルマウフラは頷いた。この前からだけど、と付け足したが、彼の耳には届いていないようだった。
ファーリャが視線の先を変えた。その先をバルマウフラは再びなんとなく追おうとしたが、その前に彼が問いを重ねた。
「ペンダント……していました?」
次の問いにもバルマウフラは頷いた。この前からだけど、と同じように付け足してみると、今度はファーリャの耳にも届いたらしい。彼は少しばかり目を見開いた。
ファーリャの驚いた様子に、バルマウフラはある可能性に気付いた。
──もしかして。
「そう、ですか……。その、ちょっと、随分そっけない感じの……痛」
「こら、ファーリャ」
やり取りを見ていたシャロンがファーリャに近寄り、後頭部を叩く。
「シャロン、痛いです……」
「いくらなんでも失礼よ。それに、時間」
涙目で言ったファーリャに、シャロンは問答無用と言わんばかりに目を吊り上げた。指輪に対するファーリャの評定はよく分からなかったが、それでもあまり良いものとは言えなかったらしい。なんとなくそれは伝わってきたが、バルマウフラは何も返さなかった。
ただ、二人の見えないところで薬指の指輪をそっとさする。
「え、あ、ちょっと待っていてください。……バルマウフラ?」
シャロンのお説教を少し強引に受け流し、彼はバルマウフラに向き直った。何でもないふうを装い、バルマウフラは笑みをつくる。
「何かしら?」
「ええと……、その。バルマウフラにはもうちょっと華奢な……ほっそりとした指輪が似合うと思います。……よかったら僕が、代わりを」
「ご助言ありがとう、ファーリャ」
さらににっこりと笑い、バルマウフラは返した。こちらでは──自分が辿り着いた異国の地では──薬指にたいした意味を持っていないというが、それでもファーリャの申し出は善意だけでくるものではない。それはよく分かった。
だからこそ、バルマウフラは笑顔をつくった。
「でも、私は「これ」が気に入っているの。他の指輪は要らないわ」
平易な言葉を並べ、つけている指輪を特に強調するようにバルマウフラは言った。その言葉にファーリャは項垂れたが、やがて意を決したようなまなざしとともにバルマウフラにさらなる「助言」を繰り出した。
「……ペンダントの指輪、随分と煤けています。歪んでいるようにも見えますし、手入れしたほうがいいですよ」
殆ど吐き捨てるように言うと、ファーリャは酒瓶を抱えて店を出ていった。
笑顔を貼り付けたままその背を見送りながら、バルマウフラはシャロンの盛大な溜息を聞いた。
坂道を登っていく。
秋分まであと一月、太陽は既にその身を隠していた。西は残光がもたらした紫色の空が広がっているが、東を見ると空は既に夜の色をしている。
少し遅くなったな、そう思いながらバルマウフラは空を見上げた。今頃我が子はお腹を空かせて待っているだろう。それとも、早く外に出て星見がしたいと目を爛々と輝かせて待っているか。
だから、急がなければならない。そう思うのに歩は自然と緩まり、そうしてついにバルマウフラは立ち止まった。
故国より広く見える空をあらためて見上げる。宵闇の空に雲はひとつふたつ、あとはすっきりと晴れていた。星見をするには申し分のない空だ。
「……何ていう名前だったかしら」
気の早い星がもう幾つか見える。教えてもらった星の名前を思い出そうとしたが、記憶はどこかぼやけていた。
バルマウフラはペンダントに触れた。鎖に通した……煤だらけで歪んだ指輪を。
季節は夏から秋へと過ぎようとしている。こちらへ辿り着いてから月は数回めぐり、めまぐるしい日々の中でバルマウフラは新しい言葉を覚えた。
そうして代わりに何かがゆっくりと、足音も立てずに消えていく。星の名前がすぐに出てこないのはそのためなのかもしれない。まだ数月しか経っていないのに、記憶は砂が風に流されていくように形を変え始めていた。
初めてそのことに気付いたとき、バルマウフラは愕然とした。まだそれほど時間は過ぎていないと思っていた。だからこそ敢えて思い出さないようにしていた、それなのに。
姿や表情は勿論、真っ先に忘れてしまうという声もまだ憶えている。抱きしめてもらった感触も。自分が抱いた様々な感情も。
憶えている。
だが、それすらもいつかは消えてしまうのかもしれない。あるいは、何らかの色を纏って思い出として封じるのかもしれない。……そんなふうに思い始めてしまえば、心はいとも簡単に揺れた。今まで関係ないと思ってきた激情が自らの内に生まれた。
怖い、と思った。
それだから、教会の追手から逃げていたときには外していた指輪を再びはめた。男が飼っていた鳥が運んできた煤けた指輪を身につけた。手入れも直しもせずに、そのままで。
炎に煤けて歪んだ指輪。在りし日、神妙な顔で男がはめてくれた指輪。
それらを今、バルマウフラは身につける。今はまだ揺れてしまう心の安寧のために。
あの日々をいつか優しく思える日が来るまでは。そのときが来ても。
「困った男ね」
こみ上げてきた想いをやり過ごすようにバルマウフラは呟くと、子が待っている家へと再び歩き出した。
陽の消えた空は宵闇色、現れ始めた星は優しく光る。
今宵は星見をしようと心に決めて、家路についた。