SOLEADO

5. TERRA DI VERDE

 青空。陽射。緑の風。

 草の上に寝転び目を閉じると、視界の青空は真白に変わった。
 全身を初夏の風が撫で、そして、通り過ぎていく。広々とした草原を渡る風は草の香をたっぷりと含み、優しい。
 閉じた瞼の上に、真昼の太陽。
 時間の感覚は次第に薄くなり、身体は浮遊を始める。
 すべてを大地に委ね、空へと続く風に包まれる。心地よい感覚に思わず口元が緩んだ。
 何処かから聞こえてくるのは、足音。規則的に大地を蹴る音を、眠りの端で聞いた。
 幻めいた音はやがて確かなものへと。
 遠くにあったものはやがて近くへと。
 そうして瞼の裏にあった真白は去り、視界はふと暗くなった。
「……」
 暗くなった視界に、アシュレイは目を覚ました。
 二度三度瞬きし、視界をより確かなものへ変える。暗がりを作った影は覗き込むようにじっと彼を見つめていたが、やがて催促するように己の足を伸ばした。
「起きるから」
 伸ばされた犬の足を交わし、アシュレイは起き上がった。主が目を覚ましたことが嬉しいのか、犬はぱたぱたと尾を振って彼に身を寄せる。
 吐息をひとつ落とし、和んだ心のままに茶色の毛並みを撫ぜる。髪を梳くようにその毛並みに指を差し入れると、犬はますます嬉しそうに目を細めた。
 犬の足元には木切れがひとつ落ちていた。
 撫で回す手は止めず、それを手にする。瞬間、うっとりと細められていた犬の目は期待と予感に輝いた。
 その様子にアシュレイは微笑った。そうして撫でていた手に木切れを持ち替え、思いきり遠くに放る。
 木切れを追い、緑の草原を犬が駆けていく。みるみる内に小さくなっていくその姿を見送り、アシュレイは空を仰いだ。
 ──青空。陽光。白雲。初夏の風。
 かつて、胸の内で何度も繰り返された光景があった。本当に大切な者達を唐突に失い、取り戻した場所が──、あった。
 あの頃と何も変わらない空と草原を眺め、その場に今、佇む。懐かしさに目を細め、そうして視線を転じた。
 木切れを見つけたのか、点のようになっていた犬の姿が次第に近付いてくるのが見える。そして、確かめるかのように時折犬が振り返る先には、人影が。
 その姿を認め、アシュレイは僅かに目を凝らした。
 人影は徐々に大きくなる。その横を犬がつかず離れず来るところを見ると、道案内の役目を仰せつかったのかもしれない。
 緩やかな坂を登り、やがて人影は目の前まで歩を寄せる。
 変わらない、凛とした立ち姿。
 見上げたアシュレイの前で、キャロ・メルローズは笑みを見せた。


「この子が道案内をしてくれて助かったわ」
 アシュレイの前に木切れを落とし、行儀良く座った犬を撫でながらキャロは笑った。褒められたと思ったのか、犬もまた彼女を見上げ、笑う。
「人の気配がないんですもの。少し戸惑ったわ」
 彼女の言葉にアシュレイは小さく笑み、座らないか、と促した。
「ここがよく分かったな」
 犬を挟んだ反対側に腰を下ろした彼女に、アシュレイは訊ねるように言った。そんな彼を彼女は悪戯めいた表情で見やる。
「勘かしらね」
「──勘」
「嘘よ。ニーチとティーガーに訊いたわ。そうしたら、多分ここだろうって。──ここは、いいところね」
 視線を転じ、ゆったりとキャロが辺りを眺める。その視線を追い、アシュレイもまた何処までも続く草原を眺めた。
 青空。陽光。白雲。初夏の風。緑の草原。
 見慣れた景色であったとしても、見飽きることのない光景。この光景がどのような意味を持つのか、無論彼女は知らない。
 だが、そんな彼女がこの地をそのように言い表したのは、彼にとってささやかな喜びとなった。
「それで」
 寝そべってしまった犬に苦笑し、彼女に訪問理由を尋ねる。
「まさか会いに来ただけではないだろう?」
「そうね」
 キャロは笑い、あっさりと問いを肯定した。
「幾つか情報を、ね」
 年に数回、情報を交換しあうだけの相手。彼にとって彼女はそのような存在であり、それは彼女にとっても同様だった。あの街で目の当たりにした事実を共有する相手として、彼らは互いを選んだ。
 会わなかった間に彼女が手にした情報に、アシュレイは耳を傾ける。淡々と語られるその内容は緑の光景に似合わず、ふとした瞬間に二人は思わず苦笑した。
 議会の動向。法王庁の思惑。そうして。
「あの子、正式に爵位を先日継いだわ」
 付け加えられた情報にアシュレイはキャロを見た。視線が来ると踏んだのだろう、彼女は彼の視線を受け止め、小さく頷く。
 そうして彼女は、二人にとって既知の名を告げた。──ジョシュア・コリン・バルドルバ。
 先日成人を迎えた彼は、先の公爵の死から長い間空位だった公爵位を正式に継いだのだという。
「あの事件の時は幼い坊やだったのに」
 月日が経つのは本当に早いものね、とキャロは笑った。
「貴方はそういえばあの子に直接会ったことはないのよね?」
「ああ。……会ったのか?」
 頷き、問い返した彼に彼女はいいえ、と首を横に振った。
「まだ。──でも、先日公爵家から連絡があったわ。『過去のことを公爵が調べており、その件について話を聞きたい』と。当時の記憶はないそうよ」
「……過去」
 それは言うまでもなく「あの事件」のことを指しているのだろう、と彼女の話に彼は思う。グレイランド事件と呼称される一連の事件──そして、その裏に隠された「魔」を巡る戦いだ。
「引き寄せられたか……」
 アシュレイは呟いた。
 かつて幼子であった彼と自分達には、ある種のつながりが望まずとも既に存在する。過去を共有し、己の内に眠る魔を共有するということ──。自分と目の前の彼女が、そして仲間ともいうべきコマンダー達が知らずそうしているように、彼もいつしかそのサイクルに加わることになるのだろう。
『あの街で魔に触れた者の魂は……やがて貴様の内に集うことになるのさ』
 そう己に語ったのは、誰だったか。何時のことだったか。
 アシュレイはそっと笑んだ。
「私は会いに行こうかと思うけれど、ライオット、貴方は?」
「いや。今はまだ……君に会い、その上で会いたいと言うのなら」
「分かったわ」
 青空。陽射。緑の風。
 白雲。草原。過去に続く今。
 二人はそれきり口を閉ざし、穏やかな時の流れに身を委ねた。
 雲は風に吹かれ、ゆったりと流れる。
 その雲に遮られ、陽の光は刻々と表情を変える。
 ──永遠に繰り返されるような錯覚の中、時は過去から現在、そして現在から未来へと確実にその身を移していく。
 過去から、未来へと。
「……ジョシュアじゃないけど、私も時々思うわ」
 すっかり寝入ってしまった傍らの犬を撫ぜながら、やがてキャロは呟くように言った。アシュレイに軽く笑んでみせ、そうして彼女は続ける。
「過去に……真実に関する失われてしまった鎖。それを繋ぎ合わせるためだけじゃないけど、今でも『彼』に聞きたいことはたくさんある。……勿論、話したいことも、ね」
「……ああ」
 遠い昔を懐かしむような彼女の科白に彼は頷き、瞼を閉じた。
 真白に染まった視界は、そのまま己の内に広がるもうひとつの世界へと繋がっている。数多の魂が眠るその界にはおそらく、彼の魂も在るのだろう。
 内なる手を迷うことなく伸ばし、ひとつの透明な光に触れる。光は静かに浮かび上がるのみで、それ以上の何かを彼に伝えない。いつか彼がそう望んだように安寧の夢に包まれているが故に。
 触れていた手を引き、アシュレイは微笑んだ。眠りという沈黙で漂っていく光──魂をそうして見送り、彼は目を開けた。
 降り注ぐ陽光は眩しく、風は穏やかに。
 目の前に広がる光景は、かつて己の内に在った原風景だった。抜け出ることの叶わない、繰り返しの光景だった。
 同じ光景の中、今、しかし時はその歩みを止めない。繰り返さない。空に流れる雲のように、時は過去から現在、現在から未来へと。
 過去から未来へと。すべては、未来のために。
「だが」
 想いを胸にし、彼は彼女を見やった。
「未来は奴にも分からない……未来に続く真実のことは」
「……そうね」
 微笑み、目を細めて彼女は空を見上げる。彼女の視線の先を追い、彼もまた空を仰いだ。

 過去から未来へと。
 願いは、確かに彼女が聞いた。希みは、確かに彼が引き受けた。
 つながりを──仄かに輝く希望という名の絆を──胸に置き、そうして二人は時の流れに身を委ねた。

<終>

あとがき

レアモンデ一周をした時に「この後どうなったんだろう?」と思って書いたオムニバスでした。アシュレイの行き先は?VKPや法王庁の動きは?ジョシュアやキャロは?ティーガー&ニーチは?などなど疑問を自分で解決してみよう!と書いてみたらこうなった…という具合です。

2004.08.13 / 2017.08.30