SOLEADO

4. CONCLUSIONE DELL'INVERNO LUNGO E SCURO

 夢から覚めた、とでもいうのだろうか。
 徐々に霧が晴れていくように記憶がひとつ、またひとつと蘇る。
 それは喩えていうなら、何かが転がり落ちるように。あるいは、雨粒が地表を潤すように。
 海へと放った首飾りと共に繰り返しの光景は己から遠ざかり、空になった身体をかわりに満たしていくのは、数多の過去。記憶と呼ばれるもの。
 希望。絶望。喜び。悲しみ。死。生。疑問。悔恨。何気ない会話。忘れられない言葉。
 光と闇。
 眠っていた記憶の破片はまるで枝が空へと伸びていくように分かれ、また新しい破片を見つけていく。そうしてまたその少し先にある新しい破片を。
 それらはあまりにも近いところにあった。ただ、己が気付かなかっただけで。
 瞼を伏せれば、絆で結ばれた妻と子の姿。目には見えぬ、しかしそれ故に己に最も近いと感じることのできる愛しい者達。
 もはや首飾りを、支えを己は要さない。要さずとも、手を伸ばせば細い糸を手繰り寄せることができる。
 そして、その先にある遥かなる絆を。

1.

 休暇だな、と男は定義した。あるいは準備期間だとも。
 誰に語るでもなく――しかし確実に自分に向けて語られたその言葉に、武器の手入れをしていたアシュレイは顔を上げた。芯が大分落ちてしまった手元のあかりを調節し、室の片隅で身を休める男を照らす。
 説明を求められたと思ったのか、男は言葉少なに続けた。曰く、「自分にとっては休暇だが、お前にとっては準備期間だ」と。
 雷鳴の名残のような震動が伝わる。未だ収まらない崩壊の余韻に男は溜息をつくとそれきり口と目とを閉ざした。
 休暇というより、休養だろう――。
 男を照らしていたあかりをずらし、暗がりを作る。壁に男の影が映り、それは時折通りすぎるらしい魂によってゆらゆらと揺れた。
 魔の暴走と崩壊から数日。眠りを求めて目を閉じた男が定義した「休暇と準備期間」が始まってから数日。
 地を貫くような激しい地震は鳴りを潜め、断末魔の如き小さな震動が時折伝わるのみ。崩壊の後、この地を去ることを選ばなかった彼らは、未だ魔都の中にいた。
 影から視線を移し、アシュレイは男を見やった。平然とした口ぶりとは裏腹にその双眸はきつく閉じられている。おそらくは、背中の傷が相当に痛むのだろう。ましてや、今の彼は「不死」たる存在ではない。
 呼吸は常に浅く、それと同様に眠りも浅い。己が短い仮眠を取るまでにあと何度かは虚ろに目を覚まし、その時にだけ深い呼吸をするのだろう。
 アシュレイはあかりを僅かに絞った。武具の手入れをするのに支障がない程度まで絞り、夜を作った。
 浅い眠りの原因は、彼が負った数多の傷が生み出す痛み。そして、悪夢。
 蝕む痛みに意識は浚われ、その隙間を狙って夢が襲う――それは時に悪夢となり、そうして彼から眠りの時を奪っていく。傷が癒えるにつれ次第にそれも収まるだろうが、今はまだ夢の占める割合が大きいのだとアシュレイは推測した。
 傷付いた身を癒すための時間。
 受け継いだものを己の内に沈ませるための時間。
 何れにせよ、この「休暇」は長く続きはしない。それは二人とも――己も、そしてあの男も分かっている。
 やがて男の呼吸は浅いながらも落ち着いたものへと変わっていく。それを聞き届け、アシュレイは再び手元の武具へ視線を落とした。

 空白という名のもとに。
 一人は、己の内を認め、天に架かる月に希みを見出し。
 一人は、己の内を信じ、海に浚われた形見に過去を取り戻し。
 ――そうして、数日が過ぎた。


 くい、と引き寄せられる感覚にアシュレイは目を覚ました。
「……」
 壁に凭れるようにして僅かな睡眠をとっていた彼は、頭を数度振るとその身を起こした。視界の端で立ち上る青く透明な光とは全く別の、色の薄い陽光が窓から射し込んでいる。
 その眩しさに思わず目を細め、辺りを見渡した彼の視線がある一点で止まった。
「……シドニー?」
 休んでいたはずの男が、いない。
 先刻まで――彼が疲労に任せて眠りに落ちるまでは確かに部屋の片隅を占めていた男の姿が見えない。
 ――何処へ行った?
 再度注意深く室を見渡してみても、シドニーの姿はない。無造作に散らされた寝床の跡があるばかりだ。
 すぐに戻ってくるだろうと思う一方で、胸を不吉な予感が占め始める。予感ともいえぬ思いにアシュレイはシドニーの寝床に触れ――そうして顔を顰めた。
 寝床は、冷え切っていた。
 おそらく、男は己が熟睡している間に出て行ったのだろう。彼はそう推測した。でなければ、己は必ず気付くはずだ。
 もっとも、行動の逐一を制限する気などアシュレイにはない。彼が何処へ行こうとも――レアモンデから出ることすら今の彼では叶わないことだが――それを止めるつもりはなかった。
 己にとっての彼は既に捕縛の対象からは外れている。その故に。
 だが。
 再び、引き寄せられる感覚。喩えるならば、己と結ばれた糸が張り詰めるような、そんな感覚にアシュレイは顔を上げた。
 引き合う糸のような感覚の正体は、魔。その先に在るだろう存在を想像し、彼は卓に並べてあった武器のひとつに手を伸ばす。
 己の心の深いところに落ち着いたそれとは違う、かりそめの糸で結びついた魂。
 気配を探るまでもなく、居場所を引き当てるまでもなく、魔という名の幻糸で結びついたそれは、すべてを彼に伝える。否、それの持つ「心」以外のすべてを。
 アシュレイは渋面を作ると、幾度となく足を踏み入れた魔方陣へと進んだ。意識を俄かにひとつに纏め、飛び交う魂達に居場所の仔細を尋ねる。
 あの男が何処へ行こうと、それは己の知るところではない。あの不安定な魂が想いの果てにかりそめの幻糸を切ろうと、それもまた己の望まざるところではない。
 アシュレイは思い、だが、と付け足した。
 だが。自分は知った。
 あの男の希求するところを知り、望まれるままに見届けると決めた。
 それ故に。
「デルタ・エクサス……!」
 詠唱とともに膨れ上がっていく青い光の中に佇み、幻の糸が導く方向へと彼は意識を委ねた――。

「……何をやっているんだ、お前は」
 思わず零れ出たアシュレイの科白に、シドニーはただ無言で肩を竦めてみせた。
 両者の合間に黒い光が靄のように立ち上り、そして消えていく。シドニーを獲物と定め、牙を剥いた魔物の骸。だが、それはこの街の――魔に触れた者の――掟として黒い塵となり、瞬く間に空へと消えていった。
 何も語ろうとしないシドニーを横目で一瞬見やり、アシュレイは武器をしまった。
 己を呼ぶように張り詰められた糸は既に緩み、生き残りの異形の者が消えた街は静かに朝を迎えている。暁の名残は其処彼処に落ち、完全に崩落した家並みを照らしている。
 生者の存在しない風景がそこにはあった。
 僅か数日前には法王庁の騎士団がこの街を占拠し、傍らの男が召び出した数多の魔物が暗闇を跋扈していた――だが今、それらはなく。
「すべて死に絶えたと思ったが」
 瓦礫に腰掛けたまま呟いたシドニーに、アシュレイは再度彼を見やった。
 向けられた視線には無論、気付いているのだろう。だが、シドニーはアシュレイを見やる素振りも見せず、塵の消えた先を見つめ続ける。まるで、何かを見出そうとするかのように。
 死に絶えた光景。その中に何かを。
 人はもはや存在せず、異形の者は最後の力を振り絞り、血眼になって贄を探し出す。死に沈む地に未だ留まる己達は――特に、彼は――格好の獲物なのかもしれない。
 抵抗するすべを持たず、魔の名残を色濃く漂わせる彼は。
 いっそ無防備なまでにこの場に佇んでいた彼は。
「……油断はするな」
 それだけをアシュレイが言うと、ややあって応えがあった。
「彼らも必死だ。魔という源を街が離してしまった以上、残滓だけではこの地に留まることはできない。――哀れだな」
 表情を消した顔つきでシドニーは細く溜息を吐いた。
「シドニー」
「だが、こちらもすべてを渡してしまうわけにもいかない」
 シドニーは笑い、アシュレイの咎めるような響きを遮る。笑わない目で笑い、その目でアシュレイを見やった。
 その言葉は大半が本当なのだろう。シドニーの視線をそのまま受け止め、アシュレイは思う。だが、すべてが彼の本心というわけではない。本心というならば、彼は無防備に過ぎた。
 生き残りの魔物に対峙した彼は、抵抗らしい抵抗も見せずにただ魔物を見つめていた。内に残る魔を食らい尽くさんと細首めがけて魔物が襲った瞬間にも、微動だにしなかった。
 想いは既に聞き届けている。彼の内で定まっている。その想いすら抱えていても生への執着が薄いのは、彼の元々の性格なのかもしれない。
 特に、今のような空白の時間においては。
 アシュレイの思考する先を読んだのか否か、シドニーは素気なく立ち上がると先を歩き出した。微妙な関係が生み出したかりそめの幻糸が伸びていく感覚に、アシュレイはその背を見やり、同じように歩き出す。
 道を塞ぐ瓦礫を越え、比較的原形を留め置いている通りへ。
 石畳は酷く歪み、所々に新たな陥没ができている。だが、それでもこの街の中では崩壊の影響が微少であることには違いがない。大聖堂にほど近い市街地などは、その殆どが瓦礫と化している。
 ――街は、廃墟となっていた。
「元々廃墟のようなものだったがな」
 帰路を辿りながらシドニーは言った。
 二十数年前にこの地を襲った大地震。それによりレアモンデは多くの人命と未来を失った。忘れ去られた街となった。
 代わりに手に入れたのは、街に刻み込まれた封印を揺り動かすほどの潤沢な魂。そして、魔の復活がそこには。
 だが、と彼は続ける。もうこの街は魔を手放してしまった。解かれた封印は正しく吸収され、未だ彷徨う魂達はじきにその吸収された先へと集い始める。
 そうしてすべてを失った街は、時を得て消えていく。あの男と、そして街が願ったとおりに。シドニーはそう結んだ。
「……それはそう先のことでもないだろう」
 やがて並んだアシュレイはシドニーの言葉を補足し、繋げた。瞬間、垣間見たシドニーの表情が僅かに驚きの色に染まる。
 そうして。
「そうだな……」
 数歩分の沈黙の後、彼は頷いた。かみしめるように、もう一度。
 微笑を浮かべ、彼は頷いた。

2.

 徐々に霧が晴れていくように記憶はひとつ、またひとつ。
 何かが転がり落ちるように。
 雨粒が地表を潤すように。
 
 付けたままだった秘石をアシュレイはグリップからひとつずつ取り外し、卓の端に寄せ置いた。窓から射し込む薄い陽光が寄せた秘石の数々を七色に輝かせている。
 翡翠。真珠。碧玉。翠玉に蛇紋石。何れもがこの街を駆け巡る最中に見つけ、使用したものばかり。袋にしまいこんだままであったものもあれば、武器や防具に付けたままであったものも多い。
 ひとつに纏めたその量は、これ程あったのかと集めた当の本人であるアシュレイを多少驚かせた。
 秘石をひとつに集めたのと同様に、武具や防具はそれぞれを分解し、種別毎に選り分ける。卓に並べるには大きすぎるスピアやアックスといった類のグリップは床へ。そうでないものは卓の上へ。
 完全に分けてしまうと、アシュレイは刃のひとつを手にとった。埃を払い、刃こぼれの箇所を検分する。こぼれた刃があれば削ってならした後、丁寧に研ぐ。
 慣れた作業故に、その多くは半ば機械的に進んでいく。騎士団では武具の手入れを専門に行う者もいたが、アシュレイ自身は頼ったことはなかった。余程破損した場合は別として、近衛騎士団に属していた頃からこうした日常の手入れは義務として彼は己の中に位置づけていた。――そう記憶している。
 故に、作業は迷うことなく。
 磨き終えた刃を再度検分し、それのみを鞘に収める。鞘と刃が擦れ合う金属音が響き、その音に彼は無意識に顔を曇らせた。
 何かの拍子に蘇る記憶。
 既視感という名の符丁は心の内を転がり、消していた記憶を呼び起こす。そうしてまた別の記憶へと。
 ……たとえば、それは夏の日の夜だ。
 武具の手入れをしていた己のもとに急使がやって来たのは夜更けも過ぎる頃合。携えてきた密書を開き、次の任務を把握した。
 任務の内容は――、目撃者の処分。
「……」
 アシュレイは瞬きを一度すると、手元の刀身を別の卓へと置いた。溜息にも似た呼吸を落とし、そうして別の刃へと手を伸ばす。
 何かの拍子に蘇る過去。
 繰り返しの光景から抜け、浮かんでいた心を再び開いた時から、己の中に眠っていた過去は真実を語り始めた。
 希望。絶望。喜び。悲しみ。死。生。疑問。悔恨。何気ない会話。忘れられない言葉。
 光と闇。
 事実であったもの。真実であったもの。そうでないもの。すべては闇ではないのと同様に、すべては光ではなく。
 ――自分を信じて待っていた最愛の存在が真実であったように、疑問と動揺を抱えて剣を振り下ろしたあの瞬間もまた、真実の内にあった。
 過去は消せない。消してはいけない。
 ――もう手放すつもりはない。
 こびり付いた血を丹念に拭い、アシュレイは砥石にそっと刃を当てた。滲んだ水に流された血がうっすらと混じる。それはやがて黒い煙となり、宙へと消えていった。
 研油の瓶を取ろうと手を伸ばす。だが先刻置いたばかりの場所に瓶はなく、アシュレイの手は空を切った。
 同時に、目の前に何かの黒い影。
「ほら」
「――」
 唐突に突きつけられた研油瓶に、アシュレイは唖然とした。
 瓶を持つ手から腕へと、少しずつ視線を上げていく。何の気配も感じさせず、何時の間にかシドニー・ロスタロットは彼の傍らに立っていた。
「要るのか? 要らないのか?」
「ああ……」
 さして面白くもない様子で訊ねたシドニーからアシュレイは促されるまま瓶を受け取った。封を開けると独特の匂いが届く。
 磨き布に油を染み込ませ、慎重に磨きこむ。
「何か用か?」
 うっすらと油膜を帯びた刃が、陽を受け、煌めく。
 次第に元の力強さを取り戻しつつある刃に視線を落としたままアシュレイは訊ねた。
 返ってきたのは、短い否定。
 それ以上は特に何も言わず、視界の端、シドニーは卓に凭れながら秘石のひとつを摘みあげた。
 アシュレイが手にした刃と同じように、秘石も只一つの存在となってきらきらと陽光に輝く。その煌きが目に入り、アシュレイはそっと目を細めた。
「眩しいんだが……」
 磨き終えた刃を対の鞘に収め、先刻の刀身の横に並べながら文句めいた言葉をアシュレイが投げると、シドニーは軽く笑った。
「精が出ることだが、まさか全て持ち出すというわけではあるまい?」
 そうして今度は別の石を手に取る。透き通った青に浮かぶ光の星。シドニーが石を傾けると、石の中の星はその形を様々に変え、煌いた。
「当たり前だ」
 その輝きを見つめ、アシュレイは応えた。
 卓に並べただけでも一人で扱うには過ぎるほど、ましてや未だ保管箱に収めたままのものも多い。秘石に至っては両手足指を越えるほどの数がある。とても持っていける量ではなかった。
 もっとも、持っていける量だとしても。
 アシュレイもまたひとつの秘石を手のひらに載せ、陽光に照らした。常には不気味な血の色に沈んでいる石も、光の前では優美に透き通る。
 それは、古より連なる輝き。この街が大事に抱え持っていた宝のひとつ。
 手袋をはめたシドニーの手に石を載せ、アシュレイは新たな刃を取った。刀身からすると短剣であるそれを、やはり慣れた手つきで扱っていく。
 ――もっとも、物理的に持ち去ることが可能としてもアシュレイには持ち出す気はなかった。
 重荷になるからではない。また、それらがレアモンデにあったと他者に知られるのを恐れるためでもない。
 これらは強く街と結びついている。街に眠り、息づいてきたもの達。街の願いを正しく知り得るもの達。魔に馴染んでいたがために、己が魔と溶けあう一端をも担っていたもの達。
 敢えて持ち出しはしない。それだけのことだ。
「持ち去るために手入れをしているんじゃない。……これは武器を扱う者の義務だから、やっている。ただそれだけだ」
「なるほどな。貴様らしい」
 煌かせていた石を元に戻し、シドニーは一瞬、窓の外を見やった。
 アシュレイの科白に納得したのか、それとも会話を切り上げただけなのか、それ以上を彼は続けようとはしなかった。元々、重要な意味合いを帯びた会話でもなかったのだろう。
 精緻な紋様で飾られた短剣の汚れを丹念に落としながら、アシュレイはそう解釈した。それを裏付けるかのように、傍らの男はやはり何も言わない。朝と同じように彼が口を噤んでしまうと、後は二人の間には物音が時折落ちるのみ。
 足音。葉ずれのざわめき。窓を打ち付ける風の音。砥石が刃に当たる音。――そういった諸々の物音のみが。
 この数日はそのような時間が大半を占めていた。
 意識のなかった日々は無論のこと、シドニーが意識を取り戻してからも会話の多くは必要最低限。それも数回のやり取りで終わるのであれば、後に残るのは、畢竟静寂のみとなる。
 丁度、今のような静寂が。
 そう考え、アシュレイが短剣をしまうべく鞘へと手をかけた瞬間、しかし静寂は異音によってあっさりと破られた。
「シドニー?」
 擦れ合う音と共に姿を消した――否、見えなくなった――シドニーへアシュレイは呼びかけた。椅子をずらし、そうして卓の横を覗き込む。
 立てた片膝を手繰り寄せ、座り込むような格好でシドニーは卓の側面に凭れていた。
「……何処か痛むのか?」
 止めた手を再び動かし、短剣と揃いの鞘を取ったアシュレイにシドニーは首を振ってみせた。違う、と呟き、再び沈黙が落ちる。
 短剣を鞘に収める。鞘と刃が擦れ合う金属音に、アシュレイの胸の内にまたひとつ、記憶が戻る。それを今は敢えて無視し、アシュレイは問いを重ねた。
「寒いのか?」
 答は、否。
「暇を持て余しているのか?」
 立て続けの問いに、シドニーは緩慢にアシュレイを見上げた。先刻の笑みは既に消え、表情を作り忘れたといった風情でシドニーはアシュレイを見、そうして常の如く肩を竦めてみせた。
 やはり答は、否。
「……」
 ずらした椅子を元に戻し、手にしていた刀身を卓に置く。秘石を一つ二つ選り、アシュレイはそれをグリップにはめ込むと刀身の傍らに置いた。
 彼は何も言わない。そして己もまた。シドニーの視線が外れ、アシュレイは彼へ向けていた意識を椅子と同じように元に戻した。
 傷付いた身を癒すための時間。
 受け継いだものを己の内に沈ませるための時間。
 何時のことだったか、シドニーはこの時間を「休暇」と呼んだ。あるいは、準備期間だとも。
 長く続きはしない――確実に終わりが見えている、時の間隙。
 そんな空間に佇み、何かを見出していく。今という時間はそのためにこそある。
 彼の場合は。そして己の場合は。
 問いかけ、見つめなおす。時には求め、時には逃げ、そうして向き直る。受け容れた魔という力が己の内に沈んでいったのと同じように――、だが確実に別の場所に沈んだ「何か」。消えた繰り返しの光景の先に生まれた過去。
 それが彼の場合は何であったのか。
 面と向かって訊ねたことはない。そしてこれからもないだろう。アシュレイは思う。故に、時に流れ込むように伝わってくる彼の思考へも――あるいは感情へも――アシュレイは干渉する気はなかった。
 己の役目は、ただ聞き届けるのみ。
 過去という名の数多の小石が転がり落ちるのを感じながら、波のように揺れ動く心を聞いた。
 彼のそれは、初め、嵐の後の濁流のような具合だった。
 だが、時を得、心はやがて凪いでいく。濁った流れが徐々に澄んでいくように、シドニーの混沌とした思考もまたそうして清流のそれへと変化していった。
 流れ込んでいた思考は既に止み、今となっては何も聞こえない。凪いだ海のような心は、彼が望みと定めたものを見つけ出したためか。
 間もなく訪れるであろう結末を己の内に見出したためか。
 「休暇」と定義された沈黙の間隙。それは、そのために。
 そのために。
「ライオット」
 思考の終着と同時に名を呼ばれ、アシュレイは顔を上げた。
「何だ?」
 座ったままの格好はそのままで自分を仰ぎ見るシドニーに問い返す。そうする間にもシドニーの視線は逡巡するかのように忙しく動き、アシュレイは小首を傾げた。
 深刻な様子はない。かといって、からかうような素振りでもない。
 やがて視線はひとつに定まり、次いでそれは僅かに細められる。
「もし良ければの話だが。貴様の……家族の話をしてくれないか」
「シドニー?」
 穏やかに切り出された言葉の意味が咄嗟には読み込めず、アシュレイは動きを止め、再び問い返した。
 ――家族の、話?
 何を、と続ける前に卓下の彼が頷く。
「無理にとは言わんさ。ただ」
 膝を抱えていた手を離し、シドニーはその手のひらを眺めた。崩壊の折に一度抜け落ちた彼の手は、アシュレイによって挿げ替えられたものだった。
 ふとした興味だ、とシドニーは続けた。
「……聞けば済む話では?」
 気を取り直し、アシュレイは平常を装って返した。
 魔都を巡る争いの最中、シドニーは己の心の内を「聞き」、潜んでいた矛盾を暴いた。その時――混沌と混乱の海に己を叩き落したあの時――「見る」のではなく、「聞く」のだと、彼はそう言ったのではなかったか。
 ならば、とアシュレイは思う。
 転がり落ちた数多の記憶の上に成り立つ、真実。触れることも、聞くことも、彼ならば造作もなく為せるはずだ。
 その返答にシドニーはただ笑う。
「俺はもはや魔から離れた存在だからな。そんな芸当はできん。……そして、そんなことには意味がない」
 笑みを消さぬまま、彼は再度アシュレイを見上げた。その目が、もう分かっているだろう?とアシュレイに語りかける。
「……。ああ……」
 諭され、アシュレイは頷いた。確かに、彼の言うとおりだった。
 聞くことはできる。だが、それだけだ。他者の心を覗き、聞いたところでそれは真実として光り輝きはしない。たとえ、それが真の意味での事実であったとしても。
 真実とは、そのような存在ではなかった。
「今の貴様は、おそらく何処かに辿り着いたのだろう。……でなければその力は貴様の中で暴れ、とうに喰らい尽くしているだろうからな。だが、貴様はそうではない」
「…・・・」
 何処かで聞いた覚えのあるような言葉だった。
 だがそれには応えず、卓に寄せた秘石を適当に数個取り、アシュレイは立ち上がった。
 棚から磨き布を二枚取り、一枚をシドニーに渡す。そうして先に取っておいた秘石からさらに数個をその布の上に落とし、アシュレイはシドニーと向かい合わせに腰を下ろした。
 押し付けられた布と秘石にシドニーが苦笑する。
「聞いている間、磨けと?」
「……じっと耳を傾けられても、困る」
 言いながら自分でもよく分からない理屈だと思ったアシュレイの科白に、シドニーは笑いながらも素直に頷いた。では、と磨き布を取り出し、床に転がした秘石の中のひとつを手にとる。
 アシュレイもまた、手にした秘石の中からひとつを選った。
 何から話すべきか――。手の内の秘石を凝視し、己の内にアシュレイは意識を向ける。何から話すべきか。何を話せばいいのか。取り戻しつつある記憶の破片達を選るのは、秘石を無造作に選るのとは訳が違う。アシュレイは俄かに途方に暮れた。
 確かにシドニーは徒然に己の話を求めたのかもしれない。そういう部分もあるだろう。だが。
 ――何処かに辿り着いたのだろう。
 聞き覚えのある科白は、それをやんわりと否定していた。いや、徒然に話す以上の何かを、シドニーはアシュレイに言外に求めた――そう考えるのが妥当かもしれない。
 心は何処へ辿り着いたのか。――結びついた記憶は、混沌の果てにどのように変容したのか。
 問わぬはずの問いを敢えてシドニーは口にした。変化し、逢着した真実を聞きたいと願った。そこには、様々な想いがある。
 魔を継ぎ、守りきった者としての想い。あるいは、魔を手放し、次代へと託した者としての想い。
 あるいは。
「子として」
 アシュレイの思考の先をシドニーは呟いた。
「……」
「……すべてでなくとも構わんさ。順序立てて話す必要もない。思いつくままに」
 貴様の言葉で、選び取った真実を。
「思いつくままに話してくれればそれでいい。破片の数々を繋ぎ合わせ、何を得たのか」
 上げた視線の先、シドニーが秘石を光に透かしながら科白を結んだ。アシュレイの視線とシドニーのそれが交錯し、二人は同時に頷きあう。
「……分かった。だが、シドニー」
「何だ?」
 訊き返すシドニーに、アシュレイは続けた。
「繋ぎ合わせたのが事実の破片のみだったとしたら――、やはり遅かれ早かれ魔に喰われていただろう」
 心は、何処へ辿り着くのか。
 シドニーに語りながら、アシュレイは語った言葉の内容を己の内に沈み込ませた。
 他者の語る「事実」は、それだけでは真実とは成り得ない。そしてまた、転がり落ちた数多の「記憶」のみでは、打ち立てた真実はあっさり瓦解し、塵と散じるだろう。
 記憶だけでは何も変わらない。事実だけでも何も変わらない。
 瞼を閉じ、見据えるように己に視線を送り続けるシドニーの姿を視界から消す。瞼の裏に浮かんだのは、繰り返しの光景から抜け出てなお光り輝く緑の丘。
 辿り着いたのは、己の心。そして、その内に封じ込めていた愛した者達の心だった。
 記憶だけでは何も変わらない。事実だけでも何も変わらない。推測や推量で答を導くことはできても、それを信じ続けることはできはしない。
 閉じた己の心に滑り込んだ想いがあったからこそ、己は今という時に逢着した。記憶という名の転がり落ち始めた過去を受け容れ、時を刻み始めた。
 推測ではない答を得たからこそ。
「……そうだな」
 短い沈黙の後にシドニーは首肯した。彼もまた、推測ではない答を求めている。その故に。
 希望。絶望。喜び。悲しみ。死。生。疑問。悔恨。何気ない会話。忘れられない言葉。
 光と闇。
 事実であったもの。真実であったもの。そうでないもの。すべては闇ではないのと同様に、すべては光ではなく。
 心は何処へ辿り着いたのか。――結びついた記憶と心は、混沌の果てにどのように変容したのか。
 アシュレイは、訥々と語り始めた。

 眠っていた記憶の破片はまるで枝が天へと伸びていくように分かれ、また新しい破片を見つけていく。そうしてまたその少し先にある新しい破片を。
 砂地に水が沁みこむように、乾いた心を潤すように戻ってきた記憶を、アシュレイは語った。
 シドニーは時折相槌を打ち、また時には問いを繰り出した。答えながらアシュレイも時に頷き、そうして言葉を紡ぐ。
 語る言葉は、思いつくままに、訥々と。時の流れを行きつ戻りつしながら、ひとつに連なる過去を。
 希望。絶望。喜び。悲しみ。死。生。疑問。悔恨。
 思い出のすべては闇ではなく。過去のすべては光ではなく。
 痛みを時には胸に覚えながら、しかし、アシュレイはそのひとつひとつを認識していった。己の中に過ぎた時間をより確かなものへとするかのように。
 楽しかった思い出を語るのはやはり楽しく、疑問と後悔に濡れた記憶を紐解くのは気が沈む。喜びの中に過ぎた日もあれば、悄然と一人佇んだ時間も己には在った。
 そうして――。
 振り返ったその先には、確かに何もなく。
 アシュレイはそこで長く黙した。傍らで聞き届けていた男も何も言わなかった。
 己の時の流れをひとつにし、想いを収斂させても、それを受け取る相手はもはやこの世に存在しない。思い出という名の過去を共有し、未来という名の道を共に歩くはずだった相手は、もう。
 振り返ったその先には誰の姿もなく、これから歩く先にも誰の姿もない。まったくの独りであること――それだけは悲しかった。
 だが。
 否、だからこそ。
 長い沈黙の後、気遣うようなまなざしにアシュレイはシドニーを見やった。軽く頷き、知らない内に強張っていた全身から力を抜いていく。
 だからこそ。
 細い糸を手繰り寄せ、真白の世界から呼び寄せる。
 暗闇でもあかりを感じてひとつの形を為す。
 未来へ続く道に佇むのは、確かに己一人。だが、目に見えずとも感じ取ることのできる絆が、己が独りではないと告げる。
 繰り返しの光景から抜け、光と消えた二人の笑顔が己に独りではないと告げる。
 愛する者達が――そして己が永遠の別れを告げ、永久の抱擁を誓った、あの時、あの場で、自分達は確かに結びついたのだからと。
「だから」
 最後のひとつを磨き終え、アシュレイは磨いたそれを他の秘石と一緒に纏めた。
「何度でも思い出すだろう。……誰のためでもない、自分のために」
 未来のために。
 アシュレイはそう結び、その言葉にシドニーは頷いた。


 夕暮れの光もないまま、既に窓の外は闇に包まれていた。
 組み立ての途中だった短剣を終わりまで組み立てると、アシュレイはそれを卓の上へと置いた。出していた武具の類を簡単にしまい、愛用の剣を吊り下げ、魔方陣の上に立つ。
 アシュレイは何処へ行くとは告げなかった。
 シドニーもまた、それを問わなかった。室の片隅に身体を休め、理解に染まったまなざしで、ただ彼を見送った。
 窓の外、夕焼けを迎えなかった空に、今、星はなく。
 代わりにあるのは、間もなく訪れるだろう雨の気配。

 雨を前に、希みを伝えるために一人は青い光に消え。
 雨にも似た光の雫に、一人は暗く長い闇の終焉を予感した。