SOLEADO

1. SOLEADO

 きっと。
 盗み見た横顔は、静かだった。
 きっと、この街は。
 ついてくるよう言われ、彼の背中を見ながら歩く。彼は只の一回も迷うことなく、この複雑に入り組んだ街中を進んでいった。
 もう使われなくなった商店の横を。
 崩れかかった民家の横を。
 すべての人が死に絶えても、今もこうして枝を張る木の下を。
 彼は只の一度も道の選択に躊躇することなどなかった。ごく自然に、当たり前のように道を選び、歩く。
 そこから辿り着く結論は、ひとつ。
 きっと、この街は彼の。彼にとって。
「着いた」
 唐突に彼の足が止まった。振り返り、手招きをする。
 促されるままに傍らに立ち、視線を追った──。



 キャロは室内を見渡した。
 天窓がひとつ。先程までいた家と同じように、抜けそうな床。持ち主を失い、白く埃の積もった長椅子。倒された燭台。
 すべてが過去に属するのだと、それらは皆一様に己に訴える。もう生きてはいないのだと、物言わぬ声が聞こえる。
「……」
 妙なことになってしまった──。
 キャロは手近な木箱の埃を払い、腰掛けた。見上げたばかりの天窓をもう一度見上げ、空の青さに陽が少し翳ってきたことを知る。あれから数時間は経っただろうか。否、まだそれだけしか経っていないのだろうか。
 不可思議なことだらけだ。そして、不可解なことだらけだ。
 噂どおりの幻術を目の前で使ってみせた男達。欲望をもはや隠そうともせず、このレアモンデに足を踏み入れた法王庁。見張り小屋の同僚。魔物と呼ぶべき存在。実際に見たものもあれば、「彼ら」の言動から得たものもある。そして、それらすべてに共通して言えることは「信じ難い」という言葉にほかならない。
 次々と起こる出来事の前に時間の感覚がおかしくなってしまったのだろう。空を見上げたまま、思う。小さく切り取られたその空を、一羽の鳥が横切った。
 不可思議で、不可解といえば。
 キャロは倒された燭台を見つめた。考え事をする時にどこか一点を凝視するのは彼女の癖だった。
 この事件は様々な人間の想いが複雑に絡み合っている。「想い」は「欲望」と置き換えてもいいかもしれない。議会、法王庁、メレンカンプ……そして公爵。少なくとも、任務に就く際に説明を受けたような「単純な立てこもり事件」であるわけはない。──大体、その程度だったら「リスクブレイカー」が出る必要はないのだ。
 閉ざされた街で動き出す、複雑で非現実的な何かがある。
 そして。彼女は髪をかきあげた。
 そして、その只中に在る男こそが、不可思議で不可解。シドニー・ロスタロットという名を持つ男は、そうしたすべての思惑をチェスの駒のように扱い、眺めている向きさえあった。自らも何かを狙い、法王庁やVKP──エージェント・ライオットに追われている身であるにも関わらず、だ。
 一体、何を考えているのか……?
 それが分かれば、あるいは。
「情報分析官殿は、随分と怖い顔をしておいでだ」
「──」
 突然の声に、キャロは息を呑んだ。すぐ目の前に、今しがた考えを占めていた男が、いた。
 ずい、と顔を突きつけてきた男は、そんな彼女の様子を見て軽く笑った。自らの眉根を押さえてみせ肩を竦めてみせると、不揃いな金髪が晒した肩に触れる。
 不揃いな髪。両腕のガントレット。晒した上半身に背中の入れ墨。表皮を切り裂くような風の色さえ帯びる、まなざし。
一度見たら忘れられない異形の風貌。一度感じたら忘れられない雰囲気。
「『意識』は押し付けんよ」
 シドニーはそう言うと、先程彼女がそうしていたように天窓を見上げた。
 一体、いつの間に戻ってきたのだろう。見上げる彼から視線を別の場所に移すと、室の戸口にはハーディンとジョシュアが並んでこちらを見ている。彼らもシドニーが戻ってきたことに気付かなかったという風情だ。
 確か、少し前に聖印騎士団の団長を牽制しに行ったはずだが。
「おい、シドニー」
「さて、少し君に付き合ってもらうとするかな」
 咎めるような響きでハーディンがシドニーを呼ぶのと、楽しげともいえるような響きでシドニーがキャロに向き直ったのは、ほぼ同時だった。


 外に出てみると、天窓から眺めたよりもまだ陽は大分高かった。
 特に何も言わず先を行くシドニーをキャロは追いかける。石畳の通りにできるだけ靴音を響かせないように気をつけながら。
 全く分からない。彼が、何を考えているかなど。
 それはあの男──ハーディンも同じ思いのようだった。シドニーの例の発言に彼は一瞬固まり、次いで更に声を上げ叫んだ。
『シドニー!』
 彼の反応こそ、正常だとキャロは思う。
 時折戸外から聞こえる物音と、先刻のハーディンの幻視の結果を照合してみても、既に市街地の多くを法王庁が掌握しているのは明らかなはずだ。「追われている立場となった」人間がそうした市街地をうろつくなど正気の沙汰ではない。
 それは、どれほど彼が幻術に長けているのだとしても。
 彼の思惑がハーディンや自分や他の人間の想像とはかけ離れた、別の次元にあるのだとしても。
 だが、彼は──シドニーはそんなハーディンに一瞥をくれたのみで己を見た。どうする?とその目で問いかけてきた。
 そうして、今、ここを歩いているのだが。
 ──一体、何を考えているのか。
 不思議に「誰もいない」通りを過ぎ、石造りの橋を渡る。二十五年前に起きたという地震で街は方々が崩れている。地形が変わってしまい、通りが寸断されている箇所も少なくはない。
 だが、街は不思議にその形を保っていた。──数千の人間がその地震で死んでいるにも関わらず。
 いっそ、人だけその姿を消したかのような、光景。
 そんな静寂の街の中を、シドニーは自分の目の前で歩いていく。道の選択に躊躇のひとつもしない彼は、この「忘れ去られた都市」に何らかの縁を持っているだろうことを推測させた。
 やはり人のいない通りを曲がると、坂が見えた。さらにその上には、空。空に浮かぶのは、ゆっくりとその身を地上へと傾がせている陽。
 シドニーは坂を登っていく。キャロもまた、それに続いた。
 想像は、確信へ。
 この街は──、この死に絶えた街は、彼にとって。
「着いた」
 唐突に彼の足が止まった。振り返り、やはり読むことなどできぬ表情で彼は手招きをする。その所作にキャロは歩を早めた。
 一歩進む毎に空が、視界が開けてくる。この先にあるものを思いながら、彼女は彼の傍らに立った。
 ──少しだけ翳った陽の光が、無数の破片となって、踊っている。
 ──僅かに吹く風に、凪の波が揺れている。
 海がそこにはあった。


「また不思議そうな顔をしているな。いちいちそのように表情を顔に表しても情報分析官というのは務まるものなのか?」
 揺りかごのように微かな波の音に乗るような、男の問いだった。
 何を、と問い返そうとする彼女を遮り、彼は大仰に首を傾げてみせる。目線を一瞬だけ逸らし、何かの記憶を引き出すように彼は続けた。
「それとも、それは『議会の犬』に共通する特徴とでも?」
「……。エージェント・ライオットのことを言っているの?」
 キャロの問いに、シドニーは当たり前のように頷いた。つい先刻のことを思い出すような素振りでこちらを垣間見る。多分に意識的なそれは、そうと知りつつもキャロの興味をひいた。
 彼は今。彼こそ今、この街の何処にいるのか。
 そして、目の前の彼は何故、彼を誘き寄せようとするのか。挑発するのか。
 シドニーはキャロの無言の問いにまでは答えようとしなかった。そもそも、それはおそらく彼にとって何かのついでに出した話題にしか過ぎぬのだろう。
 慎重といえば聞こえはいいが。やがて、シドニーは言葉を繋いだ。
「そう言えば聞こえはいいが、己を取り囲む事象すべてに理由を求めるなど、あまり意味のあることとはいえないな。そいつは迂遠で、冗長で、ともすれば本質を──君が言うような真実とやらの類を──逃すことにもなる。……そう、例えば。君や君の友人が『信じ難い』と思っているような類の場合には、特に」
「……。……事実がなければ、真実はないわ」
 返した言葉に、シドニーは再び首を傾げてみせた。まっすぐキャロを見つめるそのまなざしは、独特の強さで彼女を捉える。
 だが、やはり彼はそれ以上を続けようとはしなかった。吹き始めた風に促されるように一歩前に進み、海に視線を転じる。先刻よりも更に少し傾いた陽は海を金色に染め上げ始めていた。
 今、このレアモンデはどうなっているのだろう。
 先に立った彼と、彼の先にある海を同じ視界に収め、キャロは思考した。多いようで少ない手持ちの「情報」だけでは、この細く複雑に縺れあった糸を解くのは、目の前の男が言うように確かに不可能といえるのだろう。
 真実は、事実の上に成り立つ──。それは、情報分析官としての己の持論。そして、過去から今へ連なる数多の情報分析官がもたらした「真実」でもある。
 だが。
 キャロはそっと溜息をついた。
 だが、それは「現実」を相手にするならばの話だ。
 太古の魔術や魔物といったものに満ち満ちているこの街で、己が持っていた事実は混乱を引き起こし始めている。手にしていたそれと、目の当たりにしたそれは激しくぶつかり合い、不協和音を生み出す。そうした不協和音という名の情報の残滓は、新たな疑問を己の中に次々と生み出していく。
 あるいは、既に自分もこの街に絡め取られているのかもしれない。幻術に惑わされ、疑問を次から次へと己に溜め込み、そうして男のいう「慎重」という言葉に陥っているのかもしれない。
 断片的な情報と、縺れた思惑。それはこの街が持つ不可思議な力に覆われ、疑問という名の欲求へ。
 たとえば。
 キャロはシドニーだけを見つめた。緩やかな夕風に髪をなびかせる、異端の男。
 饒舌ともいえる言動とは裏腹に、何の思惑をもってこのような事態を引き起こしているのか、彼はそれをけして悟らせない。「流行歌」のような耳に心地よい彼の言葉の真意を探るのは困難で、それ故に心酔する者もいれば、ハーディンのように苛立つ者もいることになるのだろう。
 彼が、何を考えているのか。
 法王庁を牽制するのみに留め、その強大な力で排除しようとしないのは。
 アシュレイ・ライオットを挑発しているのは。
 このような事態を引き起こしているのに、今ここにいるのは。
 ……懐かしそうに海など見ているわけは……?
「俺の目的など、単純だと思うがな?」
「……」
 心を読んだことに悪びれる様子もなく、飄々と男は言った。自分自身のことをまるで他人事のように。
「迷わず連れて来た。ここに来たいと思った。ここが騎士団のけして来ないような、知らないような場所だと知っていた。それは俺がこのレアモンデを知っているからだ」
「知っているだけじゃ、来たいと思わないのではなくて?」
 一歩踏み出し、キャロはシドニーに並んだ。目の前には、開かれた海がある。
 この街を外界から閉ざした海が。
 そして、自分を外界から閉ざした海が。
「貴方はここに思い入れがあるから……」
 促され、辿り着く結論はひとつ。
 きっと、この街は彼の。彼にとって。
「馴染んでいるから来たいと思った。貴方にとって特別な場所だから……そのはずよ」
 そうしてキャロは傍らの彼を見た。
 シドニーは虚をつかれたように一瞬目を見開いたが、やがて小さく頷き、笑った。
「その通りだな」
「……」
「直にここも……ここですらあいつらは見つけ、入り込むだろう。……その前に」
 ──だが、もう時間だ。
 眩しそうに陽を見上げ、シドニーは海とキャロに背を向けた。帰るぞ、とそれだけを告げ、彼は先に歩き出す。
 その前に。シドニーの残した言葉をキャロはそっと繰り返した。その先に続く言葉を探るのはあまりに容易だった。様々な事実の中で身動きさえできなくなっている自分でも簡単なことだった。
 そうして。
「すべて、同じだ」
 不意にシドニーは立ち止まった。背中を向けたまま目線だけを送り、呟くように告げた。
「……君が生み出した他の「疑問たち」についても同じように繋ぎ合わせるだけだ。そんなに難しいことじゃない。やがて、すべてを繋ぎ合わせることができるだろう……君ならば」
「……。ひとつだけ訊かせて。何のために」
 シドニーを見据え、彼女は問うた。
 それでも解けない謎は残る。──否、解けぬ謎ではないかもしれない。彼の口から直接訊いてしまいたいことが、ひとつだけ。そう己が望むことが、ひとつだけ。
 故に、問いは逡巡の前にキャロの口から零れ出た。入れ墨がくっきりと刻まれた彼の背を見つめ、推測ではない答を求めた。
 この男は、自分の任務などのために事実の縫合を勧めたのではない。彼は彼自身のために、自分にこの街で起きている事象や思惑の──やがて隠された真実へと変化するだろう事実の縫合を希求した。そのはずだ。
 ならば、せめてその理由を。
 無言のまま佇む男へとキャロは歩を進める。歩み寄る彼女をシドニーは暫くそのまま見つめていたが、やがてその視線は空の一点へと移された。
 陽に照らされ、薄く輝く大聖堂を──このレアモンデの象徴とも呼ぶべき存在を──シドニーは見つめ、そして。
「──未来のため、とでも言おうか」
 振り返ることもなく、シドニーはそれだけを小さく呟いた。
 その横顔は、静かだった。