SOLEADO

2. SOTTO IL CIELO BLU

 夜が迫ろうとしている。
 彼は何の変哲もない扉の前に立つと、短く詠唱した。
 ややあって扉は音もなく開き、友であり腹心でもある男が注意深く顔を出した。
 顰め面で男は何事かを言う。頷き、それに彼も応えた。
 だが、すべては彼の中を素通りしていく。欠片すら残らない。
 それすら気付かせることなく、彼は踵を返した。今はもう閉じられた扉の向こう、自分を見据える視線を感じながら。
 通りの向こうから聞こえるのは、揃わない足音。
 不平を零しながら、何かを──自分を──探し回り、扉という扉を開けるような音。
 彼は微笑んだ。そして、この後の行く先を思い出し、その笑みを消した。
 夜が迫ろうとしている。
 何もない虚空を見つめると、彼は短く詠唱した。


 グレイランドのバルドルバ公爵別邸は、外観こそ本邸と大きく異なるが、その実、有り様はよく似ていた。
 ──違うのは、大仰かそうでないか。時間を経ているか、そうでないか。このふたつくらいなものだな。
 何時だったか、男が独白めいてそのように言ったのを、シドニーは覚えていた。何をきっかけにして男がそんなことを自分に言ったのか、それはまるで覚えていなかったが。
「辛気臭いところまで、そっくりだ」
 作られた地下の隠し通路の中で、シドニーは肩を竦め、呟いた。科白は黴臭い通路にはまるで響かず、水滴のように落ちる。
 本邸のそれとまるで同じように作られた隠し通路をそうして歩く。本邸では呼び出されるたびに幾度と通った通路も、この別邸では数える程しかない。
 中世の時代、主に直接見えることを許されなかった者達が使用した通路。
 影という名の存在のみが通ることを許された道。
 今の公爵の代にそれを許されているのは、彼のみ。誰に会うこともそれ故に当然なく、彼は暗い通路を進む。
 それもこれも。
 心中で無意識に彼は彼に囁いた。
 ──訪れるつもりなど、無かったが。
 あいつが逃げたからだ。
 ──訪れるつもりなど、無かったのに。
「……」
 僅かに見上げた先、その先には小さな光がある。この通路の出口から漏れた光だ。
 推測するまでもなくそのように結論付け、シドニーはふと歩を緩めた。足元を探りながら歩を慎重に進め、やがて始まるだろう階段を探した。
 一歩、そしてまた一歩。
 こつ、と金属めいた音が響く。その音を認め、シドニーは己を阻んだ段差に足をかけた。
 一段、そうしてまた一段。
 石造りの段を踏みしめるたびに、重く耳障りな金属音が靴音に混じる。剣を壁に打ちつけるような、ざらついた音が耳朶を打つ。音が床に落ちていく。
 シドニーは階段を昇っていった。分かりきったやりとりのために。
 これから繰り広げられるだろう会話の応酬を予想し、彼は苦く笑んだ。段にかける足はその歩ごとに重みを増し、行く手を阻もうとする。その理由を知る故に、笑みでない笑みを浮かべ、ともすれば落としてしまいそうな溜息を押し殺した。
 伝え損ねた願いを伝える。
 ただそれだけが、今この階段を昇る、目的。
 それは、たとえば魔の継承。
 ──訪れるつもりなど、無かった。
 あるいは、救命。
 ──願いを告げるつもりなど。
 あるいは。
 何れにしても男が「諾」と頷くものなど、己の願いの中には何ひとつない。零れた水が元には戻らないのと同じように、一度袂を分かった両者の意思は──あの男の意思など、変わりはしない。
 そうしてきっと男は自分の望みばかりを繰り返す。押し付ける。──すべてを無に帰せと難題を突きつける。
 それが分かる故に。
 分かるのに。
 光は少しずつ大きくなっていく。
 逃げ出したい衝動を抑え込み、それでも前に進むその理由は彼自身にも分からなかった。否、見て見ぬふりをしているに過ぎないのかもしれないし、気付かぬよう仕向けているに過ぎないのかもしれない。
 ──それ故に、内なる願いは秘め、外なる願いを。
「……嫌なところまでそっくりだな」
 階段の終わり、最後の一段にシドニーは足をかけた。目指した光のその一端にそっと手をかけ、秘密の小室へと滑り込む。
 探らずとも、感じることのできる気配。己に最も近いもの。幾重にも張られた厚布の向こうに、男がいた。
 己の出現に驚く気配すら感じさせず、男は無言を貫く。
 今までがそうであったように。
 ただ前を見据え、影である者の声を待つ。
 ──見据えるのは虚空か、混沌か。あるいは、別のものか。
 これまでがそうであったように。
 シドニーは幾重にも巡らせた厚布を見据えた。帳のその先にいる男を同じまなざしで見据え、そうして。
 そして、彼は願いを口にした。


 一段、そしてまた一段。
 石造りの段を踏みしめるたびに、重く耳障りな金属音が靴音に混じる。剣を壁に打ちつけるような、ざらついた音が耳朶を打つ。音が床に落ちていく。
 昇ったときと寸分違わない金属めいた音を響かせ、シドニーは階段を降りる。光を目指した往路とは反対に、降りるたびに闇ばかりが深みを増していった。
 一歩、また一歩。階段を降りきり、闇の中を進む。か細い光はもはや遠ざかり、代わりに近付くのは慣れた闇。振り返ることも立ち止まることもなく、表情を消したまま闇の中を歩いていく。
 演技でも本心でもない表情のまま、闇の中を。
 そんな表情が今の彼には必要だった。提示した願いとそれに対する答を受け止めるためには、そんな顔が。
 故に、今の彼には闇が必要だった。誰の目にも晒されることのない、閉じた闇が。
 ──結果は、決裂。予想を裏切らなかった結論は彼に何の感慨も抱かなかった。
 男の出した結論に、彼は寧ろ安堵さえ抱いた。錯覚のような少しばかりの苦々しい思いは無視してしまえば何ということはない。あの男と自分が願ったものは違っていた。本当にただそれだけのことだ。
 分かりきっていたことだ。
 ここまで殺していた溜息をようやく落とし、シドニーは歩を止めた。既に光は去り、自ら望んだ真の闇に包まれている。その闇の中に彼は一人佇み、先行きを思った。
 ──帰らなければ。あの街へ。
 闇の中に、古の街が浮かぶ。七色にその身を輝かせる「故郷」は、己にとって帰るべき場所。
 自分のいないあの街は、今、それでもひとつの終息に向けてはっきりと胎動している。長い間、刻み込まれたまま閉ざされていた願いを叫ぶが如く老いた身を震わせ、持てる力を解き放とうとしている。
 それは、仕掛けた己の手を離れ、何処かへと。
 もはや操ることはできずとも、しかし、それを見届ける義務と権利が己にはある。
 故に。
 見えない手を翳し、闇の中で目を閉じる。詠唱すべく転移の呪を唇に乗せると、言葉は彼の意思とは関係ないところで自然に紡がれていった。
 帰らなければ。
 己自身の声を聞きながら、彼は心で呟いた。
 見届ける必要がある。紡ぐ言葉と同じように己の手を既に離れた──己の意思と関係ないところで転がり始めたその争いを。
 勝つのは、誰か。手にするものは、何か。己の賭けの行方こそは何処に着地するのか。
 見届けなければならない。
 詠唱は魔を呼び、魔は体を満たしていく。その慣れた感覚に身を委ね、すべての力を抜きながら、彼は心で呟いた。


 ──青空。
 緑の木陰。繰り返される想い。
 ──陽射。
 夏の白雲。封じられた想い。

 風が、耳朶に触れた。
 光が入り込んだように、閉じた瞼の裏が明るく染まる。空高く架かった陽がもたらすような、光。
「──」
 違和感にシドニーは目をこじ開けた。暗闇に慣れた目は光を受け付けず、広がったのは一瞬の真白の世界。そうして。
 青空。陽光。
 目の前の光景に、彼は唖然とした。
 思い描いた地ではなかった。行先と定めた街ではなかった。
 草原。白雲。
「ここは……」
 呆然とした思いでシドニーは周囲を見回した。夏の空に緑の草原。降り注ぐ陽光と白い雲。吹く風に、草原は波のようにきらめいている。
 レアモンデではなかった。あの死に沈んだ街にはけしてない生気に満ち溢れた光景が、そこにはあった。
 空を見上げると、天の最も高いところに輝く初夏の陽。現ではないのに陽は輝き、風は吹くのかと思うと、何だかおかしかった。
 そう、ここは現ではない。現などであってはならない。
 見上げた陽からシドニーは視線を僅かに下にずらした。
 不自然に浮いた、閉じられた過去。
 それは、アシュレイ・ライオットの心象風景に違いなかった。先刻、己があのリスクブレイカーから直接「聞いた」光景と寸分たりとも違わない光景。
 何故今、そんなところへ入り込んでしまったのかは知らないが、おそらくは、そのもの──。
 そこまで思考をめぐらせ、シドニーは緩く首を振った。ひとつの予感を胸に灯らせ、丘の頂を見やる。
 そうして彼は一歩を踏み出した。
 鋼の足を踏み出すたびに地は彼を受け止め、先へと促す。
 雲は風にゆったりと吹かれ、流れていく。
 その雲に遮られ、陽の光は時折表情を変える。
 それは一瞬たりとて同じものではなく。けれども、すべてが同じもののようで。
 何も変わらない、繰り返しの光景。ここはそんな場所だった。
 一歩。そうしてまた一歩。丘の頂を目指して歩く。
 悔恨と罠によって自ら心を閉ざした男と共に覗いた光景。男の記憶を頼りに己が開いた光景。だが、と確信めいた予感に彼は己の考えをそっと囁く。
 ──真実は、未だ沈黙している。
 あの男にとっての真実は、彼の前で未だ沈黙を続けている。男が過去から目を側め、そして今、過去に囚われてしまったがために。目指す先に佇んでいるだろう、彼らを見失ったがために。
 ──この世界は、未だ閉じている。
 故に。
 不自然な程に蒼い空と光り輝く緑の向こうに人影はふたつ。
 あの幻と変わらず、丘の頂に小さくできた木陰に彼らは、いた。
 「彼」が心に住まわせていた、閉じ込めたあの情景と同じように。
 ──もっとも。
 シドニーは思う。そうして皮肉げに頬を釣り上げようとして、何故かそれは失敗した。
 もっとも。今、あの男の中に存在する繰り返しの光景は、今自分が見ているものとは別に存在している。ローゼンクランツという名の第三者から突きつけられたもうひとつの真実。男はそれらに翻弄されている頃合だろう。
 信じてきたものと全く異なる、根底を覆すような真実。己が覗いたときにも、あのリスクブレイカーの内にはふたつの「真実」が確かに存在していた。
 どちらが真実か。それとも、どちらもが虚であり、幻なのか。
 それとも。
 無論、ただ聞いたのみの身にはそれを知ることはできない。仮に知ることができたとしても、己の言葉の重みなどあの男には無い。どちらを信じるか、それを選ぶのはあの男自身。どちらを手に入れるか、それともすべてから逃げるか。それは、あの男次第だ。
 天に頂く太陽は時折雲に隠れ、草原には影が風と共に渡る。光と影の眩い緑の中を歩いていく。
 ──そして、己の賭けはその先にこそ。
 見据える先、影が動いた。
 紛れ込んだ者に気付いたのか、大と小、ふたつの影が立ち上がる。もう影とは呼べぬほどの距離に佇む彼らは、やはり男の記憶にあった姿と変わらなかった。
 繰り返しの光景。すべてが止まり、消えることさえ、立ち去ることさえ許されない魂の住まう場所。
 男の心が閉じられてしまったがために、ぽっかりと浮いてしまった場所。
 魔で象った透明な小鳥を飛ばし、そんな場所に佇む二人の気配にシドニーは触れた。
 隠すまでもなく、彼らの胸の内にあるのは──落胆。
 ──それはそうだ。彼らは己ではない誰かを待っている。
 この終わることのない永遠の楔にも似た球の中で、最も大切な存在を待ち続けている。
「珍しいわ」
 坂を登りきり、歩を寄せたシドニーにそう話しかけたのは、真白のサマードレスを身に纏った女だった。
 俄かに怯える様子を見せた子どもの背を撫ぜ、女は──あの男の妻であった女は──微笑んだ。
「ようこそ、お客様」
「……」
 それは不思議な光景だった。現ではない場で、もう現には存在しない人間と言葉を交わす。聞くのではなく、言葉を。見るのではなく、まなざしを。
 女も、子どもも、そして己も少しばかりの驚きでそれを受け入れてしまっている。ならば、これは夢なのかもしれない。
「え、この変なかっこうのひと、おきゃくさま?」
「……」
「マーゴ」
 思わず本音が出てしまったのだろう子どもを女が諌める。呆れ、それでも睨みつけぬよう意識して見下ろすと、あの男にそっくりな子どもは悪戯が見つかったような顔でシドニーに笑いかけた。
 この青空によく似合う笑顔で。
 その笑顔から視線を転じ、彼は周囲を見渡した。空と雲。陽と風。緑の丘と大樹。それだけで占められているこの空間。
 あの雲は、あまりにも白くて動きも決まったものでしかない。
 風はどこまでも穏やかで優しすぎて。
 不自然極まりない繰り返しの場所。男の悔恨にも疑念にも揺り動かされない、知られざる事実の眠る場所。そこに彼らは今も佇んでいる。
 誰も──そう、誰も気付きはしない、球のような閉じた空間に。
 閉ざされた、望み。
 包み込むようなまなざしに再び振り向くと、女はシドニーにこくりと頷いた。彼女は、自分自身の身に何が起きたのか知っているのだ。そして、感じている。今何が起きているか、具体的に見ることは叶わぬとも、見るともなく捉えている。
 言葉少なな彼女の思いとて覗くことは己には可能だろう。シドニーは思ったが、彼女に手を翳しはしなかった。そのようなことをせずとも、彼女が穏やかな想いでいるのは分かる。そして、その中に強い意志──祈りにも似た望みが潜んでいることも。
 それは傍らの子どもも同じ。そうして、彼らは待っている。
 そうして、自分は。
「……私たちは待っているわ。ここで、こうして。あの人がここに来るのを」
 彼女の言葉は、真摯だった。現ではない者のまなざしは、その言葉よりさらに雄弁に想いを伝えた。
 探しているから。
 ──訪れるつもりなど、無かった。
 信じているから。
 ──願いを告げるつもりなど。願いを胸に抱くなど。
 そうして今もこの場所に。
 ──帰らなければ、あの街へ。
 死の為などではなく。
 生の為に。
 ──そうやって引き継がれていく永遠のために。
「だが……叶わないかもしれんな」
 軽口めいた口調でシドニーは二人に告げた。一歩を踏み出し、陽光にその身を晒す。止みかけた風はそれでも草の匂いを伝える。
 空の向こう、己の居るべき場所を求め、彼は変わらぬ光景を見据えた。
 彼らの望みが叶うとき。それは。
「──それはないでしょう?」
 追いかけた言葉が背を打った。
「──」
 確信に満ちた、鈴の音のような声。あくまで穏やかな声色は、しかし、彼を見透かすように透明だった。
 僅かに側めた視線の先、女は涼やかに微笑む。
 ──貴方がそうはさせないでしょう?
 言外の問いを視線に混ぜ、彼女は無言で彼に語りかける。シドニーもまた、無言の内にその言葉を──多少の驚きとともに──受け止め、そうして彼は苦笑した。
 叶うことを信じて、彼らはそうして今もこの場所に。
 聞き届けられることを願って、己はそうしてあの場所へ。
 あの男が最後に何を選ぶのか。それを見届けるためにあの街へ。
 ──己の願いは、彼らの望みのその先にこそ。
 そのために、と彼女は言った。
「……ああ」
 肩の力を抜き、シドニーは二人にそれだけを告げた。
 更に一歩を踏み出し、戻るべく天に偽の手を翳す。転移の呪はやはり己の意思とは関係ないところで自然に紡がれていった。
 詠唱は魔を呼び、魔は体を満たしていく。その慣れた感覚に身を委ね、見送る視線を感じながら、彼は心で彼らに呟いた。


 ──断末魔。
 その叫びにこめられる願いは生か死か。
 またひとつ、魔に染まりし異形の物が塵へと還った音にシドニーは目を開けた。視線の先、異教の女神は隙を窺うような素振りで彼を見下ろしている。
 聞き慣れた音。見慣れた風景。水のように馴染んだ感覚。
 シドニーは微笑った。
 暗く澱んだ魔の神殿には不釣合いな夏の香に、彼は笑んだ。