THE ETERNAL KNOT

4.

 ──雨は未だ降らない。
 
 湿り気を帯びた空気に、壁のあかりは不穏に揺れた。
 人の所作に差し支えないほどに置かれた光の数々は、しかしこの重く寒々しい闇に飲み込まれつつある。
 そんな夜更けだった。
 薄暗い部屋、公爵家の執事バルドウィンは机に向かい、議会に提出する予定の書類を纏めていた。今回の事件──カルト教団による公爵邸襲撃事件──における聴取を議会は公爵に求めていた。公爵は病に伏し応じることはできない。この書はその旨を伝えるものだ。
 美しい羽根飾りをあしらったペンが紙にひっかかり、彼は知らず溜め息をついた。ここ数週間の雨で紙はすっかり水気を吸ってしまっている。
 ペンを置き、書類を引出しにしまい鍵をかけてしまうと、バルドウィンは窓の外を眺めやった。
 今、雨音は聞こえず、夜の闇はそれ故に底知れぬ深さを見せている。
 底知れぬ深さを。
 
 
『そろそろお休みくださいませ』
 先刻、主の寝室を訪れ、彼はそう勧めた。時が深い闇と隣り合わせになろうとしていた刻限のことである。
 元々病に伏せていた主は、この一週間ほどで老身を更に衰弱させていた。細かった食はますます細くなり、空気の如く常に纏わせていた威厳は翳りを見せている。
 やはり、事件の衝撃が尾を引いているのだ。バルドウィンは思う。
 公爵は援助していた教団の襲撃を受けたのだった。公爵自身はこの別邸に滞在しており無事だったが、子息のジョシュアが拉致され、また事件終結後に本邸が──教団の操る魔を隠匿するため公爵自らの命で──焼失した。
 それらはちょうど一週間前のことで、公爵に生気が失われ始めた時期と一致する。
 教団は公爵にとって手飼いの犬だった。喉元に噛み付かれた傷は時を経ても癒えず、また、何時再び噛み付かれるとも限らない。保護されたと報告のあった愛息をそのまま遠ざけているのもそのためだろう。
 ──命の火は急速に闇に消えようとしている。
 豪奢な寝台にその身を起こし何事かを思案している風情の主に、バルドウィンはそんな印象を受けた。
 彼の進言に主は耳を持たず、時折思い出したように窓を眺めやる。
 緩慢な所作はまるで誰かを待っているかのように。
 ──誰を待つというのか。
 その場を辞去し、バルドウィンは思った。公爵に待つべき者などいないはずだ。馬鹿な考えをしたと頭を振った。
 公爵に待つべき者など存在し得ない。
 彼が自らすべて切り捨てたのだから。
 
 規則正しく戸を叩く音にバルドウィンは振り返り、入室の許可を与えた。
 現れたのは従者だった。従者は彼に、公爵に面会を乞う者がある旨を伝えた。自身の考えと重なるような事実の発生にバルドウィンは内心驚き、焦ったが表には出さない。
 訪問者は、治安維持騎士団の者であるらしい。おそらくは今回の一件に関わる者か。
 常ならば再訪を願うのが道理である。しかし、従者は訪問者の身分を知り、執事であるバルドウィンに判断を求めた。一介の従者が直接公爵に判断を仰ぐことはできないのだ。
 しかし、その場に居合わせたなら己とても同じことをしたに違いない。事象の奇妙な偶然に軽い目眩を覚えながらバルドウィンは思った。
「分かりました。公爵にその旨伝えましょう」
 答えると従者は安堵の表情で頭を下げた。

 ──雨は未だ、降らない。

 品の良い執事に案内され、アシュレイ・ライオットは入室を遂げた。案外に部屋は暗く、室内の様子を一瞬で探ることは難い。僅かに視線を動かした。
 軋音を立て背後で扉が閉まる。
 目的の老人は寝台の上にてアシュレイを見返していた。突然の訪問者に驚くこともなく、無言のまま眺める。戸口に立ったままであった彼が移動すると、老人もまたその視線を移動させた。
 視線には僅かに落胆の色。
 だが落胆すらも予感していたような、諦念の色。
 古い肖像画の前に立ち、アシュレイは静かにそれを受け止める。跳ね返すこともせずに。
 そして、用件を告げるべく口を開く。
「……会いたいと願っている」
 主語は敢えて省いた。
 言葉に、老公爵が息を呑む。諦念と落胆の色濃いまなざしに何かが加わっていく。アシュレイは身じろぎもせずにやはり受け止めた。
 闇に沈黙が同居する。
 今、この場にあることは己の役目ではない──佇み、思考の片隅で彼は思う。
 役目などではなく。
「……それは、あれが伝えたものか?」
「いや」
 やがて沈黙を破った言をアシュレイは否定した。言伝を頼まれた訳ではなかった。そもそも、己がここにこうしてあることをあの男は知らない。
 自らの意思で彼は公爵に面会を求め、言葉を告げた。その行動原理となりえたのは役目や任務という言葉ではなく、無論魔の継承者たる所以でもなく……それは、一個の人間として、そして親だった存在としての単純な感情。
 導き出された答は未だ道の途中にある故に。
 声ならぬ呟きを聞き届けたが故に。
 ──雨が降ろうとしている。
 公爵の微かな頷きを認め、辞去すべく踵を返した。その背を公爵が引き止める。物言いたげな思念を感じ、アシュレイは振り返った。
「あれは、何か言っていたか」
 親の目で老人は振り返った彼に問う。
 そのまなざしにはもはや、諦念も落胆も込められておらず、ただ穏やかに。
「自分で聞くといい」
 アシュレイは問いに答えず、ただ素っ気なくそれだけを言った。
 今、己は語る術を持たない、ただその故に。
 語るを心の底では老人が望んでいないと知り得る故に。
 言葉の破片は、転がり落ちた瞬間から空気に触れ、偽りの膜を帯びる。真に語ることのできる人物によって語られなければ、言葉は何の意味も持たないのだ。
 察したのか、慇懃な拒絶に公爵は二度頷いた。
「……そのようにしよう。──バルドウィン」
「何でしょうか、旦那様」
 重々しく扉の開く音と共に現れた執事に、公爵はアシュレイの辞去を伝える。命を受け、執事は慣れた手筈でアシュレイを促した。
「……では、明晩」
 去り際、約のみを残しアシュレイは部屋を出た。部屋より漏れた闇は廊下を静かに侵食したが、それはすぐに閉じられる。
 夜に溶ける空間を映し出すあかりは、仄かに雨の匂いがした。

<終>

あとがき

「SEASHORE」という話と対になるように書いたアシュレイさん視点の話でした。結局は「自分が信じる道を行くしかない」ということなんだろうな、と彼に関しては思う次第でした。

2000.12.29 / 2017.08.30