1.
──心に沈む刺が消えていく瞬間がある。
冬に雨季となるバレンディアはその夜も当然の如く雨だった。寒気のために霙混じりとなったそれはあくまでもまばら。人少ない通りに傘を持つ者はなかった。
外套の襟を立て足早に人々は家路を急ぐ。取り残された街灯が雨煙に滲んだ。
アシュレイ・ライオットもその中のひとりだった。雨音が覆い尽くすよりも早く、他者の急いた足音が規則的に響く彼のそれを消し去っていく。
急いてしまう理由が何かしら追い越していった者達にはあるのだろう。
それは、暖かい我家で帰りを待つ者がいるからなのかもしれないし、単に濡れてしまうのを厭わしく思うだけだからかもしれなかった。
アシュレイは急く理由を持たなかった。故にひとり、雨に打たれる石道を変わらぬ歩調で歩いていく。
角を曲がり、三軒目の古い建物に入る。見やることもない戸口には、この建物がバレンディア治安維持騎士団の官舎である旨を示す札がかけられてある。
階段を昇り、つきあたりを右に。薄暗い廊下の先、闇へと続くかとも思えるような最奥に辿り着くと、彼は鍵を取り出し、扉を開けた。
そこが彼の住居──、眠りに落ちるためだけにある場所だった。
生活臭のまるでない部屋は、主をそっけなく迎えた。
湿り気を帯びた空気はあくまでも冷たく、そこに人の温もりが介在する余地はない。それはそのまま、長期に渡って任務を遂行していたことを意味する。
先刻、彼は騎士団の本部に赴き任務終了の報告をしてきた。時間と忍耐を要し、常に緊張を強いられる潜入調査を確実にこなした彼を騎士団は評価したようだったが。
しかし、彼にとって騎士団の評価は何の意味をももたらさなかった。それは無論今回に限ったことではなく。
議会が──、国が喉から手を出すほど欲しがった調査結果も、既に彼の中ではその色を失っていた。思うところなど何もない。
記憶の中に「事例」として留められるのみ──たとえ無関係の者を殺めるような結末を生み出したとしても。彼のもたらした情報がどのように利用されようとも。
任務に感情など必要ない、とアシュレイは思っている。必要なのは己の技量だけだ。
人を拒む冷気など気にするふうでもなく、あかりをつけると簡素な衣服に彼は着替えた。愛用の武器をあかりに近付け、機能を損じていないかざっと見渡す。
二、三の手入れを入れるだけで元の状態を取り戻したそれをそのまま卓に置き、次に彼が向かったのは寝台だ。
またすぐに次の任務が言い渡されるのだろう。ならば、その前に少しでも体を休めておく必要がある。思考ではないところで下した判断のままに寝台へ倒れ込んだ。
じわじわと筋肉が弛緩するのに身を委ねる。聴覚はふと鋭くなり、窓の外、未だ降り続ける霙混じりの雨の音が。
冷たい雨だった。だが、雪になるほどではない。
窓の外を眺めるようにアシュレイは寝返りをひとつ打った。夜闇と雨雲に覆われた空はあくまで暗く、雨であるのか霙であるのかは分からない。しかし窓を打ち石畳の上に跳ねる雨音は、存外に響き、彼にその存在が何であるのかを示し続けていた。
冷たい雨だ。人の心を滅入らせるような、そんな雨だ。
だが。
もう一度体の向きを変え、肘を寝台に突いた。仄かなあかりを頼りに寝台にくくりつけられた棚を探ると、目当てのものはすぐに見つかった。
それは、小さな額縁に納められた一枚の絵だった。
描かれているのは己と、もうこの現には存在し得ない妻と子。
家族を持つものならば、数年に一度は絵師に描いてもらう習慣がこの国にはある。アシュレイもまたそれに倣い──実際には妻子に促されたのだったが──、はにかんだ笑みを浮かべつつ絵師に素描を取ってもらったのだった。
それを今、彼は手に取った。
絵の中、彼は穏やかな笑みを浮かべている。妻や子も幸福そうに。
窓の外、雨音は鮮明に。
普段この絵は伏せたままで、飾られるようなことはない。絵を覗くのは、このような雨の夜のみであり、それ故に雨音は刻み込むように彼の内に響き渡った。
今は雨であり、夜であり……あの夏の晴れた空からは遠いのだと、彼に教えるように。
心に潜む刺をせめて今は隠そうとするかのように。
冷たい雨だ。滅入るような冬の雨だ。
故に、今は静かに絵と向き合うことができる。痛みを伴うことなく思い出すことが。
心に沈んだ刺が消え去っていくかのように。
やがて、短い眠りに就く時。
あかりを吹き消す前、彼は絵を棚に立てかけた。
おそらく明日も空は雲に覆われているだろう。
記憶からもっとも遠い場所に置かれた絵は、そうして闇に沈んでいった。