THE ETERNAL KNOT

2.

 鳴らす者もないはずの鐘の音は街を包み、魔に塗れた大気を震わせていた。
 浮石の上に立ち、その音を聞きながらアシュレイは再び地上へと戻った。
 地下に慣れた目に雨上がりの陽射しは明るく、鋭い。もとよりレアモンデやグレイランドを要とするこの地方は、バレンディアの中でも「陽光の美しさ」で知られる土地柄である。雨により塵を払い落とした空は、光にその身を透き通らせていた。
 強い陽の光は、暗い影を生み出す。レアモンデは光と影の都でもあったのだ。
 射抜くように差し込む陽光に、アシュレイは僅かに目を細めた。だが、それ以上は望めなかった。腕は疲労し、鉛のように重く、光を遮ろうとする持ち主の意思にまるで動じない。
 浮石を降り、柔らかな草を踏む。未だその手の内にあった武具を収め、整わぬ呼吸を穏やかなものに変えるように努力した。
 異教の女神像と刃を交えた後、アシュレイはすぐにその召喚主を追い、この場まで走った。女神の召喚主であり、おそらくこの顛末の鍵を──文字通りの「鍵」を──握る者であるシドニー・ロスタロットの姿はしかし、どこにも見当たらない。
 転移の魔法を用い、彼の言によるところの「高み」へと向かったのか。
 草に目を落としたまま、アシュレイは確認を取るように事実を推測へと繋げた。荒れた呼吸は徐々に整い、乱れた集中力も元の研ぎ澄まされた状態へと変化を遂げていく。リスクブレイカーとして彼が培ってきた技のひとつだ。
 だが、無意識に動くそれらの感覚とは別の次元で、彼は再び混乱という名の濁流に呑み込まれようとしている。彼が自らの意思で封じ込めていたもの……心と呼ばれるべき次元で。
 
 ──失った妻子を助けることができるかもしれんぞッ!
 
 耳に未だ残る科白。
 自身の記憶、他人の証言、現実と虚偽……そういったものに揺れながらもひとつに束ねかけた彼の思考を突き崩したのは、シドニーの放った言葉だった。
 つい先刻、地下神殿でのことである。
 言が放たれた瞬間、魔都は地を震わせた。あたかも歓喜するが如く。この空間を支配する主に共鳴するが如く。
『どういうことだッ!』
 強打された頭の痛みも忘れ、アシュレイは反駁した。
 シドニーが自分に魔の後継を望んでいることは既に彼も知り得ている。そしてそのために「過去」へ干渉したのだろうということも。語られたのは真実だろうということも。
 故にアシュレイは、何かの鍵のように引き出された「過去」そのものには驚かなかった。束ねた思考を解くようなシドニーの科白にこそ驚き、我を忘れ、叫んだ。
『会ったら謝るんだな! かつての過ちをッ!』
 答えず、ただ口の端を釣り上げてシドニーは背を向ける。後を追おうとするアシュレイの前に異教の女神が立ちはだかった。
 鈍い残光が、剣を模した彼女の手に残っていた。

 アシュレイは顔を上げた。冬の短い陽は既に傾きかけ、急速に鋭さを失い、それに応じて街の色も変化しつつある。目前、この街の象徴として君臨する大聖堂もまた、夕暮れの色に染まりつつあった。
 その姿に受ける印象は、この街に乗り込んだ時と然程変わらないと彼は思う。祈りを捧げる者もない信仰の場は生気に乏しく、無機質であり、しかし荘厳でもあった。
 だが──。
 解けた思考と結論を当座に束ね、アシュレイは大聖堂を見上げた。
 大聖堂を取り巻く気配……魔と呼ばれるべき存在は今、はっきりとこの場を覆い尽くそうとしている。本来目に見えぬものであるはずのそれは、近くに佇む彼の身をも取り込む勢いだ。
 晒した素肌に小さな刺が刺さるような痛み。その感覚に彼は違和感を覚えた。
 己が触れてきた魔は、知らずうちに身に馴染んできたものだった。だが、この場で感じる感覚は全く違う。
 ふたつの力が鋭く火花を散らしあっているような。
 そんな具合だ。
 閉ざされた扉に手をかける。扉は一瞬、アシュレイを跳ね除けるように暴れたがすぐに大人しくなった。

 そもそもの始まりは何処にあったのだろうか。
 魔の中心部に足を踏み入れ、方向を探りながらアシュレイは再び思考を自ら解いた。
 深く沈めた過去に触れたのは何故。
 以前ならば──この事件と関わりを持つよりも前の自分ならば、どのような干渉を受けようともそれを退ける術を持っていた。今もおそらく持ち合わせているだろう。
 だが、術を使わず結局は促されるままに過去へと。
 封じていたはずの記憶だ。心と呼ばれる存在ごと沈めてしまったはずのものだ。
 しかし、暴かれてしまえば身を切るほどに無防備な。
 そんな部分を他人に触れさせた時から、己にとってこの事件はひとつの任務としてではなく、特別な意味を持つようになった。
 任務として扱うならば、己は最初から道を踏み誤っていた。レアモンデ侵入前に騎士団の判断を仰ぐべきだったのだ。しかるべき者に対処を任せ、自身はまた他の任務に就く。ただそれだけですべては終わるはずだった。
 抉るような痛みなど感じることもなく。
 己が虚構に惑わされることもなく。
 正確な判断──個人としてではなく、国家としての──を狂わせたのは、確かに魔の存在。御伽話の延長にも思えた事象の数々を目の当たりにし、混乱したのも事実だ。
 だが、それだけだったろうか?
 光も射し込まぬ大聖堂の中にあって、アシュレイは自問する。
 「信じた」のは、魔の力を目の当たりにしたからか。その先にあった記憶の諸々はそうした「事実」を知ったからこそ己の中で色を変えたのか。
 任務という無機質な言葉を超え、自らの意思をもって動くようになったのは……、少なくともそう認めるようになったのは、「魔」のためだけか。
 それは、現実が不可思議に揺らぐ瞬間に浮上する己への問い。
 即座に是と答える自分がいた。
 逡巡の末に否と答える心があった。
 そして今、解いた思考と結論は事実をまたひとつ加えて新たな形を為していく。浮かび上がった問いも紡ぎ出した答もすべてはその中に。
 すべては、その中に。

 聖竜であった物体は、骸と成り果てるよりも早く、塵となり空に消えた。
 もはや、如何なる魔物も彼の障害とは成り得ない。
 魔の中心部であるこの場において、魔が己を浸していくのをアシュレイは感じていた。馴染むような感覚はやはりレアモンデのそれだからだろうか。
 応じるが如く自己の技は冴えを見せた。迷いのない動作を見極めるかのように、眼光はあくまで鋭く。肉体に心が支配されるのではなく、心に肉体を付随させるべくアシュレイは剣をふるう。
 剣の中にはひとつの過去があった。未だ見えぬ、だが己に確かに眠る現。
 現と思う心は、現実を突きつけられたことによるものではなく。
 他者の言葉を鵜呑みにしたためでもなく。
 真実は、魔都を駆け抜け、幾度もの問いを越え、己の内に落ち着いたものだった。
 そして、もうひとつの過去。
 抜けぬ刺が疼くような記憶もまた現だと。
 信じるという言葉よりも更に深いところでそう彼は捉えた。
 偽の記憶と呼ばれた……、それこそ彼が過去と「信じていた」事柄は問いと共に揺れ動き、時には幻と化し、また時には現の悪夢と化した。胸に眠らせていた想いは球のように転がり、瞬く間に霞みの向こうへ。
 或いは、夏の空の彼方へ。
 ただ立ち竦み、記憶の転がっていくさまを彼は眺めた。むしろ、願いすらした。抱え持つこの鈍い痛みが己より切り離されたものであればと。
 幻痛は悔恨より生じるもの。もし自らの知る過去が真に幻であれば、それは痛みと共に雲散するだろう。
 妻や子などいなかった。あれは単なる任務中の過失に過ぎなかったのだ。己が悔いる要素は何もありはしない……彼の中で何かが囁いた。
 既に記憶は霧に紛れ、吹雪に迷い込んだように視界は利かない。思考は逆流し、彼の中枢をも破壊する勢いで噴出した。
 だが、しかし。
 幻と決め付けたはずの「記憶」は消え失せることなく、無機質に剣を振るう彼の中に存在し続けた。退けようともそれは何時の間にか心の間に滑り込み、同じ原風景を描いてみせた。
 より鮮明に。遠ざかった過去を引き付けるかのように。
 雪上がり、靄が急速に晴れていくように。
 閉ざしたはずの心が再び揺れ動く。目を背け、心を閉ざし、しかしなお胸に抱えていた記憶はあまりにも自身に近かった。
 幻か。虚か。
 現か。真か。
 幾度も繰り返される問いをこの街は内包していた。その只中を彼は駆け抜けたのだった。
 心は、現実を見せつけられたことによるものではなく。
 他者の言葉を鵜呑みにしたためでもなく。
 魔都を駆け抜け、幾度もの問いを越え。
 そうして今、自らの意思でもっとも魔に近い場所を彼は目指していた。己を見極めるために……自身にとっての真実を確認するために。
 自ら魔に接触することを望むのはその故だった。
 ぽっかりと空に浮いた空間が金色に染まる。
 例の地震によるものか、聖堂の内部は所々大きく破壊されている。外界と同居した空間は夕暮色に染まり、天の頂すら見えた。

 ──……。

 アシュレイはふと足を止めた。
 物悲しく響く風の音に混ざり、耳を掠める声がある。
 一人ではない。非常に断片的なそれは複数の人間のもの。何かひとつの言葉を作り上げる前にある時は風に消え、またある時は他の者の言葉が入り込む。
 まるで絡まった糸のようなさまだ。
 意味を為さない単語の羅列に、アシュレイは己が目指す場所で繰り広げられている光景を思う。そこでは魔という名の遺産を巡り今まさに攻防が繰り広げられているはずだった。
 追い詰めたのは魔と無縁であるはずの法王庁──ギルデンスターン。追い詰められたのは対極にある者。アシュレイを挑発し、魔の後継を望んだ男だ。
 両者の力が拮抗しているためなのか、途切れがちだった意識は次第に鮮明なものになっていく。それを感じ取り、アシュレイは走り出した。
 歯車が回ろうとしている。
 意識の中、歯車の鍵を最早手中に収めたも同然の男はしかし、剣の切先をシドニーに向け威厳ある声で尋ねる。儀式に必要な「魂」とは何か?と。
 シドニーは答えない。答えず、含みのある笑みを見せるのみ。
 ──魂。
 アシュレイの心にも言葉は滑り込んだ。瞬間、同調していた意識は途切れ、現実が戻る。老人の姿をした魔物が余裕のない瞳で彼を睨め付けた。
 反射的に剣を抜き、魔物と対峙する。だが、眼前の敵を倒そうとする肉体とは裏腹に思考は意識の先を追った。
 魂とは、何か?
 思い出されるのは、先刻。教団の幹部であり、幼子を拉致した男は幻惑に取り付かれた折に「魂なんかこの街にはうようよいる」と言っていた。贄となるべき存在に欠くことのないこの場であればこそ、鍵を見つけることが急務なのだと。
 だが、鍵は既に彼らの前に存在していた。「鍵」は歯車を回すを良しとせず、魔を継ぐことを拒み、今の事態を半ば故意に引き起こしたのか。もしくは、拒まれたからこそ。
 魂とは、何か。
 そして継ぐことを要求された己の意味は。
 土の化身をアシュレイは追い詰め、剣を屠った。再び流れ込み始めた意識に心は置かず、彼は己に向けられた問いへの答を探す。
 自身の記憶。失っていた心。他者の証言。現実と虚偽。浮かぶのは、夏の青く澄み切った空。
 ふたつの過去。草原に突き刺さった血塗れの剣。
 懐かしい、妻と子の姿。
 胸にある諸々の総和こそが答だった。贄とするのではなく己の心が欲するままに、今、アシュレイはそれらに手を差し伸べようとしている。
 魂とは、そんな存在であるはず──塵と消えた魔物に背を向け、彼は思った。

「本当に結びついた魂でなければ意味がないわ!」
 緊迫した空気の中、突然声を張り上げた女分析官にシドニーは素早く視線を投げた。
 彼女の放った言こそが確かに答だった。
 シドニーは内心驚嘆した。と同時に疑念を抱いた。彼女が如何に分析能力に長けているとしても、今この場で繰り出せる言葉とも思えないからだ。
 事実、答を繰り出した当人もポーカーフェイスの隙間に困惑した表情を見せている。その表情に、彼は真に答を放った人物の存在を確信する。己にもっとも似た存在を。
 ──見つけたか、答を。
 間隙を縫い、ハーディン達のもとにシドニーは駆け寄った。裏切りを認めた己を友は未だ衝撃を隠せない様子で見上げている。
 その目が何かを訴えていた。
 「公爵を……、親父さんを助けたかったんだな?」
 確認を取るかのような言葉だった。縋るような、それでいて確信を込めたようなまなざしにしかし、シドニーは是とも否とも答えない。
 答えないのではなく、答えられないのだった。偽り続けた感情を一瞬の内に曝け出すことは困難だったが故に。
 故に無表情を装い転移の呪文を唱えた。瞬く間に三人は実体を失い、やがて消え失せる。それを見届けながらシドニーは問いの先を想った。
 その瞬間、確実に彼は無防備だった──。