THE ETERNAL KNOT

3.

 刹那の邂逅。
 だが、それは今も鮮明に思い起こすことができる。

 天も地もない真白の空間はその瞬間、突如実体を持った。
 眩さに瞑った目を見開けば、そこに広がるのは見慣れた光景。
 雲は風に吹かれゆったりと流れていく。
 その雲に遮られ陽の光は表情を変える。
 光を、風を受け草原は上質の絹のように。
 幾度も見た風景の中に彼は佇んでいた。彼もまたその場に実体を持って。
 現の過去か。幻の現在か。
 光景から目を背けた時のように、しばし立ち尽くす。胸にある奇妙なざわめきが光景の繰り返しを暗示するようで動けなかった。
 だが。
 一歩、彼は足を踏み出した。そしてもう一歩。
 足音に気が付いたのか、木陰に座っていた二人が顔を上げた。振り返り、驚いたような、それでいて安堵したかのような表情を見せる。
 おそらくは己も同じような顔つきをしているに違いなかった。
『パパ!』
 ざわめきは静かに霧消していく。
 見るなり駆け出してきた我が子を受け止めると、そのまま抱き上げた。暖かな感触が伝わるのをこの上なく愛しく思う。
 もうずっと失っていた感覚だった。
 願うままに切り捨てた感情だった。
 取り戻した今、止まっていた時が静かに動き始める。凍りついた心が解けるままに彼は我が子へ詫びた。
 寂しい思いをさせたと。省みず、置き去りにするような真似をしてしまったと。
 子は笑って首を横に振った。大丈夫だと答えた。まなざしに少しばかり残っていた寂しさもまた静かに消えていく。
 そしてゆっくりと歩み寄る気配に促されるように彼は顔を上げた。
『……ティア』
『お帰りなさい、アシュレイ』
 記憶と違わぬ、いや、自ら閉じ込めていた感情の分だけ色褪せていた妻の微笑みを、目を反らすことなく彼は受け止めた。
 待ち詫び続けたために唇より早く心から届いた言葉を、確かに聞いた。
 途切れた時を繋ぎ合わせる想いを。
 己が幾度も問いに振り回されたと同じほどに長い時を経て、彼女の心を巡った想いの数々は、上滑りすることもなく彼の心に沁みていった。

 ──消えていく、消えていく。

 彼の見守る前、幾千の光の粒となり、妻と子の魂は空に消えていった。
 押し留めようと僅かに動かした手は中途半端に虚空に彷徨い、やがて下ろされる。この場に立ち留まることなどできぬと心の芯が囁いた。
 一瞬の別離は、永遠の抱擁のために。
 急速に浮上する意識の端、彼は今一度、振り返った。
 幾度も心に浮かばせた風景もまた光の粒となり、消えていく。
 それらはやがてひとつの流れとなり、静かに彼の心へ降り積もった……。

 夜更けの月がその姿を西へと傾ぐ頃。
 海辺を歩いていた。
 ──静寂、か。
 海を眺めやり、アシュレイは唇の形のみを変え、呟く。波は幾度も地に砕け、ともすれば静寂に沈む夜に水音を響かせている。
 波のない凪の夜であれば、この地は真に静寂の只中に置かれるのだろう。
 だが今、こうして波音の響く夜であっても、静寂は闇と共にすぐ傍にあるような感覚があった。
 幾多の貝殻が浜辺に打ち上げられ、月の光を受けて白く輝いている。その貝殻達を踏み、軽い音を立てながら海辺を歩いた。
 足音は一人のものではなかった。
 ところどころ光る貝殻とは別の白が時折アシュレイの視界に入る。
 貝殻を踏むごとに擦りあうような堅い音が聞こえる。
 かつて預言者と謳われていた男──シドニー・ロスタロットは彼の数歩前を同じような足取りで歩いていた。アシュレイの視界に入った白とは、シドニーの羽織る上着が潮風にはためいたもの。
 むしろ無言の彼を追うように、アシュレイは歩を進めているのかもしれなかった。もしくはシドニーこそがアシュレイの歩調に合わせているのかもしれず。
 どちらかが歩の調子を変えれば、それはそのまま身に受ける力となる。距離が縮まれば受ける力は強まり、離れれば弱まるそれは、まるで細く張られた糸のような。
 今の彼らは確かにそんな関係なのだろう。
 魔都の崩壊より数日、崩れ去る大聖堂を脱した彼らは街中の工房に傷ついた身を休めていた。中心部である大聖堂とは離れてはいるものの、魔と未だ強く結びついている彼の地に留まることは賢明であり、好都合でもあった。
 アシュレイが引き継いだ魔の力はあまりにも強く、馴染ませるには案外に時を要した。そして、魔に身を浸し続けたシドニーの身はもはや市井の薬など何ら意味を為さない。致命傷にもなり得た傷の回復に要したのは、皮肉にも魔の力だった。
 そうして生じた微妙な関係を潮風が揺らす。
 緩やかに曲線を描いて落とされた幻糸より目を離し、アシュレイは再び海を眺める。波音を呼び起こす風が彼の頬を撫ぜた。
 海を見たいと、ふと思ったのだった。
 遠く微かに、だが絶え間なく聞こえる小波に誘われるように、海を見たいと。
 己の行動にシドニーを誘ったのには特に理由などなかった。敢えて付けるとするならばいくらでも付けられそうなものだったが、それ自体が無意味だとアシュレイは思う。
 海を見に行くと言った。壁に凭れる格好で空に目をやっていた男は己に視線を移し、見上げた。行くか?と誘ってみた。一呼吸の間の後に頷いた。
 ただそれだけのことだ。
 ただそれだけの。
 故にと言うべきか、清流のように流れ込む──時にそれは濁流になりもしたが──シドニーの思考へもアシュレイは干渉する気はなかった。魔という存在を下ろし、傷身を癒しながらシドニーは思案し続けているようだった。
 空白の時間を望むのならば、望むままに。
 空白の世界を望むのならば。
 魔都を走り抜けた際にアシュレイ自身が繰り返したのと同じそれは、回帰への道筋に他ならない。
 彼も未だ歩み続ける道筋に。
 幻糸がするすると伸びていくような錯覚に、アシュレイは知らず足を止めていたことに気が付く。シドニーはもう大分先を行き、夜の闇と月の光をその身に纏わせているようにアシュレイには見えた。
 月の光は時折雲に遮られ、陽光と同じように表情を変えていく。
 月を映し出した海は、波に多くの月を描きつつなお暗く。
 そんな海に向き直り、アシュレイは懐から何かを取り出した。貝殻のように月光を受け、銀色の光を放つそれは、聖印を模った首飾り。
 妻の形見と身に付けていたものだ。
 魔都の崩壊によってか、何かの拍子にか鎖は切れてしまっていた。繋ぎ合わせることもできたが、それもせずにただ懐へ入れていたのだった。
 首飾りはかつて彼の拠りどころだった。自身の記憶を辿る上でなくてはならないもの、記憶を証拠付ける唯一の存在。如何な虚言に惑わされようとこの首飾りあるかぎり、己の記憶こそ正しいものだと信じていた。
 剣をふるう理由のすべてはそこに。
 悲嘆を怒りに変え、心を封じ込めていた彼の行動理由もまた首飾りにあった。
 故に、己の記憶の崩壊をみたとき彼は真っ先に首飾りへと手をやった。存在すら疑問に思わなかったものを、この瞬間初めて疑った。
 「これ」は何か?
 形見と思い、支えでもあった「それ」は、実は己に何の意味をももたらさないのか。
 洗脳によって植え付けられた意識を強固にするべく、与えられた「がらくた」に過ぎないのか。
 くすんだ銀色は何も告げず、戸惑う彼の前で事象は絶えず変化していく。問いは幾度も繰り返され、束ねた思考はその度に解けた。
 そうして魔都の中枢部に達した時、奥底に沈み常に不安定に揺れていた心は、ひとつの方角を指し示していた。他者に迎合するのでもなく、自身の記憶に溺れるのでもなく、彼はただひとつの答を見出した。
 答は真白の道へと繋がる。道は己への回帰を遂げるものであり、真実を告げるものでもあった。
 そして、刹那の邂逅。
 見慣れた光景は形を変え、再び彼は愛しい者達のもとへと戻った。
 今も鮮明に思い起こすことができる真実だ。
 色褪せるほどに時を得ていないためではない。おそらく、どれほど時を経たとしてもあの日の邂逅は胸に残り続けるだろう。
 抜けぬ刺を内包し球となって存在していた心の殻は、再会を果たした時静かに砕け散った。砕け散り、それは幾多の光の粒となって彼の心に降り積もった。
 がらんとした空間に浮く不安定な存在はそうして変化したのだ。
 あたかも雪のように雨のように、あまねく注がれたために。乾き、ひび割れた空間を潤したために。
 故に、今も。そして未来へも。
 揺るぎない真実は絆となり、己の内に。
 一際大きな波が砕け、手にした銀の聖印にも波飛沫が飛んだ。
 波はにわかに高くなり、月は雲に遮られ夜はまた少し濃くなる。月光を受け銀色に輝いた聖印も今は闇に佇んでいた。
 記憶を越え、真実を知り、回帰を遂げてなお、聖印は共に。
 過去に属するものとして確かに存在してきたそれを、アシュレイは海へと投げ入れる。
 切れた鎖の先、緩やかに弧を描き聖印は水面にその身を横たえた。幾度か波に浚われ、海の只中へと運ばれ、それはやがて見えなくなった。
 海は再び繰り返し波を響かせるのみ。
 何事もなかったかのように。
 そのさまを彼は見つめていた。
 聖印を──、妻の形見を手放したのは、聖印の存在が己の身に反発するを危惧したためではなかった。そのような素振りなど海に投げた首飾りはついぞ見せなかったのだ。
 ──支えだった。
 波に紛れ、闇に溶け込んだ先を見つめるまなざしを僅かに伏せ、アシュレイは小さく呟いた。
 首飾りは心を封じるための鍵。封じ込み、球と化した心が縋った唯一の存在。
 目で捉えられるもののみを追ったかつての己の支えだった。
 だが、今。
 伏せた瞼の裏側に思い浮かぶのは、絆で結ばれた妻と子の姿。目には見えぬ、しかしそれ故に己に最も近いと感じることのできる愛しい者達。
 もはや首飾りを、支えを己は要さない。要さずとも、手を伸ばせば細い糸を手繰り寄せることができる。
 ──そして、その先にある遥かなる絆を。

 夜は何処までも深くなっていく。隠れた月を追い、闇に慣れた目をアシュレイは空に向けた。僅かな雲の隙間に月の残光があった。
 潮風は絶えず吹き込み、波音は夜にその調べを響かせている。
 水音は静寂を得た街に永遠の調べを。
「……」
 引っ張られるような錯覚に、アシュレイは視線を移した。幻の糸が伸びきったあたりにシドニーは佇み、海を眺めている。
 張り詰めた糸を緩めるべく歩を進めた。
 流れ込んでいた思考は既に止み、今は何も聞こえない。凪いだ海のような心は、彼が望みと定めたものを見つけ出したためか。
 間もなく訪れるであろう結末を己の内に見出したためか。今という時を用いて。
 干渉はせず、傍観者の顔で──後継者としての顔で──、しかしすべてを聞き届けたアシュレイは、そうして張り詰めた糸を緩めた。

 幻糸は再び緩やかに弧を描き、両者の間に静かに落とされた。