The Way To The Truth And The Fact

1

 心よ、安らえよ。
 暁の、青の空の、黄昏の、星の、その只中に。
 静かに安らえよ──。


 ゆったりと円を描くような具合で、伸びやかな歌声が回廊にまで響いていた。
 高く、低く。
 祈りを支える賛美歌の練習の時間なのです。つい先程まで雑談をしていた神父はそう言い、うっとりと目を細めていたのをメリアドールは思い出した。
 賛美歌。神を讃え、救いを求め、自らを顧みる。祈りの歌。
 聞こえてくる歌は勿論知っている。それだから、気がついたら口ずさんでいた。聖歌隊に属したことはなかったが、祈りは常に身近にあったから。
 ──今までも。たぶん、これからも。……結局は。
 そんなふうに思いながら、声をひそめて歌に寄り添う。練習の邪魔をするつもりは毛頭なかったし、それ以前に声を高らかにして神を讃えるのは少しばかり心が苦しかった。
 ──それでも。……きっと、やめられない。
 御堂の天辺にも届くような高音で歌が止まる。歌に入れる熱が高まりすぎて、何人かの声が裏返ってしまったらしい。それはそれで良いのではと部外者ながらに思うし、この歌の中でもここは難しい箇所だ。歌を指導する者はそれを見越して止めたのかもしれないが。
 メリアドールも歌うのをやめた。ひとりで続きを歌う気にはなれなかった。
 留まっていた回廊を再び歩く。ぽってりと白紫の花を咲かせたマグノリアを横目で眺めながら、足音を立てないように気をつけて歩いた。
 と、そのとき。
「メリアドール様、お待ちください」
 メリアドールの努力を無駄にするように、背後からパタパタという複数の足音が聞こえてきた。次いで、自分を呼び止める声。
 声に覚えがあり、メリアドールは振り返った。見れば、この教会を管理する神父──自分と先刻語らっていた相手だ──と修道士が小走りで駆け寄ってくる。歌が消えた回廊にその足音はよく響いた。
 ──何かあったのね。
 眉をひそめてメリアドールは思った。
 常ならば、神父が走るなどということは起こり得ない。修道士も然りだ。信者である多くの民に慌てふためくさまを見せるわけにはいかない。
 故に、己の仕儀が無作法、かつ、静謐という言葉に守られた空間には不似合いすぎるのは重々承知の上なのだろう。目の前で立ち止まった神父は「神よ、お許しを」と祈りの所作をとり、そうしてから戸惑いと不安をないまぜにしたような表情でメリアドールに向き直った。
「どうしました?」
 メリアドールは柔らかく問うた。
 その問いに、神父と修道士が顔を見合わせる。どちらが言い出せばよいのか、視線でなすりつけ合うようなその素振りにメリアドールは内心呆れたが、態度には出さなかった。二人の間で答が出るのを辛抱強く待つ。
 やがて、神父がためらいつつも口を開いた。
「少し、厄介事が起こりまして……」
「厄介事?」
 メリアドールが繰り返すと、神父は口ごもった。どう説明すればよいのか分からないらしく、走ってきた背後を、次いで修道士をちらりと見やる。そのあからさまな視線に、修道士は溜息をついた。
「神父様、わたくしのほうからご説明を」
「……頼みます」
 疲れたように神父は言った。修道士が心得たとばかりに神父に礼をとる。
「つい先ほど、ミュロンドから派遣された審問官だという者が女を連れてやって来ました」
「ミュロンドから?」
「ええ」
 修道士はメリアドールの言葉に頷いた。
「その者は徽章を持っていましたので、確かかと。なんでも、異端の者を捕縛する任を受けているとのことで……それで、女を捕らえたと言うのです」
 そう言うと、修道士はメリアドールを見つめた。
 ──異端の者?
 修道士のまなざしを真っ向から受け止め、しかしメリアドールは首を傾げた。いったい、どういうことだろう。
 異端という言葉に最も近いと思われるのは、かつて共に旅をした青年だった。だが、彼は既にこの国を離れている。国境に近いザーギドスやランベリーならいざ知らず、この街はオルダリーアやゼラモニアといった国からは遠い。……呑気にも故国に戻っていないとも言えないところが彼の怖い所以だが、そもそも彼は男だ。
 彼ではない。では、その仲間達か。メリアドールは思い出の中に佇んでいるいくつかの顔を思い浮かべた。
 ──そんな迂闊なことを彼女達がするかしら?
 考えを巡らせてみても、答は「否」だった。もっとも、教会の追手は四方八方に伸びている。それを抑え込むためというのが自分が教会に戻った理由のひとつだが、今も密かに連絡を取り合っているかつての仲間達はしたたかに生きている。この国に留まった者も、去った者も、皆。
 だから、仲間達ではない。そう思う。そんなふうに思いたいだけかもしれないが。
「異端、といっても幅は広いわ。彼女はどんな罪を犯したの?」
 言葉を慎重に選びながら、メリアドールは問うた。すると、意外なことに修道士は「分からないのです」と首を横に振った。
「……分からない?」
「はい。その話を信じてよいものか、私には計りかねましたので」
 審問官は「裏切り者を捕らえた」と修道士に言ったという。
 ミュロンドとこの地方の司教からの命を受け、過去の罪を贖わねばならない者達を探し出すのが自分の役目。この女は、相応の罪を犯している──。審問官は修道士にそう言ったが、罪科については「機密事項」だと口を閉ざしたらしい。
「……いえ、審問官の話は間違ってはいないのでしょう。それに、女がどのような罪を犯したのか、私は聞ける立場にはありません。それでも気になる点がありまして、神父様にご相談申し上げたのです。そうしましたら、メリアドール様がちょうどご来訪なさっていると」
 なるほど、とメリアドールは思う。
 街の教会とあらば、その権力は微たるものだ。ややもすれば、末端の審問官のほうが威張り散らしていることもある。今回の件もその類だろうと想像がついた。
 端的に言ってしまえば、この修道士も神父も審問官の言葉には疑念を抱いているのだ。だが、それを言い出すことは位が低くてできない。そんなふうに困っていたところに、折よく教会を訪れていた神殿騎士の生き残りを思い出した。──下級審問官よりも神殿騎士は高位の存在だ。
「その女人が弱き心で教えから逃れようと足掻いたのだとしても、何か事情があったのでしょう。なのに、あのような……。よろしければ、審問官に事の仔細をお聞きくださいませんか?」
 神父が修道士の言葉を継いで言った。悲しそうな表情で一瞬目を伏せ、それから縋るようにメリアドールを見つめた。
 そのまなざしに、メリアドールは僅かにではあるが安堵した。野次馬根性も多少はあるのだろうが、基本的には神父も修道士も審問官の言を信じてはいないようだった。異常事態だと肌で感じ、連れてこられた女に心を寄せている。「あのような」と神父が悲嘆するようなことを審問官はしでかしたのかもしれない。
「分かりました。話を聞きましょう」
 メリアドールが請け負うと、二人は祈りの所作で礼をとった。

 案内されたのは、懺悔室だった。神父によると、取り調べという名の尋問は既に始まっているということだった。
 扉を軽く叩き、応えがあると同時に部屋へ入る。窓付きの扉で二つに仕切られた部屋の一方には審問官らしき男がいて、入室してきたメリアドールを見るなり軽く目を瞠った。
 特徴的な格好からメリアドールが神殿騎士と気付いたのだろう。審問官は音を立てて椅子から立ち上がると、慌てたふうに礼をした。その礼にはおざなりな祈りを返し、メリアドールは部屋の様子を窺った。
 こちらの部屋には審問官がひとり。扉を隔てた向こうの部屋には「罪人」たる女がいるはずだが、メリアドールの位置からはその姿は見えない。
「貴女様は……」
 部屋を見回すメリアドールに、審問官が恐る恐るといった体で声をかける。
「私のことを知っているのかしら?」
 わざと視線を合わせずに、メリアドールは審問官に問うた。そのまま扉に歩み寄ろうとすると、審問官がそれを遮るようにその身を寄せる。
「……神殿騎士のメリアドール・ティンジェル様、でございますよね?」
「ええ、そうよ。私の名も少しは知られているのね」
 口の端を上げてみせ、メリアドールは皮肉めいた言葉を放った。
「勿論でございます。何度か、ミュロンドでお姿をお見かけしたこともございます。……ですが、少し前に亡くなられた……いえ、行方知れずになられたというのが専らの噂で」
「生きているわね、こうして」
 ちらりと横目でメリアドールが審問官を見やると、審問官は身を竦めた。自分が何を言ったのか気付いてうろたえているのだろう、その顔色が悪く見えるのは部屋が薄暗いからというだけの理由ではない。
「……ご健勝なこと、何よりでございます」
「ありがとう」
 審問官の絞り出すような言葉に、メリアドールは形ばかりに礼を言った。この審問官が信用ならないと判断した神父や修道士の心情が、なんとなく分かるような気がした。
 この男は、相手次第でころころと態度を変えるだろう。イカサマ占い師のように、自分が得になるようなことしか言わない。それは、態度を見ただけで分かった。
 ──気高き審問官も腐ったものね。
 メリアドールは思った。
 教会全体が金と権力という名の腐臭を漂わせていたことは、今なら知っている。あの戦いのなかで嫌というほど知らされた。ほんの僅かな希望でさえ打ち砕かれ、代わりに絶望が自分を襲ったあの日々で。
 もっとも、その職務を天職だと思い、死ぬまで教義を疑わなかった者もいる。それはそれで厄介なのだが、今はそうした者は少ない。残ったのは、目の前にいるような小物ばかり。だが、そうした輩こそが平穏な世には蔓延るのが条理だった。
 自分とは相容れない類の人間だ。その性根を叩き直そうかとも思うこともしばしばあるが、徒労に終わるのも目に見えている。メリアドールは既に半ば諦めていた。
 だが──。
 それでも、と思う。否、それ故に思ってしまうのだ。今までも、これからも、自分は「此処」に在り続けるのだろうと。
「それで……、メリアドール様はどのようなご用件で?」
 扉の前に立ちはだかったままで審問官が上目遣いで訊いてきた。早く出ていけと言わんばかりだったが、直截に言うのは躊躇したのだろう。
「罪人を捕らえたのだとか。私も、彼女がどのような罪咎を犯したのか知っておく必要があるわ。偶然とはいえ、居合わせた。知らぬふりはできないでしょう」
「ですが」
「職分を逸脱している、そう思うのね?」
 食い下がろうとする審問官の言葉に被せ、メリアドールは先んじて言った。そうして気まずげに視線を泳がせる審問官を真正面から見つめる。
「その考えは正しいわね。確かに、神殿騎士の役目ではない……。かといって、貴方のような審問官がいきなり出てくるというのも、少し大袈裟ではない?」
「偶然、でございます。偶然、女を見つけたというだけで……」
「そう?」
 苦渋の表情で審問官がそう答えると、メリアドールは笑みを深めた。じゃあ、と軽い言葉遣いでさらに問いかける。
「すべては偶然の産物ね。私も、貴方も。己の職分とは少し違うのも同じ」
「……はい」
 本当は偶然などではないのだろうし、自分の言葉はほぼ詭弁だとメリアドールは思ったが、あえて口には出さなかった。何も気付かないふうを装う。
「貴方がミュロンドに伝えるより、神殿騎士である私が伝えたほうが情報が上がるのは早い。私に任せる気はないかしら?」
「……それでは、お頼み申します」
 諦めたのか、審問官は扉から身を退いた。その歩数分、メリアドールが扉へ寄る。
 どの教会でも懺悔室のつくりは概ね同じだから、覗いてみたところで目新しいものは何もない。信仰を記した書を置くための小机。燭台。そして……。
「え……?」
 メリアドールは思わず声を上げた。視線を巡らせた先、異様な光景があった。
 部屋にいたのは、ひとりの若い女だった。審問官が言う「罪人たる女」はこの娘のことなのだろう。それは容易に想像がついたが、異様なのは彼女の様子だった。ぐったりとした様子で椅子に座り込み、大きく身を傾がせている。顔を伏せているからその表情はよく分からないが、耳をすませてみると荒い呼吸の音が聞こえてきた。
「……あなた、大丈夫?」
 試しに、メリアドールは彼女に呼びかけてみた。その瞬間、娘は僅かに反応を見せたが、それだけだった。身を起こし、頭を上げようとしてはみるものの、朦朧としているらしい意識が邪魔をするのか、うまくいかなかった。
 うう、と娘は呻く。
「彼女に何をしたの?」
 メリアドールは審問官を睨んだ。薬か何かだろうか、それは大いに考えられることだった。この審問官は手柄を立てるためには手段を選ばないだろう。そんな輩がいつの間にか跋扈するようになった。まるで、貧しき民に鞭を振るう役人のような輩が。
「……捕らえる際に暴れましたので、針を」
 しばらくの間を置いて、審問官がぼそぼそと答える。その声色こそ神妙なものだったが、表情には「当然のことをしたまで」とはっきりと書いてあった。
「随分なことをしたものね」
 溜息をついたメリアドールに、審問官は不服げに鼻を鳴らす。
「メリアドール様、この女は大罪人です。尊き教えを捨て、我らが教会を欺いた。己の役目を果たさずに逃げ、世俗にまみれ、犯罪者に与そうとしていたのです。裁く必要があります」
 審問官は言い、娘を一瞥した。
「この、諜報ごときが」
「……」
 娘を蔑む審問官の態度はまるで気に食わなかったが、メリアドールは黙した。審問官の放った言葉から得られた幾つかの情報を組み合わせてみる。
 欺いた。逃げた。犯罪者に与する。諜報員。それらの言葉から得られる答は。
 ──そんなの、どこにだっているじゃないの。
 黙り込んだまま、メリアドールは出てきた答に内心でぼやいた。
 瓦解した教会がその力を失った今、「裏」の役目を負うてきた者達の大半が逃げ出している。教会は機密情報を持っている彼らを処分するのに躍起で──、だからこそ目の前の審問官のような者が幅を利かせているのだが。
 そんなことをしている暇があったら、身の内を見つめ直せばよいのに。メリアドールはそう思うが、それを他者に言ったことはなかった。今となっては教会での立場は微妙なものになっており、自分の言葉を真摯に聞く者は今や殆どいない。
 裏切り者。自分も陰ではそう呼ばれていることを、メリアドールは知っていた。
「ですから、この件は私めにお任せください。女の罪咎を知らぬメリアドール様には正しい裁きは難しい」
 己の意こそ真と信じ切っている様子で審問官は再び扉の前に立った。
「貴方は……」
 尊大な態度で詰め寄る審問官から一歩引き、メリアドールは唸った。この者に任せてはいけないと自分の勘は正しく訴えているというのに、審問官の行動を阻止する方法がすぐには思いつかなかった。
「メリアドール様、さあ」
 退室を審問官が求める。さらに一歩引き、メリアドールは回廊へと続く扉に背を預けた。
 ──何も、できない。
 メリアドールは歯噛みするような思いになった。結局、自分は誰のことも救えないのだ。父も。弟も。仲間達も。……あのときのように。
 最後にせめて、と窓越しに娘に呼びかけようとして──、メリアドールは大きく目を見開いた。
 ぐらり、と娘の体が揺れる。
「危ない!」
 審問官を咄嗟に押しのけ、対の部屋へと続く扉を叩くように開く。
 椅子から娘が転げ落ちたのと、その身をメリアドールが受け止めたのは、ほんの一拍の差だった──。