Versus

Delita

 月日は流れ、人もまた流れる。
 残された誰もが記憶の片隅にだけ留めようとした疑問があった。
 そして疑問には事実という名の答が。
 告発という名の答が。


「……私は、自らの調査に基付いた事実からこれを真実と断言する。そして、教会の負うべき罪についても告発する」
 発言はそうして結ばれた。
 奇妙に余韻が残る。大聖堂のつくりによるものか、それとも別の所以によるものか──おそらくは後者だろうが、生み出された僅かな空白に発言台の男はそっと目を閉じ、続きを待つように佇んでいた。
 その様子に我に返ったのか、誰かが震えた声で叫ぶ。
「き……詭弁だ!」
 叫んだのは、着飾った聖職者。それに続き、別の者も。
 波紋のように声が上がり始め、発言台の男を糾弾し始める。その誰しもが顔色を失っていることに彼ら自身は気付いているのだろうか、と僅かに眉をひそめたまま、一段高いところに座っている「彼」は思った。
 心は不思議と騒がない。驚きはしたが、いつかこの男はそんなことを言い出すのではないかという予想は常にしていたがために。
 故にどこか冷めた目で「彼」は大聖堂を見渡した。
 初めに、発言台に立つ男を。男は未だ目を閉じたまま、すべての声を聞かんと耳をすませているようにも見える。
 続いて、泡を食った様子の教会の連中達を。選定されたばかりの次期教皇をはじめ、諸司教や審問官達は動揺を隠す素振りで次々に声を上げている。だが、それは功を奏しているとはあまりいえなかった。
 さらに、この場に居合わせた貴族達。顔を見合わせ、困惑した面持ちで行く末を見守っている。
 そうして──。
「……?」
 ふと「彼」は巡らせていた視線を止めた。
 止めた先に佇むのは、やはり顔色を失くしている一人の男。司教の装束を纏った男は、他の者と同じように震えていたが、何かが違うような気がした。
 声は放たれない。だが、唇のみが動く。
 ──加護を。
 おそらくは唯一人、発言台の男に心配げな視線を寄せたまま、男がそう呟いているのを「彼」は見逃さなかった。



 それはひとつの契機。
 自分と、他の何かのための。

「鍵を?」
「そうだ」

 彼──ディリータは、手にした書を弄びながら緩く首肯した。

 クレメンスでの公会議が終わり、王都ルザリアへの帰路に就いたその日のうちにディリータは一人の男を呼び寄せ、とある話を切り出した。
 国王の投宿先としては些か質素な宿の一室には、ディリータとその男──纏う服から聖職者であることが分かる──しかいなかった。他でもないディリータが人払いを命じたためである。
 側近であるところのルークスは、一瞬勘繰るような眼で主君を見つめたがディリータは意に介さなかった。そうしてルークスもまた不敬だと考えたのか、すぐに室を去っていった。
 故に、残されたのは書を持つ者。そして──同じような裏切り者。
「城にある隠し小部屋の存在を知っているか?」
「存じておりますよ」
 ディリータの問いに男はゆっくりと笑んだ。年は五十路となったところか、笑みを深くすると目尻にくっきりと皺が描かれる。好々爺ともとれそうなその笑みには、しかし、昨日まで同じ空気を吸っていた他の聖職者どもとは確実に違う何かがあった。
 その何かに賭けなければならない。ディリータは思う。
 今の己には他に思いつくような手段はなく、他方でこれこそが最善と囁く声があった。
「王家に伝わる隠し小部屋。それを知る者は性質上ごく僅かとなっております。そうですな、今となっては陛下の他にはいないのではないかと。──勿論、あのルークス殿でさえも」
「そうだな。だが、貴殿は何故か知っている」
「ええ」
 男が何者なのか。司教の位にある聖職者であることには間違いがないが、しかしディリータは彼の存在を先日まで失念していた。
 彼という存在を初めて認めたのは、公会議での「あの出来事」に起因する。
「城の教会を管轄する長であれば、そもそも隠し小部屋のひとつやふたつくらいは王家とは別に持っている、といっても過言ではありますまい。もっとも、私事で使ったことなどはございませんが」
 僅かに胸を反らしてみせた男にディリータは内心呆れもしたが、顔には出さなかった。
 ルザリアの教会長である男。その表情は優しく、声色もまた穏やかである。だが、ディリータは知っていた。彼もまた「裏切り者」なのだということを。
 公会議で起きた告発の際に走らせた視線の先にあった彼の顔色は。他の者とは似て非なる、否、まるで別方向に動じたような彼の視線こそは。
 そして唇のみで呟かれた祈りは。
 あれは、昨日「あの方を尊敬する」と己に言い切った側近よりよほど分かりやすい「裏切り」の証だった。
 己にとってはあまりにも好都合なほどに。
 ──故に導き出される結論。賭け。
「話を戻そう」
 ディリータは男に椅子を勧めると、自らも同じような椅子に座った。無論、書は手にしたままだ。
 窓の外は未だ陽光に満ち溢れているというのに、室は奇妙に暗い。灯りを点けようかと一瞬躊躇したが、男の方が制した。
 そうして素早く火が灯される。
「話ですか。確か鍵、と」
「そうだ。この書は隠れ小部屋には相応しいだろう」
 言って、男に見えるように書の表紙を掲げてみせる。
 男は一呼吸の後、まじまじと表紙に見入り──、俄にその表情を変えた。あの公会議でディリータが見た動揺の色に染まる。
「それは……」
「『あの』白書だ」
 何でもないことのように聞こえてほしいと何故か半ば願うような気持ちで、ディリータはしかし淡々と告げた。そうして仄かに明るくなった室を一度だけ見渡し、男に手渡す。
 男は慎重に受け取った。
「確か……昨日方焚書となったはずでは……?」
「さて……どうかな?」
 ディリータは笑んでみせた。


 呼ぼうと、呼ぶまいと、神はここにまします──。

 ──それならば言鍵がよろしいでしょう。
 深い嘆息の後に諦めたような笑みを見せた男はディリータにそう言った。
 言鍵とは、その名の示すとおり詠唱した言葉が鍵となる一種の聖術である。教会に関わる者が主に使う術のひとつだ。
 ディリータがこの男に賭けたのは、男が公会議で見せた表情のためだけではなかった。男が術を施すことができると知ったがためでもある。
 それを知ってか知らずか、古いまじない歌を男は歌うように告げた。聞きようにとっては意味深なそのまじない歌に続けて、男は告げる。
「仔細は何も聞きますまい。何故この書がここにあり、如何ようにして陛下が私を見出すに至ったのか。それらすべてはこの書の前では些末事。そう、この書を未来へと繋げるためには。違いますかな?」
 男の言葉にディリータは頷いた。
「そのとおりだ」
「そして、私もまた罪を負うのです。あの方を見放したという罪を」
「そのとおりかもしれんな」
 言にちらりと男がディリータを見やる。諦観の念に染まった表情を変えもせず、男は自らの首をくい、と差し出すような真似事をしてみせた。
「裏切り者は裁かれる必要がある。聖職者でありながらこの書を隠匿した──隠匿に関与した私を教会は赦しはしないでしょうから。ならば、世俗の腕である陛下に任せた方が手っ取り早いというものです」
「それは俺に対する皮肉か?」
「いえ?」
 笑んだまま視線はまっすぐに向けられる。それはどこか書を為した男のものにも似ていた。
 真実を求めようとした者の瞳。
 ディリータはそんなまなざしを受け止め、そして流した。
「生憎だがそれには応じられんな。何故なら貴殿は仔細を知らないのだろう? 何故この書がここにあり、如何にして俺が貴殿を見出したのか……そう、貴殿は何も知らない」
「しかし、それこそ詭弁なのでは?」
「そうかもしれん」
 男の言はそのままに、ディリータは続ける。
「だが、それで良い。それが貴殿や俺と……あの男の違いだ」
 見放しながら、保身に走った。それが己の罪であるというのなら。
 そういえば。ディリータはふと思う。……戦乱のさなかにも同じようなことがあった。
 ──わかっているな。お前の死はけっして無駄にはしない。
 そんな口ぶりで手にかけた命など数知れず。そうして己はここまで走ってきた。……これからもまた暫くの間走ることになるのだろう。
 あの戦乱が、歴史や時代といった名の彼方に消えていくのを見届けるまでは。少なくとも、それは今この時ではない。
「……分かりました。すべては仰せのままに」
 やがて男は肩を竦めてみせた。同時に外から入室を求める打音が聞こえてくる。
「時間のようだな」
「ですな。では、私はこれで……。そうそう」
 書を卓に置いて立ち上がり、男は会釈する。そうして何かを思い出したのか再度ディリータに向き直った。
「何かな?」
「教会の動きには暫く注視することです。この書が実は現に残っていることに気付くかもしれません。すると、私はともかくとして、御身まで危ういのは言うまでもないことでしょう。……気を逸らす手立てを打つべきですな」
 助言めいた言葉にディリータは頷いた。
「分かっている。……策は用意してある」


 入れ代わるようにして入室したのはやはりルークスだった。即位時からの側近である彼もまた今となっては「裏切り者」の一人である。ディリータの片腕となって久しく、それ故にではあるが主君の行動については振り回されながらも知悉していた。
 関わるな、と口に出して言わずとも雰囲気で制止してしまえばルークスはその意に反するような真似はしない。もっとも、時々意向を訊ねることはあったとしても、ディリータの方がそれに取り合うことはあまりなかった。
 故に、昨日主君から渡された「白書」をすぐさまその場で突き返したのは、ルークスにしては度胸のいったことだったかもしれない。
「先程早鳥を送りました」
 続きを促した主に、ルークスが報告する。
「今回の公会議での顛末についてと、陛下が私に仰せになられた件について……二点となります」
「ご苦労」
 口だけの労いをかけると、ディリータは手を組む。扉の傍で佇んでいるルークスに目をやってみると、彼は何かを言いたそうな顔をしてこちらを見ていた。
 今でも時々現れるルークスの「癖」だな、とディリータは思いながら言葉を待ってみた。
「仰せの件ですが、ゼラモニアへの派兵は本当になさるおつもりで?」
「そのつもりだ。今のところは、だがな」
 珍しく返ってきた答に目を見開いたルークスに、ディリータは苦笑した。──本当によく表情の変わる男だ。
「今のところは、ですか……」
「そうだ。公会議の件がなくとも近いうちにとは考えていた。鴎国は国力を急速に回復しつつあるというし、そうするとあの地の独立など絵空事となる。ましてや、我が国に取り込むなどもっと夢幻だ」
 鴎国ゼラモニア州。かつては独立した国であり、五十年戦争の火種ともなった彼の地には今、とある「人物」が身を寄せているのだとディリータはささやかな噂に聞いたことがある。
 そうして、その人物の近い者にルークスが時折早鳥を送っていることも。……これは噂などではなく、本人がいつしか己に告げたことだったが。
 とある人物。その名についてはディリータもよく知っていた。
「まずは支援なさるということですか?」
「それはない」
 さらに問いを重ねてくるルークスにディリータは断言した。
 ゼラモニアにしてみれば独立の助けともとるのかもしれないが、しかしそのまま再び畏国の領土になるという可能性も否定はできない。また他方では、更なるゼラモニアの圧政の種を鴎国へ投げ渡すことにも繋がる。
 独立を支援するための派兵はない。もっとも、鴎国と連携してゼラモニアの独立運動を叩き潰すような親切心もない。
「では……?」
「役目はそう多くはない。たとえば、こちらの領にまで火の粉がかかれば振り払う。それくらいのことだ。……あとは相手次第だな」
「……畏まりました」
 それ以上は話すつもりはない、と言外に匂わせるとルークスは礼をとり退室した。


 灯りも消えそうな風情の室で、ディリータは己の頬を手で軽く撫ぜた。
 ──さて、どう出る?
 手札を見せられた上であの人物は──「彼」はどう出るのか。
 今度こそ保身に走るか。それとも、かつてのように自らの信じるもののために動くのか。それとも……。
 巡らせた考えの幾つかをディリータは並べ、その中からひとつ己の予測として取り出した。