憶えているかぎりで一番古い記憶。それは何だろう。
憶えているかぎりで一番古い過去。それは何だろう。
積み重ねてきた年月という名の石段を、探りながら一段ずつ降りていく。
降りるたびに様々な光景が目の前に浮かぶ。それらの光景を懐かしいと次第に思う。
降りるたびに様々な感情がよみがえる。それらの感情を懐かしいと次第に思う。
時の流れに逆行し、少しずつ、一歩ずつ。踏み外さぬようにゆっくりと進む私を許してほしい。
そうするだけの時間は沢山ある、と? ……そうだな。ありがとう。
お前が知っている私。出会ってから今までの日々。共有している時間。
それと。
お前が知らない私。出会うまでの日々。伝えていなかった時間。
それはどちらが多くなったのだろう? 天秤にかけてみればどちらに傾くのだろう?
考えてみれば、両方とも確かに昔のことなのだが。
意味合いは少し違うような気がする。
記憶の石段の終着点にある扉を開けよう。そう、ようやくここまで辿り着いた。
扉が閉じぬよう支えていてくれ。
過去にこのまま囚われてしまわぬように。
そうは言っても、古い記憶にあるのは他愛もないことだ。先刻も言ったが、別段面白いものでもない。
気に入りだったぬいぐるみがあった。肌身離さずとまではいかないが、それなりに常に傍に置いていたと思う。共に眠ることも多かったな。暗闇は怖かったから。
ある日、そのぬいぐるみが消えた。昼に座らせていた椅子や夜に寝かせていた枕元には勿論、部屋じゅうをくまなく探してみても見つからなかった。自室の外に持ち出したことは殆どないはずだと思ったが、何かのきっかけで連れていったかもしれないと大人達にも話した。そうして邸じゅうを共に探してもらった。
一日かけて探したが、見つからなかった。
大人達は忙しい。子供にばかりかまけていられないからな、「捜索」はそれで打ち切りになった。諦めるようにと言われたが、その言葉を飲むことはできなかった。新しいものを、とも言われたが、代わりはないのだと泣いた。いや、泣いたらしい。
……実は泣いたことはよく憶えていない。だが、あのとき大泣きしていた、と後に事あるごとに言われた。
どれくらい時が経ったのか。それは数日かもしれないし、数月かもしれない。諦め、忘れた頃にそれは庭の片隅で見つかった。
見つけてくれた庭師が壊れ物を扱うように運んできた。いや、実際壊れていたからそんなふうに持ってきたのだろう。
泥で汚れたそのぬいぐるみは酷い有り様だった。手足がもげ、耳も取れかけ、柔い腹は食い破られていた。幸いというのか、手足は離れたところで見つかったが、同じようにもげてしまった尾は結局見つからなかったらしい。
何処からか入り込んだ野犬の類がこうしたのだろう、と大人達は言った。私は黙り込んでそれを聞いた。
辛うじて庭師には礼を言って下がらせた。だが、ひとりになるともう駄目だったな。
泣いた。これは憶えている。私が憶えているかぎりで一番古い涙の記憶だ。
ぬいぐるみに魂などというものが宿っていないことはもう知っていた頃だったが、それでも悲しかった。親しい者を失うということはこういうことなのだろうか、とも思った。
そんな記憶だ。こうして思い出せるものは。……ほら、誰にでもあるような事柄だろう。まあ、悲しみというものは心に強く居残るというからな。
そのぬいぐるみはどうしたか?
教会に出向いて墓を作ってくれないかと頼みに行った。無論断られたが、そんな私を見るに見兼ねた兄がぬいぐるみを何処かに持っていった。
どれくらい時が経ったのか。それは数日かもしれないし、数月かもしれない。ある日、自室の椅子にちょこんとそれは座っていた。
薄汚れていたが、泥は付いていなかった。もげたはずの手足と耳は少し不格好に付けられ、抉れたはずの腹には綿が詰められて、そこは刀傷のように縫い合わせられていた。
どの縫い目も整ってはいなかったな。がたがたのでこぼこだった。腹から綿が少し飛び出てもいた。繕い物に慣れた手ではないことは幼子でも一目で分かった。
再会に驚きつつ、これは誰の仕業によるものかと考えた。ぬいぐるみを最後に持っていったのは兄だ。だから真っ先に向かったのは兄の元だったが、予想に反して彼は驚いていた。それから、自分ではないよと首を振った。
兄が誰かに頼んだのかもしれない。思ったが、兄のそうした伝手をその頃の私は知らなかった。あるいは兄は私に嘘をついていて、本当は自分で直したのかもしれない。そうも思ったが、それ以上追求するのは止めにした。
ただ、嬉しかった。
復活は願わなかった。救済は求めなかった。それどころか、一度は存在を葬り去ろうとしたのに。
そんな私のところへ、友は戻ってきた。
それは、やはり嬉しかったんだ。
扉を閉じよう。……ん? ふたつめ?
……あれは冗談ではないのか? 違う?
まさかとは思うが、エナビア記の主人公のような話を期待しているのか?
頷くな。目を輝かせるな。
私がそんな柄ではないことは、お前が一番分かっているだろう。ああ、分かった上で聞いている、と。
歳を取って性格が悪くなったのではないか。
拗ねるな。本当のことだ。
……開き直るな!
お前の頃もそのはずだが、初恋などというものにうつつを抜かしている場合ではそもそもなかっただろう?
閉じられた世界にいられる時間は、そう長くはなかった。
自らがいる世界は狭いと知るのは、そう難しいことではなかった。
いずれは知ることだ。分かることだ。願おうとも、願わずとも。
心根を曲げずに生きたいと思いながら、その実それは叶わないと思い知るのも。
やり場のない感情を呑み込むことも時には必要なのだと思い知るのも。
自分の為し得ることはあまりにも小さい。そのことを悔しいと思う気持ちも。傲慢だと思う気持ちも。
願おうとも、願わずとも、すべてが押し寄せた。横っ面を叩いた。
そういう時期だったはずだ。今とは違う、暗い時代だったはずだ。
だから、そんなことを意識した憶えはない。
……ただ。
波のように次々と押し寄せる現実にひとりで立ち向かうには、私は非力だった。そう知っていた。
アカデミーにいた頃の話だ。
抗うより流された方が良いのではとも思ったこともあった。濁った未来を見据えるのは難しかった。苦しかった。
ひとりでは。自分だけでは。
ああ、そうだな。お前が通ってきた道程に似たようなそれを私も通ったのだと思う。
お前のように、私にも仲間がいた。気の合う者、そうでない者。様々いたが、そのなかに。
抜けぬ棘のような不安を一度だけ吐露した仲間がいた。何気ない会話にふと混ぜ込んだのだが、その仲間は何も言わないでくれた。常日頃はよく笑う相手だったが、そのときは珍しく笑わなかった。持論を振るうこともなく、背中をひとつ叩いて寄越した。
それで心は少し落ち着いた。不安がすべて消えたわけではなかったが、楽になった。何か、許された気にもなった。
逆に、私がその仲間の悩みめいたことを聞いたときもあった。結局何もできなかったが。
いずれにせよ、これは恋ではないだろう。
愛ではあったかもしれないな。仲間としての、友としての愛では。
だが、お前が初めに聞いたような類のものではない。そうだろう。
ちなみに、ラムザ。お前も初恋の相手ではないな。
残念だったか?
最後の問いは前半だけ答えよう。後半は予想だか想像だか妄想だかしているようだが、私から何かを言うつもりはない。勝手にしていろ。
何故、剣を手にしたか。何故、騎士となったか。
それが私の責務だと思ったからだ。権利であり、義務だと。……こう言うと、お前は顔を顰めるかもしれないな。
私も貴族の出だ。人の上に立つ者の背を見て育った。特権を得るのと同時に、高貴だと自らを称するのと同時に、それ以上の義務があるのだと教わって育った。護る者であれ、と。
その言葉を真正面に捉えた私は、剣を手にすることを選んだ。今思えば単純な考えともいえる。
護るといっても、その定義は広い。剣を取ることだけが、騎士となることだけが「護る」ことに繋がるわけではない。
手を血に染めるだけが我々の義務ではない。お前にはお前の為すべきことがある。
親は反対していたからそんなふうに説きもしたが、もう決めたのだと彼らには話した。あまり理解はされなかったが、私が肯んじない性格だということは分かっていたのだろう。最終的には許しを得た。
許されなければ? あまり想像したことはないが……家を出たかもしれないし、諦めたかもしれない。護る者の立場として「護られる者」になったのかもしれない。オヴェリア様のように。
あの方のように己のすべてを殺すということは難しいことだ。そうだな、苦しんでおられた。私にはできないことだった。
私は、自らの意思で道を決めることを許された。心を無視されなかった。
幸せだったのだと思う。
これで私の話は終わりだ。言ったとおり、面白みに欠けたな。
述懐など殆どしたことがないからな。纏まりもなく、長々と話してしまった。
退屈ではなかったか? それなら良いが。
私も……懐かしい気持ちにはなった。
日々に紛れて消えそうになっていたかもしれない。こうして語る機会を得なければ自分でも忘れていたかもしれない。思い出せてよかった。
その点では礼を言う。
さて、次はお前の番だ。変な顔をするな。
しっかり答えてもらうぞ。