Memories

 闇が少しずつ濃くなっている。
 風が少しずつ冷たくなっている。
 季節が移ろい始めている。少しずつではあるけれど。
 時が移ろい始めている。少しずつではあるけれど。


 ラムザは闇に落ちた窓の外から目を離した。
 少し前までは同じ刻限でもまだ充分明るかったはずなのに、今となってはもう夜だ。入り込んでくる風も真夏の熱は感じられず、心地良いものとなっている。
 いつの間にか季節はすっかり秋になっていた。
「……歳を取ると月日が経つのが早く感じるっていうけど、本当だね」
 しみじみと呟き、卓へと戻る。素朴なつくりの椅子に腰掛けるのと同時に、目の前に器が置かれた。竈に残った火で温めたのだろう、器に注がれたミルクからはほんのりと優しい匂いがする。
「年寄りじみたことを……。どれくらい入れる?」
 小さな瓶を手にしたアグリアスを見やると、彼女は呆れた顔をしていた。
「あ、いつもと同じで」
「分かった」
 瓶を傾け、アグリアスがラムザの器に蒸留酒を数滴落とす。続いて自分の器にも酒を落とすと、卓を挟んで差し向かいに彼女は座った。
「ありがと。……もう秋だねえ」
「そうだな。確かにあっという間に、というやつだな」
 彼女の言葉にゆったりと頷き、ラムザはミルクを飲んだ。僅かばかりの酒を含んだそれは舌に甘く馴染む。
 夕餉後のささやかなひととき。アグリアスとこうして同じ卓を囲み、語らう夜は日常となっている。
 戦う日々があった。離れていた時期もあった。再会し、剣を再び握ると決めた日があった。……そうした様々な事柄を経た末に、共に在ることを互いに望んだ。
 それも、もう隨分前のことだ。昔といってもいいのかもしれない。
 ──昔?
 なんとはなしにつらつらと思いを巡らせていたが、自分の繰り出した単語にラムザは思わず我に返った。椅子に凭れていた身を起こして卓に器を置くと、腕組みをする。
 ──昔、になってしまうのだろうか。
「どうした?」
「やっぱりアグリアスの言うとおりなのかも。年寄りの考え方っていうか……いや、まだ若いつもりなんだけれど」
 不審に思ったらしいアグリアスにラムザは言葉を繋いだが、それはあまりうまくいかず、途中で切れた。自分の考えを纏めきらないうちに話し出してしまうといつもこうなってしまう。悪い癖のひとつだ、とよく言われる。
「けれど? 若者を気取るには少し年を食いすぎてはいないか。老齢というにはまだ早いが」
 切れた言葉の先を捉え、アグリアスが言う。
 それは、ありがたいとはいえないが事実に即した答だった。どこまでも彼女らしい答と口調に少し苦笑しながらラムザは「まあね」と肩を竦めた。
「月日が飛ぶように過ぎてる、季節があっという間に巡ってくる……そうしていつの間にか歳を重ねている。まあ、歳を取るのは構わないんだけれど。過ごした日々のことを、過去のことを「昔」と思ってしまっていて、ちょっとびっくりしたんだよね」
「ほう」
「昔、なのかな? もう」
 何も知らなかった頃。逃げ出した頃。自分というものも含め、様々なものを追った頃。死を意識した頃。できることはすべて終わったと思った頃。
 故郷を離れ、束の間の休息。だが、そこで目の当たりにしたのは何処の地でも変わらない苦しみ。力になれればと剣を手にした。再び彼女に背を任せた。
 曖昧な告白。率直な応え。揃いの指輪。
 辛かったことも。心弾んだことも。
 どの過去も思い出せると思う。すべてを克明にというわけにはいかないが、忘れてしまえるものはないと思う。忘れたくないとも願っている。
 だが。それでも。
 そんな日々はもう「昔」に属してしまうのだろうか。とっくに属してしまっていたのだろうか。
 いつの間にか追憶という名の色に染まっていたのだろうか。
「……さあな。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。針先ほどにしか過ぎていない時間でさえも「昔」と言う者もいるから、一概には言えないな」
「そうだね。……アグリアスは?」
「私か?」
 ラムザがそう促すと、アグリアスは椅子に凭れた。そうして僅かに細められた目はどこか遠いところを彷徨い始める。
 この場ではない、現でもない。目の前の自分でも勿論ないな、と思いながらラムザはそんな彼女の様子を眺めた。
 引き出すのは彼女自らの記憶。思い出すのは彼女自らの過去。それは、彼女にとってどんな意味合いを持つのだろう。
 あの日々は。そしてそこに至るまでの道程は。
「昔、という言葉にはあまり抵抗はない」
 やがてアグリアスは口を開いた。今という時に戻ってきたまなざしで告げられたその言葉にラムザは得心した。やはり彼女らしい。
「すべてではないが、懐かしいと思うほどに時を経ている過去は「昔」という括りにしているとは思う。それが、今でも手に取るように鮮やかな記憶だったとしても」
「……そっか」
「時間が過ぎたという、時を積み重ねたという、ただそれだけのことだ」
 雪のように降り積もった時間がある。
 過去には思い描くことのできなかった「未来」の分だけの時間がある。
 ただ、それだけだ。
 確かにアグリアスの言うとおりだった。本当に、ただそれだけのこと。
「うん……そう、だね。ところで」
 腕組みを解き、ラムザは頬杖をついた。驚きに少し跳ねてしまった心は話してしまったことで落ち着きを取り戻している。構える必要はもうなかった。
「何だ?」
「アグリアスにとって一番古い記憶は何?」
「唐突にどうした?」
 話題の転換にアグリアスが目を少し瞠る。流れのままに思いついたことなんだけれど、とラムザは思ったが彼女にとってはそうではなかったらしい。
 だが、それには答えずにラムザは続けた。
「長い長い長い付き合いだけれど、小さい頃の話とか、そういえばあんまり聞いてないような気がする。……いや、前にも少しだけ聞いたかな?」
 もしかすると何かのついでに話に上ったこともあったかもしれない。だが、憶えていない。
 忘れてしまったのだろうか。だが、それもまた違うような気がした。
 ラムザが首を捻ってみせると、アグリアスも考える素振りをした。そうしてひとつ頷く。
「確かに、あまり話していないな」
「何でだろう?」
「目の前のことで精一杯だったからではないか? 今はこんなふうに落ち着いているが」
 それでも毎日起きた出来事などを語り合えば、それだけで結構な時間になっている。昔話をゆっくりする暇はあるようでなかった。
「まあ、わりとここまで突っ走って来たのは事実だよね」
「そうだな」
 思い出すような顔つきでアグリアスが柔らかく笑む。その笑みにつられるようにラムザも笑った。二人で共有している時間は多い。胸を刺すほどに辛かった過去もそのなかにはあるが、彼女が今思い出した過去は優しいものなのだろう。
 色々なことがあったそんな日々を語るのもいい。
 だが、今夜は。
「聞きたいな。こんな夜にはぴったりだと思うんだ」
 長くなり始めた夜には、穏やかに流れている時間には似合いだと思う。
 互いの知らない頃の昔話は。
 出会うまでの道程、その片鱗を紡ぐのは。
「?」
 首を傾げた彼女にラムザは浮かばせた笑みを少し変えた。声の調子もわざとらしく変え、こほんと咳をしてみせる。
「たとえば、一番古い記憶……そう、小さなアグリアスはどんな子だったのか、とか」
「……?」
 ひとつ。探るような彼女の視線はあえて無視する。
「たとえば、初恋はどんな相手だったのか、とか」
「……」
 ふたつ。胡乱げに変わった彼女の視線はあえて無視する。
「たとえば、騎士になったのは何故、とか。そうそう、オーボンヌで初めて会ったとき、アグリアスの隊にいたのは女の子ばかりだったよね。やっぱりモテた? あ、これは予想つくな」
「……」
 みっつ。通り越して呆れたものになった彼女の視線に自分のそれを合わせる。どうかな、と駄目押ししてみると、アグリアスは溜息をついた。
「……聞いたところで面白い話になるか分からないぞ」
「それは僕が判断するよ。まあ、思い出に浸るアグリアスをもう少し見たいなっていうのもあるから」
 今まで様々な表情を見てきたが、そのどれもが自分にとって宝物だとラムザは思う。
 先刻垣間見た彼女の素顔。ここではない何処かを彷徨う素直な心。それもまた大切なもののひとつだ。
 だから。
「……」
 渋るアグリアスにラムザは片目を瞑った。
「なので、話してくださいな。おねーさま」
「誰がお姉さまだ」
「なんとなく。それともハニーの方がいい?」
 言葉を重ねると、アグリアスが睨んでくる。こうしてからかうように言ってみると、以前は顔を赤くしていたものだが、今はもうばっさりと切り捨てられるだけになってしまった。
 残念だが、嬉しいとも思う自分がいる。少し変なのかもしれないが。
「……。調子に乗っていると話さないぞ」
「ごめんごめん。聞きたいです」
 居住まいを正し、ラムザは言った。そんな自分にアグリアスが諦めたように笑う。
「大層なものでもない。興味があるのは分かるが……そんなふうに前のめりになられても困る。普通にしていてくれ」
「それもそうだね。了解」
 頷き、同じように椅子に凭れる。確認するように見ている彼女に「いいよ」と小さく呟いた。
 現ではない、遠くなった過去へと心を繋げた彼女をラムザはそうして眺めた。


 静かな夜。穏やかな時。
 昔話が似合う夜が始まった。