4 : Terence side
夜風にあたってくる、病室の住人はそんな嘘を言った。
「先に休んでいろ」
そう言われても、否、命令されても従うことはできない。同行の許可を無言で乞うても、彼は首を横に振った。
「護衛はいらない、ここは安全だからな。……折れてくれぬか?」
「ディオン様……貴方はまたそう仰って」
私を、――ろにするのですか。喉から出そうになった言葉を、テランスは慌てて飲み込む。
だが、それは過たず伝わってしまったらしい。戸口から引き返すと、彼はテランスの傍らに立った。そうして、芯のあるまなざしで自分を見上げる。
「信の置きようもないだろうが、頼む。すぐに戻ってくるから」
屈むように、といつもの仕草が自分を呼ぶ。額に、優しい口づけが落ちた。
「夜風にあたっていたのです」
「そうか」
嘘ではなかったが、本当のことでもない。かけられた言葉をなぞってテランスが言ってみせると、ほう、と彼は息をついた。
「訊いてもよいか?」
隠れ家の高みにつくられた広場に二人で佇む。
視線を湖へと転じた彼にあわせ、テランスも湖を眺めた。水面に、月光が揺らめく。
「何なりと」
返しながら、テランスは彼が繰り出すだろう問いに備えた。シヴァとは何を話していたのだ? 深い疑念は持たずに、おそらく彼は訊いてくる。
シヴァ――ジル・ワーリックとは偶然行き合った。ぼうっとした頭で部屋を出て、彼とは反対に階段を上った。アトリウムで小さな椅子に座り、置きっぱなしの本をなんとなく積み重ねていると、別の入口から足音がした。
まあ。彼女は先客の存在に笑った。――私達、どうやらお仲間のようね?
冗談めかすように言って、彼女は机に腰掛けた。どういうことですか、とテランスは問わなかった。きっと、この人はすべてを知っている。同じ苦しみを、抱えている。
これから色々なことが起きるわ。何も言わないテランスに彼女は語った。厳しくて辛いことも、楽しくて嬉しいことも、いっぱい。今までよりも、ずっと。
噛みしめるように、言い聞かせるように、願いのように、祈りのように。いくつもの響きを持ったその言葉に、テランスは頷いた。
これまでとこれから。変えられない過去と、分からない未来。願いは、祈りは。
水面を、風が走る。ひゅうう、と高い風音。
もう待たない、そう決めたの。手を伸ばして、掴んで、そうして。彼女の穏やかな口調には揺るがない決意があった。星月夜の雪野原、静寂に包み込む白。
私もそうありたいのです。気がつけば口走っていた自分に、彼女が微笑む。――勿論よ。私達、「お仲間」なのだから。
「何を苦しんでいる?」
だが、彼の問いはテランスの想像とは違うものだった。
「……ディオン?」
不敬も忘れて、テランスは彼の名を呼んだ。テランスが横を向くと、ディオンは視線を湖に置いたままでこちらを見やることもなく続ける。
「私の傍に在ることこそ、苦しいか?」
繰り返しの問いに、うなるような風音が響く。風に飛ばされ、何かが転げ落ちる。
その、鈍い音。
「な……」
「事実、苦しいのだろう。……それでも、私は」
言い当てられて何も返せないテランスを、ディオンは待たなかった。音がしそうなほどの勢いでテランスに向き直り、腕を掴む。
「テランス、私は。私は、お前を離せない」
見上げてくるディオンの表情は、ささやかにしか伝わらない。だが、力任せに掴まれた腕の痛み、冷えた指先、震える声、射抜くようなまなざしの強さ、それらはディオンの心を如実に語っていた。
知っている、とテランスは思う。その心に偽りはないのだと、真実なのだと、知っている。分かっている。だって、あなたはずっとそうだったのだから。
水面を走っていた風が消えていく。……その奥で、今も何かがざわめいているけれども。
――それでも。
「ディオン、少し言い換えてほしい」
驚きのあまりに干上がってしまった喉をどうにか誤魔化し、テランスはディオンに語りかけた。告白のようだ、そう頭の片隅で思い、すぐに思い直す。そう、これは告白そのものだ。願いは。祈りは。
「僕を、離さないと。貴方自身の意志で、君の心で。そう言ってほしい」
ああ、でも。その前に。すべてが滲んで揺れるその前に。
手を伸ばして、掴んで、そうして。
「もう、離さない……!」
ディオンの短い誓いを聞いたのと同時に、テランスの体は動いた。掴んでいた腕を振りほどき、自分から手を伸ばす。そうして強く抱きしめると、同じくらいの強さで返された。
「僕も、けして。君が望んでも、絶対に離れない」
湿った声色でそう告げる。腕に閉じ込めた体が揺れ、息を吸う細い音がした。彼は、きっと。背を叩いて涙を促すと、やはり同じ力で一度だけ返された。
風音、遠いざわめき。消えていったそれらのかわりに何かが聞こえる、伝わってくる。規則的で、不規則な――ふたつの音。
ああ、これは。テランスは呻いた。音は、やがてひとつになるだろう。
不透明な未来のなか、確かに紡がれ続けるもの。僕の、君の、命のあかし。
「テランス、……聞こえるか?」
「……うん」
泣き笑いの囁き声が耳を打つ。言葉もなくテランスがただ頷くと、腕の中の彼が小さく身じろぎをした。
「どうかこのままで。ああ、でも」
願う彼からほんの少しだけ身を離して、見つめ合う。月あかりのもと、ごく近くに波間が見えた。
幼子のように額と額をあわせて、頬の雫を指先で払って、口づけて。
響く鼓動を感じながら、そうして熱を分かち合った。
<終>
あとがき
帰還後のディオンとテランスのお話。若干?すれ違い気味かつ甘さ控えめになりました。二人とも途方もない苦しみや悩みを抱えるけど乗り越えられる、きっと大丈夫!と思ったのですが、いまいち大丈夫じゃない雰囲気に。
余談。「わざと昏睡状態にする治療」については(私自身は医学的知識はまるで持ち合わせていないのですが)その昔(1994年)F1で大けがを負ったドライバーさんの状態記事を思い出して書きました。タルヤ先生がそういった手法をとるかどうかは分かりませんが、最新の医学情報は彼女が持ち合わせていそうです。
追記(2024.10.28):再録本発行にあたり、一部修正しました(加筆はしていません)
2024.02.12 / 2024.10.28