1 : Dion side
闇。暗闇の底。見上げても、何も見えない。それは、分かっていた。もう慣れてしまっていた。何もないのだと、知っていた。
そのかわりに、何かが聞こえた。これも、分かっていた。己に向いた数多の声。
怨嗟。憤怒。祈り。絶望。
頭上から聞こえる耳障りな金属音。続くのは、血肉を断ち切った鈍い音。
ごとり、生を失った塊が落ちる。その音で、悟った。
ああ、これで。これで、ようやく終いだ。
大切なことを忘れてしまっているような気がするけれども。
聞き慣れた、愛しい声を聞いたような気がしたけれども。
ああ、これで。
――そう、思ったのに。
「沈める必要があったのよ」
カルテに容態を書き込みながら言ったタルヤを、急拵えの病室の住人であるディオンは横たわったまま眺めた。昏睡と覚醒を薬の力で意図的に繰り返し、少しずつ意識を浮上させたのだと彼女は説明する。
「すぐに意識が戻ればいいってものじゃないの。貴方には、深い眠りが大切だった」
わざと昏睡状態に置き、その間に深い傷を癒やしていく。そんな治療方法もあるらしい。
「……そうか」
ぼんやりと返したディオンに、「まあ、当初の予定よりは随分と長く眠ってもらったけど」とタルヤが言った。
「目が覚める回数も多かったから、仕方ないわね」
数日を眠りのなかで過ごしたかと思えば、まばたきの間隔で目覚めることもあったのだという。容態も安定せず、危ういときも多々あった。ひどい高熱で魘される日々、心拍が落ちた瞬間。絶望にも似た状況下で、絶対にこんなことで死なせるものかと医師はあらゆる手を尽くした。
そうして月はめぐり、星結びが位置を変え、風の向きも変わる頃、数十度目かの覚醒の際にディオンは己が生き残ったのだと知った。幽世ではなく、現にいるのだと。
瞬間、激しく動揺した。何故、どうして。問おうとしたが、言葉を紡げなかった。考えるよりも早く、意識が再び沈んだからだ。
夢の断片を多く見た。黄昏よりも時を進めた世界、踏み躙られた白い花、向けた矛先の銀色、美しいマザークリスタル、夜を貫いた苛烈な光、数多の灯火、こぼれ落ちた涙の粒。
知っている。分かっている。すべて、すべて。繰り返されるひとつひとつの光景に、ただ頷いて、己が身に刻み込んだ。
誰かが、何かを言っていた。
だが、何も聞こえずに無音の白闇が広がった。その声が己には届かないのが、不思議だった。そして、ひどく苦しかった。何故、どうして。くずおれた己に、別の己が嗤う。
――先に手を離したのは。先に心に背いたのは。
「失礼を、ディオン様」
不意に響いた声に、ディオンは閉じてしまっていた瞼を開いた。いつの間にかまた眠ってしまったらしく、ささやかな陽光が差していたはずの部屋はすっかりと暗い。視界の端の灯火がなければ、夢の続きかと思ったかもしれない。
かさついた手が己の濡れた頬に触れていなければ、きっと。
「……テランス」
「ここに。お気付きになられましたか」
声に喜色を忍ばせて、よく慣れた気配がディオンに言う。うん、とディオンはその問いにまばたきで応えた。
「余は……私は、また眠っていたのか? あれから」
「まだ数刻といったところです。タルヤ先生が、そのまま寝かせるようにと」
そう言うと、テランスはディオンの頬から額へとその手を緩やかに移した。
熱を測るための所作はどこまでも優しい。その心地よさに目を閉じかけたディオンに、「寝ないでください」とテランスは笑った。
「……どちらなのだ?」
寝ていろと言ったり、寝るなと言ったり。
「目が覚めたら、しばらくは起きているようにとのことです。熱も落ち着いたようですし、まずは食事をとって薬を飲みましょう」
提案してきたテランスに、ディオンは再びまばたきをする。頷いたりして下手に頭を動かすと、目眩の渦に叩き込まれるのにはもう懲りた。一方で、矜持めいたものは未だにあって、上体を起こすのに手を貸そうとしたテランスを指先で制した。
だが。
「……ッ」
愚かにも萎えた腕は半身を支えきれずに、敷布の上を滑った。刹那、また沈むのかと諦念にも似た感情がよぎったが、しかし、現実は違った。
こうなることを想定していたのだろう、いつものように素早く差し出された腕がディオンの体を力強く支える。
「ディオン、下手な意地は張らないで。……起こすよ?」
「……ああ」
下手、とは何だ。小さな咎めにディオンは言い返そうとしたが、やめた。二人きりのときだけの口調にテランスが切り替えた、そのことに気分が少し上向く。嬉しいと素直に思った。
諾、と告げられたテランスは器用にも片手でディオンの背を抱き、もう片手で散らばっていた枕やクッションを寝台のヘッドボードに集めた。そうして準備を整えると、ゆっくりとディオンを枕の海に預ける。その動きは以前よりも慎重さを増していて、まるでどこぞの姫君にでもするかのようだった。
目が覚めて、再会して、それからずっと。テランスは、そんなふうに己に接した。堅苦しさと気やすさは前と同じように行き来し、何も変わらない。抱きしめる力加減も、額を擦り合わせる癖も、頬を撫でる指先も、記憶の襞に刻んだものと同じ。ただ、そこに色を乗せないだけで。
冬の空色をしたテランスの瞳に、熱は潜んでいなかった。
何故、とはあまり思わなかった。それこそ何故なのか、分からなかったが。
ただ、と思う。おそらく、己は失ったのだ。
ポリッジは食べられそう? 問いかけるテランスに手を伸ばし、腕に触れる。パタパタと二度軽く叩き、少しなら、とディオンは答えた。