3 : Dion side
人の気配が薄くなった夜更け、ディオンはラウンジへと向かった。
店じまいしたのか、パブの店主の姿は見当たらなかった。潰れた酔客はおらず、オーケストリオンも止まったまま。男がただひとり、ジョッキを傾けていた。
「イフリート」
気付いていたのだろう、こちらに視線を置いたままで何も言わない彼に、ディオンは呼びかけた。
「クライヴ、だ。……ルサージュ卿、いい加減慣れてくれ」
渋面でクライヴが言う。
「慣れないのは貴公も同じではないか」
溜息が混ざったその声音がおかしくて、ディオンは喉で笑った。確かに、身の内にあった召喚獣も魔法も消えた今、呼ぶのであれば名前しかない。
「貴方はルサージュの名を捨てたわけじゃないだろう? それに」
――一瞬、考えもしたが。ディオンはクライヴの言に内心思ったが、敢えて口にはしなかった。今となっては詮無きことで、未来を語る上ではありえないことだった。
そう、訪れるはずもなかった己が未来を見据えるためには。
「それに?」
「貴方を名前で呼ぶと嫌がる人がいるからな」
促してみると、何を思い出したのかクライヴはげんなりとした風情で言った。心当たりは。続けてそう問われ、ディオンは頷く。
「大いにある」
表立って嫉妬のような心情を見せることは少ないが、内実でいえばテランスはなかなかに独占欲が強い。それは己に喜びを与えるものであり、また、地を離れて空の高みを駆ける己が身を繋ぎ留めるものでもあった。テランスの存在がなければ、己はまったく別の道行きを辿っていたと思う。
……それでも、あのとき。結局は振り切ってしまったけれども。
そして、今は。熱のない冬の空色を思い出す。
「なら、なんとかしてくれ。俺はチョコボに蹴られたくない」
「テランスはチョコボではないが……どちらかというと」
別の動物のほうが、とディオンが続けようとすると、「そういうことじゃない」とクライヴは呆れたように言った。
「本題だが、手紙を読んだ。オリフレム公に連絡をとってほしいと?」
ジョッキをカウンターに置き、クライヴは隠しから紙片を取り出した。確認のまなざしで見る彼に、ディオンは「そうだ」と答えた。
「自分から直接ではなく?」
「首の賢人……オリフレム公は暗愚ではないが、疑り深いところがある。為政者としては正しくもあるが、余の生存は流言と捉えているであろう。――あるいは、偽り者と」
いくつかの季節がめぐったが、ザンブレクからの接触はなかった。テランスが情報を止めていた時期もあったが、今は違う。ほうぼうから情報を集め、ヴィヴィアン女史にレポートの作成を依頼し、情勢把握の手助けをしてくれている。
ヴィヴィアン・レポートやクライヴの話でザンブレクの現状は把握できた。そう、できたのだが。
「時の針は既に進んでいる。巻き戻す必要はないが、歩みを遮る者が出るとも限らない。射掛けられる火矢を打ち払いたいと思ってはいるが……、そもそもオリフレム公からすれば「ディオン・ルサージュ」はどうあっても危険人物なのだ。たとえ、偽り者ではなかったとしても」
「……国という枠組みに重きを置いていたが、権力に酔っているようには見えなかった。話せば分かる御仁だと感じたが」
オリジンの破壊以前に起きたノースリーチでの一件は、ディオンも聞き及んでいた。少しく驚きはしたが、未来を託せるのだと安堵したのを覚えている。
「そう、話がしたい。その場を作ることができるのは、貴公だけだ」
貴公というのも止めてくれ、そう言いながらクライヴが顎に手を当てる。ディオンが持ちかけた話を咀嚼しているのだろう、卓の上で指先を動かした。
「分かった。それなら、カンタンにも連絡しよう。オリフレム公も同盟に加わるべきだと言っていたから、ちょうどいい」
「恩に着る、クライヴ」
礼をとったディオンに、クライヴは目を細めた。
「礼を言う必要はない。貴方には多くの借りがあるから、少しでも返せればと思っている」
「余は何も貸してなどいないぞ?」
言葉の意味が分からずにディオンは小首を傾げた。そうか?とクライヴは続ける。
「弟――ジョシュアの言葉に耳を傾けてくれた。皆の退路を守ってくれた。大いなる翼を貸してくれた。……礼を言いたいのはこちらさ」
「……。あれ、は……」
秘密を打ち明けるときのようなやわらかい声色に、ディオンは口ごもる。あれは、あれらは、自己満足以外の何物でもなかった。己の願いを叶えるための手段でしかなかった。そう、自分のためだけに。
黙り込んだ相手をどう思ったか、クライヴがディオンの背を勢いよく叩いた。
「そういったわけだから、もう貸し借りはなしだ。ディオン・ルサージュ」
それから、いくつかの話をした。これまでのこと、これからのこと、己のこと。
「貴方と話ができてよかった」
手紙を隠しに戻してそう言ったクライヴに、ディオンは頷いた。
「ああ。クライヴ、次は余が話を聞こう」
「頼んだよ」
――次。
己が発したその単語は、どこか不可思議な響きで慣れないものだった。……だが、いつの日か慣れるときもくるだろう。
闇と光。ときに闇は深く、ときに光は強く。闇に星が見え、光は陰る。何度も、幾度も。沈んで、浮かんで。また、沈む。
沈みゆくなか、見上げる水面。月あかりの揺らめきに、未来を見る。
何故、どうして。己自身が繰り出した問いに、未だ答は出ない。
それでも。だからこそ。
「ああ、ディオン。そうだった」
別れ際、裏デッキ経由で病室に戻ろうとしたディオンをクライヴが呼び止める。何事か、と名を呼ばれたディオンは振り返った。
「泣き顔を見せる相手は選んだほうがいいな」
じゃあ、おやすみ。
それだけを言ってしまうと、クライヴは返事を待たずに自室へと歩いていった。
アトリウムに向かう階段で、軽い足音がした。こちらの気配に気付いたのか、足音は数段を下りたところで止まる。
「ルサージュ卿?」
「……ジル殿?」
シヴァ、と言いかけて止めたディオンだったが、月光を受けたジルは頓着せずに再び階段を下りた。トン、トン。幾分ゆっくりとしたその歩みを眺めている間に、ジルはディオンの隣に立った。
「テランスさんは、上にいるわ」
クライヴと同じようにジルもまた、内緒話の響きで話しかけた。思わず目を瞠ったディオンに、ジルが言葉を繋げる。
「行きなさい。明日へと続く今のために」