3.
波を砕く音を直に聞きながら、海辺を歩いた。
夜更けの月が大分その姿を西へと傾ぐ頃。
それはあたかも月が海へ身を投げようとするような──、そんな時分。
波を砕く音を聞く。
何処までも暗い、黒い海を見る。
そして、水面で忙しく動き回っている月を。
海辺を歩いていた。
海を見に行くなどと言い出したのは己ではない。アシュレイだ。寡黙なリスクブレイカーは何を思ったか立ち上がると、そう己に告げた。
そしてもう一言。
『……行くか?』
あの読めぬ顔つきのまま、見下ろして。
しかし断る理由も別になく、シドニーは頷いたのだったが。
羽織った上着が湿った潮風をはらむ。
この季節の風は割と強い。その風に運ばれた波は時折白い波頭を見せている。
そんな光景を眺めるともなく眺めながら、海辺を歩く。
アシュレイは己より少し遅れたところをやはりゆっくりと歩いているようだった。背に感じた気配を確認するかのように、シドニーは振り返る。
振り返ったことで両者の距離は少し縮まった。
その瞬間、身に受ける力は距離の分だけ縮まった。そうしてまた一歩踏み出すと、アシュレイから放たれる力はその分弱まる。
つまり、それが今のふたりの関係だった。
積み重なった事実の中でもっとも新しい事実だ。だが、その事実にシドニーは何をも思わずに歩き続ける。
生かされているという現実に思うところなど既になく。
今は、ただ。
貝殻の散らばる海辺に波は打ち寄せては引いていく。引いた後には新たな貝殻が打ち上げられ、そして幾つかの貝は姿を消していた。
今は、ただ。
──己の「心」に値うべき答を。
望みと呼ばれるものを心の中に置くために今という時間が存在しているのだ──、シドニーはそう理解していた。
操りの糸を切った後に生まれた空白はそのためにある。
生かされているという現実こそはそのために。
そしてまた、何もない世界に放り込まれたのも。すべては己の心のためにあった。
導き、促したのは遠く懐かしい想い出だ。望みと同じように人の心に必ず潜んでいる光景に問いは隠されていた。
──そういえば。
ふいにシドニーは振り返った。既に視線の先、アシュレイは足を止め、黒い海をじっと眺めやっている。
吸い込まれていきそうな夜の海を眺めていた。
その心の内に何が隠されているのか、瞳にはどんな意思がこめられているのか。
己がそれを知る術はもはやない。
だが、周囲に纏う空気は邸で対峙した時と比して明らかに異なるものだ。力を使わずとも分かるほどに、その変化は如実なものでシドニーは驚きもしたのだった。
この男が魔都に潜入を果たした時──あれは何処だったか──、「心と体が分離しているようだ」と評した。絵本の中に登場する勇者のようだと。
魔の世界より召喚した怪物を倒した時だ。
──何故この男はこうも易々と肉体を支配できる?
魔に触れた者でも持ち得ない力をその手にしている、その所以は。
確実に任務を遂行する「危険請負人」としての使命が彼をしてそうさせたのか。
迷いのない動きを生み出したのか。
──いや。
しかし、シドニーは即座に考えを投げ捨てた。
如何な戦士であろうと「普通」の人間にこのような真似はできない、と魔が囁いた。
眼前の男は関心を持たない顔つきで己を見ている。その顔には何の感情も浮かんではいなかった。
まるですっぽりと抜け落ちてしまったかのように。
考えを投げ捨てるほどの無表情に、内心シドニーは苦笑した。これは魔の及ぶ範囲ではない。
違和感を覚えた。──滑稽だと思った。
そして近しい感覚を。
アシュレイ・ライオットは己のように心を持たぬ存在だった。幾重にも封じ込められた心は何処かを彷徨い、漂っている。
心は自ら封じ込めたものなのか。或いは、何者かによって閉ざされたものなのか?
疑念と興味があった。人でありながら人形となるを選び取った存在に。
「……」
記憶を辿った心が引き戻される。風はにわかに強くなり、水面に浮かぶ月はその姿を歪ませた。
波と風の音が魂の咆哮を掻き消すようにこの海辺を通り抜ける。通り抜けた風は廃墟と化した街に未だ残る塵を浚うだろう。
雲が月を隠したためか、夜がまた少し濃くなった。
止めていた足を動かし、海岸線に沿って歩き始める。行く手には海と見分けのつかなくなった森が広がっている。奇妙に空間の捻れた森だ。
──そういえば。
徐々に離れていく距離を手がかりに、シドニーは再び近い過去を思った。
アシュレイは未だ海の前に佇んで動かない。
この男にも己と同じような光景があった。やはり胸に眠っていた球の形をしたひとつの景色が。
力を使い、心を垣間見た時シドニーはこれが奴にとっての原風景なのだと正しく理解した。
目を背けずにはいられない、封じ込めずにはいられない一枚の絵なのだと。
雲は風にゆったりと吹かれ流れていく。
陽光は雲に遮られ表情を変えていく。
それは一瞬たりとて同じものではなく、しかしすべてが同じもののような。
夏の日の風景がそこにはあった。
何故か捻れた印象をシドニーに与えながら。
捻れは何処から来るものなのか。何を生み出し続けるのか。
男を狩人、己を兎に見たてたゲームと称し、その場より気配を消し去ってもなお、違和感は拭えなかった。
虚か?
真か?
それとも、他のものなのか。
苛立ちにも似た違和感は興味にすりかわる。歪な光景は永遠を繰り返す道筋を辿っていた。
心を持たぬ己が持ち得る絵と同じような。
挑発し、魔都深くまで誘き寄せるを選んだのも、この男が垣間見せた原風景の正体を見定めたいと思ったのがその理由と結論なのかもしれぬ。
無論、その能力自体を高く買ったということもあるが。
だが、あの男でなければならないと思ったのは、確かにあの光景に所以があった。
──そうして己の心も引きずられたか。
シドニーは苦笑した。糸で引っ張られたようにその足が止まる。
罠を張り、幻惑の扉を開け放つ。男の心の奥底深く眠り続ける原風景とは別のところにある「何か」が魔に触れ、嬉々として蠢いた。
そうして探った「眠る記憶」は虚か。
真か。
それとも、他のものなのか。
おそらく、そのどちらですらもありはしない。勿論、他のものであるはずもなかった。
答はふたつにひとつという訳ではなかった。たとえて言うならば幾通りにも変化する万華鏡のような。
そんな存在であるはずだ。
魔の罠を、虚偽と真実の扉を抜け、そうして如何なる経緯を辿ってか──既にその時、己に見届ける余裕はなかった──、アシュレイはその心にある原風景を変化させていた。
幾重にも閉ざされた心は静かに開かれていた。
石の聖母はやはり語りかけたのだろうか。
──認めるのは案外に簡単なこと、と。
そうして微笑んだのだろうか。
崩壊の後、青い空気の漂う室で焼け付くような痛みに襲われながらシドニーはそんなことを思いもした。原風景に囚われ、それを乗り越えた男を見上げる己のまなざしには羨望の色が浮かんでいたのかもしれない。
だが。いや、やはりというべきか。
初めに近しいと感じたそれはやはり引き合って。
そうして引きずられるように己の心もまた、風景を変化させたのだった。
張り詰めた糸が緩んだと感じた。
「……」
思考の終着を得てシドニーは空を仰いだ。潮風に運ばれた雲は空を覆い始め、夜は何処までも深くなっていく。水面を走っていた月も今はその姿を隠していた。
それでも……たとえこの目には見えずとも月は動き続け、波はうねり続けるだろう。海を駆け抜けた風は、そうしてあの街に未だたゆとう塵を浚っていくのだ。
──声が、聞こえたような気がしたのだが。
そう思い、声の発することのできる唯一の人物を見やる。アシュレイは未だ海を見据えたまま、急くことなく再びこちらに歩を進めているようだった。
風はその身に纏う空気を絡め取り運んでいく。
声に聞こえたものはその風が鼓膜を打った音なのかもしれない。シドニーはそう思い再び海を見やったのだが。
「……」
「……何だ?」
やはり呟かれた言葉に問いを送る。問われ、アシュレイは向き直ると一言、いや、と答にならない答を返してよこした。
「……潮の境目があると聞いた。その割には静かだと思っただけだ」
纏う雰囲気こそ違えど、何ら変わらぬ口ぶりでそう告げる。
そうして再び海に向き直った。
海より吹き込む風に髪をなびかせて。
静かだと評した海をただ見つめた。
その横顔を見ながらなるほど、とシドニーは思った。これもまた積み重なったひとつの事実に他ならない。
「この海の潮目は自然がもたらすものではないからな。……魔によって生み出されたものさ」
独り言のようにシドニーも言葉を転がす。
街の三方を囲む海はアシュレイの言葉通り、潮の境目が数多くあった。潮目に入りこみ海の藻屑と消えた船も少なくはない。
沈んだ船の多くは「遺産」を目当てに魔の街に侵入するを目的としたものだったが。
だが、元々この海に潮目の起きる要素は皆無だった。古い文献を探ると穏やかな、凪の海であるという既述も多くある。
潮目は自然のもたらしたものではなかった。魔より生まれ、魔を守るために張られた結界が具現化したものだった。
そして結界は、牧場と化したこの街より魔を逃がさぬためのものでもあった。
結界の名はグラン・グリモアという。
故に、魔に触れた多くの者が塵と化してしまえば潮目など存在するはずもなく。
この街を所有する者が望まなければ結界など存在するはずもなく。
今はただ、こうして風が吹き渡るのみ。
「だから今は潮目などない」
雲が切れ、再び月明かり。沈む間際の月が水面を走り始める。
海に潮目などは既になく、ただ永遠の繰り返しを波が奏でるのみ。
そうして街は今度こそ眠りに着くのだろう。安寧の揺籠にその身を委ねながら。
「無論、アシュレイ……貴様が復活させたいと言うのならば話は別だが?」
「シドニー」
シドニーの言にアシュレイの顔が僅かに顰められる。名を呼ぶ響きには咎めるものがあった。
冗談だ、とシドニーは肩を竦めてみせた。
こんなことは勿論冗談だ。
魔を巡る争いは終わらせなければならない。この街は滅びの道を歩むことを希求してやまない。
人は……魔を欲し続けた人間こそがその流れを止めようとしていた。己もそのひとり。結界をと望んだのは己だった。
──そして。
そして、繰り返される問いがそこにはある。
答もまた。
波打ち際に月明かりを受け何かが光っている。沈黙から逃れるようにシドニーはそれを拾った。
木でできた、円い何か。
縁に文字が刻まれているようなことからそれが羅針盤だということが分かる。盤に付いている金属の針が月光を受け、微かな光を放ったのだった。
手の平に乗るほどの大きさのそれは幾度も波に浚われたのだろう、錆び朽ちたもの。
強く触れてしまえば崩れ去り塵に返ってしまうような。
「羅針盤か」
傍らに立ち、覗き込むように言うアシュレイにシドニーは頷いてみせた。贋の手に乗った羅針盤はどの方角を指すこともなく月明かりの下に静かに黙している。
張り詰めた糸はそうして緩められた。
「藻屑と消えた船があったらしいな」
ぽつりとシドニーは呟いた。
羅針盤は持ち主の手を離れ、役目を果たすこともなく海の只中を彷徨い続けていたのだろうか。
彷徨の果てにこの地に辿り着いたのだろうか。
──戻ることができるように見えて、戻ることの許されぬ流れを乗り越えて。
それはまるで、誰かを暗示しているようでシドニーはふとおかしくなった。
朽ちかけた身も。
指すことのできない方角も。
それはまるで。
──己のような。
だが、今はその事実の羅列もシドニーにもはや何の意味をももたらさない。故に浮かんだ笑みは苦笑や嘲笑のそれではなく、ただの微笑だった。
青い空気の暗がりの中、ひっそりと独り浮かべたような微笑だった。
それを意識するようなことはもはやなかったが。
風が止み穏やかになった波の上、月明かりはますますその輝きを増していた。
そこには静寂に彩られた空白がぽっかりと浮かんでいる。
「……潮目がなくなったために打ち上げられたのか」
空白をアシュレイの言葉が埋めていくのを、シドニーは聞いていた。そうだ、と頷きかけその所作をふいに止める。
是とも否とも言わずにそうして沈黙は再び。
羅針盤より目を移し、シドニーは傍らの男を見やった。言葉に引っかかるようなものがあったのはおそらく気のせいではないのだろう。
打ち上げられたのは羅針盤か。それとも。
潮目がなくなったために。
結界が消滅したために。
この岸辺に辿り着いたのは。
永遠の漂流から解放されたのは。
──己の心に呼応するような言葉は何故。
シドニーの内なる問いにアシュレイは答えない。だが、その問い自体は聞こえている筈──、そう、男は最初からすべて聞き届けているのだった。
混乱も。逡巡も。
望みという名の問いも。そして、答をも。
己が、男の原風景を知り得ているのと同じように。
聞かれているという事実を受け取ったのは無論、今ではなかった。そんなことはとうに知れている。故にそれで驚いたのではなく。
──聞かぬふりをするのではなかったか?
腕を組み、シドニーは改めてアシュレイを見据えた。その瞳が愉快気に笑っている。予想範囲を少しばかり超えた事実の展開にこそ、彼は驚きを覚えたのだった。
そうして同時に面白くもあったのだが。
「……」
しかし、アシュレイはそれ以上答えようとはせず海を見やるばかり。
それは逃げなどではなく、単に答を要さないだけなのだろうとシドニーは思った。
そもそもの空白はそのようにして生まれたのだった。
壊れかけの羅針盤を海に投げ入れる。二、三度波が浚い、羅針盤は夜の海へと消えていった。
望みと呼ばれるものを心の中に置くために今という時間は存在している。
生かされているという現実こそはそのために。
──生かしているという感覚はこの男にはおそらくないのだろうが。
羅針盤の沈んでいった先をただ、シドニーは見つめた。
己が空白の時間を無意識に欲したように、男もまた自らの罪を贖うために己を必要としていた。
愛しい者を守り切れなかったという悔恨を拭うために。
この偽の命で贖えるものなのかと思いもしたが、それは己の関わるべきことではなく。
そして己も望みを探る時間を求めていた。崩れ落ちる大聖堂で魔都と共に消え失せるを望まずに。容易に選び取れるはずだった死を望まずに。
両者の望みは合致していた、ただそれだけのことだった。
「……戻るか?」
黙していたアシュレイが空を振り仰ぎ、言った。その視線の先を追いシドニーも闇の落ちた空を仰ぐ。
再び吹き始めた風が雲を運び、空は既にその透明なところを失っている。
欠けた月もその姿を完全に闇に隠し去っていた。或いは時の流れによって海の只中に身を沈めたのか。
月明かりのない海は波の音が響くばかりの闇の延長に。
──もう、あの欠けた月を眺めることもない。
没した月の行方をシドニーは思った。
潮にも似た、湿り気を帯びる風が頬を撫ぜ、髪をなびかせる。
雨を呼ぶ風だ。
幕切れの雨はもう間もなくに。
水面を走る月に出会うことももはやないだろう。空と海の狭間であった闇に目を移しながら、唇の動きだけでそう呟いた。
何の感傷も持たずに呟いた。
それでも──、見えずとも永遠に月は動き続け、波はうねり続ける。
風は塵を浚い、雲は雨を運ぶのだろう。
そのサイクルの中に己はいない、ただそれだけで。
ただ、それだけのことで。
己の問いに対する答は、地を離れることのできぬ海の只中を漂うのではなく。
見えぬ糸に縛られるのでもなく。
永遠の繰り返しを見るのでもなく。
──無に帰することこそが。
やはり、それこそが己の変わらぬ望みだった。
「雨が降る」
闇の果てを見据えたまま、シドニーは呟く。誰に聞かせる言葉でもなかった。
あの微笑みと同じように。
故に傍らに立つ男も言葉を返したりはせずに、見守るように佇むのみ。
彼はシドニーの呟きを聞いていた。そしてその答もまた指摘されたように聞き届けていたのだった。
故に言葉は要らず。何も返さず。
闇を見据えていたシドニーはそんな男の空気を感じながら雨が降る、ともう一度呟いた。
誰に告げる言葉でもなかった。
雨が降る。
雨は望みを告げるため要した時間に終焉をもたらした。
風に促され、波が高くなる。潮にも似た、雨を運ぶ風が頬を撫ぜた。
波の音はそうして心に沁み渡り、雨音へとその響きを変えていった。
<終>