2.
追憶色の中に彼は佇んでいた。
己のある場所を確認し、ああ、と嘆息する。
完全に崩壊したはずの大聖堂──、その屋根裏に彼の意識はあった。
石造りの窓から差し込む陽光がこの部屋を追憶色の中に置く。透明な躰を光に透かしながら彼は窓辺に立った。
空の高いところに目線を上げると、天頂に近付くにつれ空の青は次第に濃いものになっていく。
それはあたかもこの切り離された空間がやはり世界の続きであることを示しているようで、彼は昔から不可思議な感覚に囚われたものだったが。
街には何もない。静かに風化していくその姿があるのみ。
音もなく塵と化していくのみ。
街は……、この魔都はそうして死に沈んでいくのだ。
風の音、そして波の音に紛れるようにして聞こえるのは、死者の嘆き。
途絶えることのない叫びは空の青さ、追憶色の光とは対照的に地の底から湧き起こる幾千の魂がもたらす呪いだ。
低く、悲しく。
高く、忌々しく。
──魂達の悲鳴を聞きながら、己は育ったのだった。
回想のようにシドニーは思う。
追憶の中の嘆きは生々しく街を取り囲む。数多の魂が器を失った大地震からこの「過去」は然程時を持たない。
故に叫びはどこまでも深く。
時には自然の音を掻き消すほどに。
──そんな魂に囲まれ、魔の海に浸らなければ己は生を繋ぎ止めることはできなかった。
積み重なった事実の底にあるもっとも古い事実だ。
魂が充満し、魔がこの場と強い結びつきを見せなければ、己はその内なる魔力に身を喰い滅ぼされていただろう。
常に魔に触れていなければ。
故にこの場には己以外、生を保有する者がいる訳もなく。
そうしてすべての音に混ざり合うように耳障りな足音。
待ち受けていたように彼は、幼少の己を迎えた。
歩くたびに偽物の足は重たげな音を落とす。しかし、幼い自分はそんな音に囚われるふうでもなく、同じように窓辺に立った。
──不自然な歩き方だ。
シドニーは微笑った。
だが、音にとらわれなかったようにあの頃の己は、何がおかしいとも思わなかった。これが己にとっての自然だったのだ。
境界によって隔絶された内側の世界はすべてだった。
そして、この窓から眺める景色はあまりにも変わらないもので。
幼い自分は、空に瞬く星達と同じようにこの眺めを変わらぬものと見ていたのではなかったか。
街は死に沈んだまま。
海は遠く静かに霞んだまま。
隣に立つ幼子は何も変わることのない、だが少しずつ風化していく風景を眺め続ける。
魔にその身を癒され、魂の嘆きを聞き届けながら。
ごうと風が吹き、場が変わった。
場は再び追憶色の中。だが、像を結んだのは別の風景だった。
もう幾度も瞼の中に浮かんだ光景がそこにはある。
それは言うなれば、己の心の内にある原風景とでもいうべきもの。
時が経つにつれ──、周囲の均衡が崩れ出した頃からは疎んできた存在だったが。
──また、これか?
彼は笑って見せた。だが意識の中、彼の存在に気付く者はない。誰にも見られることのない笑顔はその所作の半ばですっと引き取られた。
高窓から差し込む陽光がその通路を追憶色の中に置く。
通路には一体の聖母像。光に包まれ、優しく微笑む聖母は石造りのもの。
それを見上げるのは幼い頃の自分自身。
壊れたからくりのように繰り返される遠い光景だ。
石造りの聖母を幼子は飽くことなく眺め続ける。陽光がその横顔を静かに照らす、そんな光景。
幼い頃、この館に来るたびに聖母像を眺めたものだった。他の豪華な調度には目もくれずにただこの石像を眺めた。
それは何故だったか?
透明な意識で自問自答する。
何故だったか。
──おそらく、己は。
未だ聖母像を眺めている自分を見つめながら、彼は答を繰り出した。
この像は自分に近しいものだった。近い空気をこの像は保有していると感じたために、ただ、この聖母像を。
たとえば、他の調度品と釣り合いがあわないほど素朴だとか。
たとえば、魂を失った抜け殻のように見えただとか。
印象の積み重ねがそこにはあった。聖母の像はこの館の何より、あの街に近かった。
やがて幼子は像から目を離し、歩き始める。
偽物の足をやはり不器用に動かして。
そして響くのは扉の開け放たれる音。音と共に幼子のいる通路を光が満たした。
急に明るくなった扉の向こうを見やり、彼は目を細める。透明の義手をかざし光を遮ろうとしたが、それは適わなかった。
扉に立つのはひとりの男だ。光の具合でその顔つきは見えない。
微笑んでいるようにも見え。
顰めているようにも見える──父の顔。
無表情だった幼子は振り返るなり頬を上気させる。満面の笑みを浮かべ、子は父のもとへと駆け出した。
あの、おぼつかない足取りで。
その瞬間、彼は僅かに視線を逸らした。認めたくないという想いがそんな行動を取らせた。
しかし、記憶は見るよりも強く脳裏に光景を焼き付ける。
その記憶を取り去ることは何よりも難しく。
故に彼は目を背けた。
視線の先には石の聖母。引き結ばれた唇、ぽっかりと開いた眼は何の意をも伝えない。だが、彼を見下ろした彼女はその表情のまま微笑んでいるようにも見える。
そうして問いかけるのだ。
何故認めないの?と。
見たこともない、しかしよく見知った顔で微笑むのだ。
『………』
聖母の無言の問いに答えることができず、また彼は沈黙する。
認めることは案外に簡単なことでしょう?と。
──そうすれば答は自ずと導かれる。
景色の中で透明に声は響く。
言葉は石像が語りかけるものか。それとも、己が心に自ら問いかけたものなのか。
それとも。
繰り返される原風景の中で繰り返される問いがある。
迷宮の奥深くを彷徨ってやまない答が。
両者は永遠の鎖に繋がれていた。その端をシドニーは持つと、そっと鎖を手繰った。
──一度は認めたことなのだから。
なおも響く内なる声に苦笑する。確かに、己は一度この光景を認めたのだった。心に向き直ったのだった。
大聖堂の屋根裏。
揺れる蝋燭。
あの時、何かが答を──、想いを偽る必要はないと己に告げた。
そうしてすべては一瞬のうちに。
ゆっくりと流れる時の狭間で幼子は透明な躰をすり抜け、駆ける。逸らした視線を戻し、彼はそんな自分の背を見送った。
波の調べは遠く、近く。
心の内を見透かし、浚うように。
閉じた瞼を開くと、そこは何も変わらぬ元の光景。魔法陣の光揺らめく工房に相変わらず彼はいた。
過去がもたらした夢は光に満ち溢れていた。急に暗くなった視界に二、三度瞬きをする。
窓から射しこむかそけき月光は淡くこの部屋を照らす。
波の音はやはり耳をはっきりととらえてやまない。
雨は今宵も降らず、天空には昨夜より幾分細くなった月。
沁み渡るように響くのは波音。
だが──。
だが、過去で手繰った鎖の端は今も贋手の中にある。月明かりも波の砕けた音も鎖を失わせるような存在ではもはやない。
己の中のもっとも古い事実を認めた時、それらは沈黙を守るものへと変化を遂げた。
けして声高に語りかける存在ではなく。
何かを暗示するものでもなく。
鎖をもう一度手繰るように手を動かしてみる。目には見えぬ鎖はそれでも少しばかり答を引き寄せたような気がした。
己の心の問いに対する答を。
浮かばせたままの苦笑を誰にも見せたことがないような微笑に変え、シドニーは壁に凭れかかった。
夜気を吸い込んだ壁はひんやりと冷たい。しかしそれは心地よかった。
──己の問いに対する答を。
口の中で言葉を転がしてみる。そして問いを。
原風景で繰り返された問いは本来ならば……、たとえば己がこのまま「命」を終わらせるならば必要のないものだった。必要があるはずもなかったのだ。
一個の人としてではなく、儡──操り人形に心はいらなかった。
儡は操る者なくして動くことは許されない。己はまさしくそうだった。心はないのだと言い聞かせてきた。
しかし操る糸は切れ、人形は地に転がった。心を持たない己は血の通わぬ冷えた魂の器のみの存在に過ぎない。
──何故、認めないの?
原風景に目を背けた己に聖母像は語りかけた。
自分に「過去」があったことを。
「心」があることを。
改めて突きつけられた事実は繰り返しの光景の中に。瞼を閉じると常に浮かんだ原風景は己と共にあった。
──認めることは案外に簡単でしょう?
石の聖母がそうして微笑う。
──あなたが誰かの子供であることは。
人の子であることは。
思い出し、シドニーは再び微笑った。
それは確かに認めるとあっさりと胸の中に落ち着いた。己が本物の人形などではなく、人間であるということなど分かりきっているはずだった。
しかし、繰り返される原風景を見るたびに心は頑なになり石となった。
信念を希求するあまりに事実を見失った。
混乱の海に浚われ、想いの糸は途切れた。
だが、それも今となってはどうでもいいことの数々。
遠い過去を見るが如くに振り返ることのできる想いの数々だ。
顔を上げ、白磁の肌に月の光を浴びる。何時だったか意識の先で動かぬ贋手のかわりに月光に照らした幻の手は、光の前に痛みもなく溶けていった。
古い記憶を辿ろうとする心を認めながら、道に迷い何処にも辿り付けなかった。
そして今。
月光は音もなくこの身に降り注ぐ。
道の終わりを明るく照らし出すように。
問いと答を浮かばせるように。
誰もが胸に抱える問いを。人ならばその心の内に抱える問いを。
──望みを。
波の調べは高く、低く。
時を紡ぎ出すようにこの室を響かせていた。
心の内に抱えた望みを、解きほぐすかのように。