SEASHORE

1.

 遠く奏でられる調べ。
 夜の静寂にゆったりと溶け、沁み渡るように響く波の音。
 先刻まで深い眠りの内にいたシドニーは、古ぼけた枕を傷ついた背にあて、壁にもたれながらその音を聞いていた。
 自分のいるこの場──魔法陣の光ゆらめく工房──は割と海に近いらしい。
 魔都レアモンデの地形を思い起こし、ぼんやりと考える。
 だが。
 ここが何処なのか。そしてあれからどれくらい経ったのか。意識がはっきりと戻るまでに時間のかかったシドニーは未だ把握できていなかった。
 共にこの場にいる男は多くを語らない。故に自身の感覚で知るのみ。
 しかし、目覚めているのか、それとも未だ眠りの淵にあるのかその境目も分からない。
 終わったのか、まだ続いているのか。
 現実なのか、夢幻なのか。
 今、こうしているのは。
 己が混乱の内にあることを彼は知っていた。分かっていた。
 持つべき答を未だ見出せない己があることを。
 道の終わりに辿り着いたときにすぐさま選び取るはずだった答は、月に消され、波に浚われてその姿を今は見せようとはしない。
 繰り返される波の音は己を永遠の環に繋ぎ止めて離さない。傷ついた躰は不透明な闇を漂って止まない。それらは逆さまに時を刻み続けている、そんな感覚を心の中に落としていく。
 ──いや。
 立てた仮説を即座に否定する。
 永遠の環も不透明な闇も元より己を取り巻くもの。魔都に漂う魂のように、澱んだ空気のように己から離れえぬ存在。
 意識するともなく共に歩んできた感覚に、今更何を思うのか。
 何故、今改めて意識などしなければならないのか。

 何故?
 何故。

 波の音に促され、繰り返し目の前に引き出された問いに彼は息を吐いた。
 魔の力を得、時を経て回復に向かいはじめたその身を僅かに動かす。青い光を遠くに含む空気は素直にその流れに従った。
 ──素直に、従った。
「……」
 またひとつふたつ事実が積み重なる。己の立てた仮説に別の角度から突き崩す事実が。
 しかし、そんな事実すら甘受してみせる。
「……どうした?」
 青い空気はそうして揺らいだ。
 己に一瞬付き従いかけたそれは、この場にいるもうひとりの男へとこの瞬間流れを変えた。
 青い光を遠くに含む空気は魔の粒子。
 それは既に己には従うべき存在ではなく。
「シドニー?」
 二度呼ばれ、薄笑を浮かべたままシドニーは顔を上げた。青く染まる部屋の隅を見やると、男は対照的な無表情で見返している。
 魔に冒されたこの都を継いだ男だ。いや、継がせたと言うべきか。
「……なんでも?」
 肩を竦め、応える。その動作に合わせ、崩壊の最中に抜け落ちた贋手は、今は何の不都合もなく動いた。これもまた男がその力を注いだ結果のひとつ。
 ──おそらく何の迷いもなく力を使ったのだろう。
 己とは違って。
「──そうか」
 数呼吸の間の後に、男は短く返答した。魂の漂う空気が踊るように揺らいだ。
 だが、それはほんの僅かな間のこと。それきり男が黙すると魂達は所在無げに静寂へと落ち着きを見せる。
 声高に語りかけるを好む魂には珍しく、神妙な所作で。
 元々、魔都を漂う魂達と所有者の間には見えぬ境界線が存在する。卑小なる魂は力を持つ者に逆らうことは許されていない。故に魂達はこのような動きをしてみせるのだったが。
 しかし本来ならば近寄ることもできぬほどの差がなければならなかった。線は壁でなくてはならない。
 そこまでの力は未だこの男をもってしても果たされてはいない。無論、崩壊直前の己と比するとその差は歴然としてはいるが。
 ──己の境界は壁ではなく常に線だった。
 思い出し、シドニーは独り微笑う。
 線は日毎細くなり、切れかけ、塵と化しつつあった。
 切れかけた境界では牙を剥く悪魂から身を守ることすらも難かった。力が弱まりつつあったという揺るがない事実が、そのような事態を引き起こさせた。
 そうして今も。
 隙を窺うような魂が頬を撫ぜる。
 無言の呪詛を。

 朽ちかけた我が身に、透明の鎌を。

 空気が、青みを増した。

「……」
 生じた流れの変化で風が起こる。首筋に喰らいつく素振りを見せた魂は一瞬で見えぬ塵と成り果てた。
 ──余計なことを。
 眉を寄せ、シドニーは薄く笑う。何食わぬ顔で力を使った男はやはり何も言わない。
 何も告げることなく。逡巡することなく。
 自らの直感によって男を「後継者」に仕立て上げたシドニーは、崩壊後改めて知ったのだった。
 それがリスクブレイカーとして暗躍した過去を持つアシュレイ・ライオットの自然なのだと。
 その「自然」はシドニーにとって最も遠いところにあるものだった。魔都の崩壊は己の決断の甘さに起因した。決断を常に先延ばしにしていた心の曖昧さが。
 笑みは、自嘲の形に歪められた。
 上げた顔にその笑みを張り付かせたまま、高く切り取られた窓を仰ぎ見る。雨は今宵も降らず、天空には昨夜より幾分細くなった月が。
 そして、沁み渡るように響く波の音。
 器を離れた饒舌なる魂を静寂の波に漂わせ。
「海か」
 気がつくと言葉は口から零れていた。
「……この場は海に近いのだろう?」
 凭れかかっていた壁から身を起こし、目線を元に戻しシドニーは問いかけた。
 何らかの意味を含ませた訳ではない。むしろ、どうでもいいことのように呟いただけ。
 返事がほしいのではなかった。
 だが、彼の呟きにアシュレイは顔を上げた。先程と同じ感情を表さない顔つきで頷く。
「街の南西だ。森に近い……。波音が聞こえるか?」
 逆に問い返される。
「ああ」
 僅かにでも感覚を研ぎ澄ませば波音は高く耳を打つ。幻聴とも思わせるその調べは遠く微かなものにも今は感じられたが。
「聞こえる」
 再びこの街の地形を思い起こす。
 地形の記憶は常に大聖堂から眺めた景色。崩れかけた大聖堂を昇り、屋根裏の窓から毎日のように変わらぬ風景を眺め続けた。
 何も変わることのない、だが少しずつ風化していく街を。
 そして海を。街は海に囲まれるように存在していたから、視界にはいつも海が入った。
 ──街の南西。森に近い場所。
 アシュレイが告げた内容をシドニーは反芻した。
 この場は確かに海に近く、波の音は現実のもの。
 また降り積もった事実に今度は少しばかり安堵する。そうして同時に胸には苦いものが沈んでいった。
 「今」というこの時は夢幻などではなく現のもの。戻ることの許されない確かな空間だ。
 ──時は自分に何をさせようというのか?
 波の音に消されかけた問いが事実に押されて浮上する。しかし、未だ答を持たぬ魂は声を発することも適わない。
 幾多の事実が浮かんでは消える。繰り返される波音が円環を生み出す。
「……」
 空間を支配し続ける沈黙にシドニーは目を閉じた。

 瞑目すればその分感覚は鋭いものになる。
 波の調べは遠く、だがはっきりと耳に。
 流れていく。
 流されていく。
 そればかりが心を捉えていく。

 ──そうして彼は、過去を見た。