Scene 4
人は何に幸福を見出すのだろうか?
何のために今を生きるのだろうか?
そして、何を残せるだろうか……?
その日は、朝からよく晴れていた。
ほぼ数日ぶりに牢から出ることを許されたオーランは、その眩しさに目を細めた。
何も変わらない空の青さだ。
穏やかな……、現の世を表しているかのような光景。
しかしその実、雨の日も、嵐の日も。空は様々にその顔を変える。
まるでこの世のように。
「手を」
無表情のまま刑吏が皮紐を見せた。刑場までの護送のために一つ手に縛られる。その様子を司教や審問官が幾重にも取り囲み、監視する。
やがて、行列は動き出した。
先頭は槍兵。その後を黒布で覆った聖旗。
オーランはそれに続いた。
それから世俗の役人達。異端審問の幟。最後尾には審問官がつく。
ただひとりのみの「処刑」にしてはいささか大袈裟な規模だが、見せしめとしての要素が多分にあるのだろう。オーランは冷静に分析した。
長の戦乱において、弱まっていた教会の権力を誇示するための。
人々を再び引き付けるための。
そうしてまた力を貯えるのだろうか。人にとって隠れた脅威となり続けるのだろうか。
クレメンスの街を行列は進む。
民衆はこの突然の出来事をいったい何事かといったように眺めている。隠蔽と誇示。奇妙な対照。
憐れみ。嘲笑。怒り。哀しみ。
様々な色が数多の視線に含まれている。
前だけを見、淡々と歩を進めながらオーランはそれを感じていた。
人々は知るだろうか。
己の信ずるものこそが、己を叩き落とす存在であったことを。
知るだろうか。
それを食い止めるべく闇へと消えた者達の存在を。
光はすなわち未来。今自分のいるこの闇は過去。
──故に自分は。
行列が止まった。
広場となっている周りを民が囲んでいる。行列は人の波を割り、オーランはその中央に引き出された。
刑場に着いたのか、そうも思ったがそうではないらしい。
だが、中央に積み上げられた何かを見、彼は僅かに眉を動かした。
乾いた薪に抱かれるように、その場にあるのは自身の書達。
白書だけではなく、今まで長の月日をかけ書いてきた、いわば結晶のような。
付き従っていた司教がひとり、進み出る。恭しい素振りで火種から火を取るとオーランに向き直り、司教はにやりと嗤った。
嗤った。
しかしそれも一瞬のこと。火の点いた藁が燃え尽きる前に、司教はそれを投げ入れた。
瞬く間に燃え広がる。半刻もしないうちに灰と消えるのだろう。
星の彼方の物語も。
歴史の闇も。
──だが、今ここでこうして燃えたことは史実に残る。
故に、軋む心を敢えて無視しオーランは微笑んだ。
再び行列が動き出した。今度こそ刑場へ。
すべての終着へ。
道行きの途中、ひとりの老婆がまろび出、役人の制止も聞かずオーランを指差した。
皺の刻まれた薄い唇から溢れ出るは聞くに耐えない罵りの言葉。
「か……神様にたてついたからばちがあたったんだよッ!」
役人に取り押さえられた腕を振り解こうとして老婆は必死にもがいた。天罰を。災いを。足掻きながら吐き出される呪詛をオーランは黙って聞いた。
心が揺れることはない。
どのような言葉を聞いても心はこのまま、不思議に穏やかなのだろう。それは、既に為すべきことをし終えたから。残すものを見定めたから。
逆に、行列を見守っていた民衆の熱は突如として膨れ上がった。老婆の言葉に同意を表す者は皆無。狂的になおも喚く婆の金切り声は虚空に浮いた格好となった。
だが、かといって、己を庇いだてする者が現れる筈もなく。
オーランは微笑んだ。
それでよいのだと思う。
表立って行動することはない。ある意味、これは茶番なのだから。
だが、憶えておいてくれ。この出来事の委細を。
ひとりの人間がこの道を選んだということを。そこから繋がる歴史の闇を。
混乱を引き起こした老婆は役人が連れ去った。どよめく民衆を置き去りに、行列は進む。
あのどよめきから種火は生まれるだろうか。
細い糸は無限のそれとなり、いつか織られる日がくるだろうか。
然程歩きもしないうちにオーランの視野に棒杭が入った。まもなく縛り付けられることになるのだろう、刑場の棒杭である。
周囲は桟敷席で埋まり、さらにその周囲を立見の群集が囲む。
恐るべき信仰の盛儀がそこにはあった。
「罪深き人の子よ」
勿体ぶった所作で先程の司教が進み出、オーランの罪を述べる。
声高に笑うように。「神」の福音を告げる者があたかも歓喜に打ち震えるように。
オーランは思うところもなくそれを聞き遂げた。
彼らは知るだろうか。
今こうして「罪人」を火に投ずることが後の世にどのような影響を及ぼすか。
歴史を動かすほどの力を持たなかった者が何に命をかけたのか。
知るだろうか。己が為したことを。
「心して聞くがよい」
平然としているオーランに何を思ったか、僅かに顔を歪めて司教は次の文句を放つ。
──何を期待しているのか。足元に縋り付き慈悲を乞うことを期待しているのか。
「汝が汝の為した考えより離れんと望むならば、我ら教会の課する償いを甘受することにより汝の罪は赦されるであろう。さすれば、汝は救いをまっとうして永遠の栄光にあずかることもできるであろう」
永遠の栄光。
悪魔の下僕となるのが永遠の栄光というのであれば、これはまさしく茶番だろう。
「償いを拒むならば、ただちに世俗の腕に付せられ、汝は肉体も霊魂も完全に失うであろう。汝はいずれを選ぶか」
司教の目がオーランを穿った。
数多のまなざしがオーランを射抜いた。
その幾多の視線を受け止め、同じ強さで跳ね返しながらオーランは無言だった。
肉体は失うだろう。
この魂も失うのだろう。
だが、どちらも元々永遠の存在を赦されてはいない。
繋ぎ止めるために無に帰さぬために人は人を失うのだ。
だが、たとえそれを失ったとしても。
「沈黙は肯か否か」
答えぬオーランに司教は問うた。
答は。
沈黙は。
「──
否」
答えると、何処かで溜息ともつかぬどよめきが広がった。
刑吏らしき男達が数人、オーランを囲む。司教が指示すると彼らはオーランを棒杭へと促し、縛り付けた。
足元で薪の転がる乾いた音。
刑吏が盃を掲げる。入っているのは毒入りの葡萄酒。
処刑とはいえ必要以上に苦しませないための。
「否」
だが、オーランはこれも拒んだ。拒み、前を見据えた。
自分はすべてから逃れない。傍から見れば権力に呑み込まれた、先を見ることのできなかった愚かな人物だろう。だが、それこそが自分なのだと。
言葉が甦る。暗い石床に落ちたあの言葉。
『お前は何故、あれを書いた?』
落ちたのは、この国を統べる者の言葉。彼もまた歴史の裏を正確に知る数少ないひとり。
『これがあるという史実を残したかったのさ』
自分はそう語った。
教会によって生を断たれようと、この書が焼かれようと。
公会議という言葉通り公の場で起きたことは歴史に残るから。
闇に葬り去ることは不可能なのだから。
今こうして、数多の民の前で行われていることは。
確実に、未来へ。
藁が積み上げられる。直にではなく、囲むように積み上げられたそれによって視界は切り取られた。
液体の零れる音。
だが──。
だが、それだけではない。オーランは思った。本当は、そのような打算的な考えのみであれを書いたのではなかった。
戦乱の終結前後、己の胸には焼け付くような焦りが。
闇に消えた者の墓の前で無力さを噛み締めた。
自分は願わくば、あの者達と共に行きたかったのだ。
置かれている立場と役目を考えたのだとしても。
しかしそれは叶わず。この国の──、この世界の真の秩序を守ろうとした者達は闇へと。
世は何も変わらずすべては闇へと。語る者はなく、そうしてひとつの円環が。
これでよかったのだろうか。自問する。
これで終わったのだろうか。答は「否」。
短い祈りが告げられた。刑吏によって火が投じられる。
一瞬の間をおいて、火は自分を囲んだ。
残された自分のすべきことは隠された「真実」を後の世に伝えること。それが己にとっての最後の戦いだった。
己にとっての希みだった。
五年の歳月を費やし書き上げた書は先刻灰と成り果てた。そして今、己もまた。
──だが、ここでこうして燃えたことは史実に残る。
闇に消えた者達の物語も。
己の為し得たことも。
確実に、未来へ。
故に自分はここから呼びかけよう。いつか現れるだろう真実を知る者へ。
心のすべてで呼びかけよう。ここから未来の向こうまで。
煙を吸い込み、オーランはむせた。まだ火は届かない。あたりは煙で満ち真白の世界。
かすむ視界の先、白以外の何かを探そうとして顔を上げた。
切り取られた空の色は青。深く吸い込まれるような蒼がそこに。
その蒼の中にぽつんと白い光が浮かぶ。
「あ……」
光は次第に鳥の姿をなした。目をこらすと、飼鳥が切り取られた空を旋回している。
──来たのか。親しき者達のかわりに。
オーランは微笑んだ。身に迫る熱さは不思議と感じなかった。
陽の光を受け、鳥はあたかも白い火のよう。
空に遠く浮かぶ白い火。
──連れていってくれるか。
この場から空の彼方へ。懐かしき者達のもとへ。時の向こうへ。
目はかすみ、もう何も見えない。何をも映さない。
だがオーランには見えた。鳥が僅かに翼を羽ばたかせるのを。
瞬間、心は地を離れた。
薪はこの世の劫火。
硫黄は地獄の劫火。
炎は今や火刑台をすっぽりと包んでいた。
風の流れからか、かすかに煙が鼻をつく。
ディリータ・ハイラルは教会の用意した桟敷からしばしその様子を眺めていた。
時折、小さく爆発らしきものが起きる。藁にしみこませた油に引火したのかもしれない。白い煙が僅かに黒くなる。
この場に立ち会う必要はもはや、ない。
立ち上がり、踵を返した。
すれ違いざま、背後に付き従っていたルークスにディリータは手にしていた何かを渡した。
それは一冊の書。
──後に、デュライ白書と呼ばれるもの。
火中に投じられたはずの書は、何故かディリータの手中にあった。
ルークスは書を受け取ると主君へと向き直った。その瞳に宿るのは幾許かの輝き。
あの男の信念の破片を受け継いだかのようなまなざしをディリータは静かに受け止めた。
「私は、あの方を尊敬しておりました」
「──そうか」
側近の告白にディリータは僅かに肩の力を抜いた。そうして、そのままこの場を去ろうとして不意に振り向いた。
炎は勢いをいや増し、煙は空高く立ち上っている。
煙の先に、何かが見える。
蒼い空に遠く遠く白い点のようなものが見える。
──光? いや、あれは鳥。
白煙と戯れるかのように、慈しむかのように一羽の鳥が上空を旋回している。
群れをなさず、ただ一羽。
陽の光を受け、鳥はあたかも白い火のよう。
或いは天高く駆けのぼる魂の姿か。
空の彼方へ。時の向こうへ。
白い火は蒼く遠い空に淡く溶けた。
<終>