Scene 3
この静けさ。何かに似ているな……。
地下牢へと続く螺旋階段。そこを誰かが下りてくる足音を確かに聞きながら彼は思った。
足音は一人のものではなかった。そしてそれは単調に延々と続いていく。
ついに、か。
石段に響く音。それ以外に聞こえるものは何もない。耳を刺す静寂。
「……」
次第に足音が近づく。彼には、その足音が誰のものであるか予測がついた。ついたが、そちらに目をやるつもりはなかった。
螺旋階段を下りた者の足音がそのまま、顔を上げない彼の牢の前へと近づく。足音は一人のそれになっていた。
──為すことは全てし終えた。為したことを悔やみはしない。
彼の前で足音が止まる。そうして足音の持ち主から彼への視線。
……? ……まさか。
視線は、彼が予測していた者のものではなかった。それとは違う……絶対にこのようなところに現れるはずのない、現れてはならない者のそれに似ていた。
静寂に似た、刺すような視線に彼は、それでも顔を上げなかった。
だが。
「……いい格好だな」
──聞き覚えのある、声。
「……!」
牢越しの人物から発せられた言葉に彼はついに顔を上げ、その者を凝視する。今は黒にしか見えない黒茶の髪。信念の塊のような瞳。その者が持つ禿びた蝋燭の光だけが牢の外の人間を照らし出していた。……そして彼のことも。
禿びた蝋燭……それは螺旋階段の長さを物語る。そうして、彼の「罪」の重さを告げる。
「何故……」
茫然と彼は声を出した。長いこと出していなかったために、出てきたのは掠れ声。
しかし、牢越しの男は彼の問いを無視した。視線を外し、螺旋階段をちらりと見やる。
足音が聞こえる。ゆっくりとそれは遠ざかっていく。……そして再び訪れる静寂。
「何故、と訊いたな」
地下牢のあるこの階──教会の最下階──を再び支配しかけた静寂が少しずつその帳を上げはじめる。まるで彼の……いや、彼らのために用意された幕引きのように。少しだけ。
男は燭台を側にある古ぼけた机に置き、それから胸の隠しを探った。男が身に纏う服は簡素なものではあったが、質の良いものだった。男はその服の隠しを探る。
「ああ、訊いた……。……ディリータ……」
彼が答えるのと同時に、男の手が止まった。何かを探り当てたようだった。
その動作を彼がじっと見つめる中、男は軽い金属音をたて、それを取りだした。
「……?」
牢扉の鍵穴に男はそれを差し込む。かちゃかちゃとそれに続く音が耳に障る。数秒の後、鍵が外れる音がその空間に響いた。
男は再び取り出した鍵をしまうと、ゆっくりと扉を開けた。耳障りな音をたてないように。
「出ろ、オーラン」
彼に対面したときから少しも表情を変えずに、希代の英雄王ディリータ・ハイラルは牢の住人オーラン・デュライにそれだけを言った。
逸らしていたはずの視線は、いつのまにか静かにぶつかりあっていた。
風に流され筋状に伸びる雲も。
陽の光に色濃く反射する海も。
時折姿を見せる仲間達さえも、彼の視界には入らない。
鳥が飛ぶ。
懐かしき地を目指して。
鳥は行く。
すべてを見届けるために。
「……どういうつもりだ?」
「見てのとおりだが?」
ディリータは肩を竦めてオーランを眺めやった。その口の端には笑みが含まれているように見えるが、こう暗くては分からない。
だが、纏う空気はあくまで人を探るもの。
かつて、ゼルテニアの城で対峙した頃のそれとは大分違う。
為政者のそれ。おそらく、彼の親友であった者とはまるで逆の。
聖堂で感じたのと同じもの。
何をもって彼はこの場に来たというのか。オーランは素早く考えを巡らせた。
「異端者」に対する憐れみなのだろうか。
答は出ない。故に彼は問うた。
「……『これ』は誰の意思だ?」
頭の何処かが訊くまでもないことと警鐘を鳴らす。
──いかにも彼がやりそうなことではないか。
「教会でないことは確かだな。世俗の腕でもないということも確かだ」
ディリータは再び肩を竦めると、オーランに背中を向けた。
オーランはその後ろ姿を牢越しにじっと見据える。
思い出すのは、雷鳴。ゼルテニア城の夜。
あの時と纏う空気こそ違うが、状況はまるで同じ。
奇妙な既視感。
戦が混迷を極めるさなか、自分は単身ゼルテニア城へと乗り込んだ。義父の嫌疑を晴らし、闇に消えかけていた者の無実を証明するために。
その時対峙したのが、目の前にいる男。
闇から闇へ。すべてを歴史の裏で処理し、ひとつの円環を生み出した人物。
状況は同じ。
オーランは立ち上がった。壁に凭れ、ややはっきりとした口調で言葉を繰り出す。
「……一国の王がこのような場所でそんなことを言うとは。──死刑執行人であるお前が」
言葉に、ディリータは三度肩を竦めた。
まるで感情を表す術がないかのように。
それは、何処か人としての情が欠落しているようで危うく見える。
だが、彼がそれを変えることはないのだろう。変える機会は既に逸してしまった。
ディリータの背に、オーランはそんなことを思う。
「……裁いたのは俺ではない。自身で自身を裁いたのだろう?」
ディリータが振り返った。
底冷えのする、目。
「己が裁いたのだ」
その瞳のまま、彼は繰り返した。それこそが数刻前、部下に問われた時の彼自身の答であることをオーランは知らない。
故にオーランはこの言葉に是とも否とも応えなかった。もっとも、ディリータもまた応えなど要さなかったのだろう、オーランと同様、壁に凭れるとそれ以上問うような所作は見せない。
だが──。
オノレガサバイタノダ。
言葉は奇妙に胸の中へ。
「ときに」
蝋燭の炎が揺れ、ディリータの表情に陰影を付ける。湿った空気を掻き混ぜるように彼は別の問いを投げかけた。
開かれた扉が人を通すことはない。
「お前は何故、あれを書いた?」
軽く爪先で石床を蹴る。
こつこつという規則正しい音が狭い空間に響いた。
「先を見通す力がなかったわけではないだろう。逆らわずにいればこのようなことにはならなかった。──それなのにお前は何故波風を立てた?」
歴史の裏を正確に知る者の声だ。そうしてひとつの円環を生み出した者の。
オーランはひとつの答を繰り出した。
「これがあるという史実を残したかったのさ」
「……名を遺したかったということか」
何故か嘆息まじりの言葉にオーランは反応を示さなかった。
開かれた扉はそのままで。
──そう見えるのならばそれもいいだろう。
心の内でオーランは応えた。為したことに対して他人の目はもはや気にする余地もなく。
「『彼ら』の記述は残しておかなければならない。誰も為し得ないことで名前を遺すのならば、それも良いだろう?」
闇に紛れた者達。歴史の裏を歩んだ者達。
ディリータが僅かに表情を動かしたのをオーランは見た。
『彼』の名を口にしなかったのは単なるディリータへのあてつけだ。
歴史の裏を見ながら己の保身を優先させた男への。
無論、彼の存在なくして戦乱は未だ終わらなかった。これもまた分かりきった事実。
「──そうか」
反動をつけ壁から離れる。その僅かな動きに空気が揺れた。
残り少ない蝋燭の火が揺れる。
「それがお前の選んだ答か」
固い足音をたてディリータは階段へと。振り返ることなく彼はその場を後にした。
扉は開かれたまま、誰も通さず。
自分が今、この扉を通ることはない。
すべてを史実に残すためにこの場を通ることは。
足音は単調に延々と続く。それは己の為し得た「真実」の重さ。
扉は開かれたまま、誰も通さず。
蝋燭の火は闇にかき消えた。