真夜中の訪問者

 草木も眠る丑三つ時。
 石畳の廊下をひたり、ひたりと足音が響く。
 十歩くらい進んだかと思うと、足音は止まった。それから続く、何かをおろすような音。
 少しして、また足音が響き始めた。
 じじじ、と音を立て石壁を照らし出す蝋燭にも目をくれず、その人物は誰もいない部屋へと足を踏み入れた。
「……」
 あたりを探るように人影は見渡した。幸い、今夜は新月。もし見張りの兵がいたとしても姿を見られるようなことはなかっただろう。部屋の中に入ってしまうと扉を閉め、明かりを点ける。
 目の前に広がるのは大きな鍋、フライパン、流し。それから薫製肉。
 ここは、本拠地の厨房。城にいる全ての者の胃袋のための空間である。
「よし」
 持ってきた荷物を降ろすと、「彼」は腕まくりをし、荷物に向かい合った。やっとの思いでひっくりかえすと中から近くの街で買ってきた野菜やら肉やらがどさどさと出てくる。
「と、その前に……」
 ふと思い出し、ぱたぱたと流しまで走ると、手を洗った。準備はこれで完璧である。
「うまくいくかどうか、わかんないけどね」
 彼は、自分の顔より大きなボールを取り出すと、持ってきた野菜の中からたまねぎを取り出し洗いながら、呟いた。
 彼の名はリューイ・マクドール。解放軍のリーダーであり、トラン湖に浮かぶミルフォード城の若き主は、親の敵のように膨大な量のたまねぎの皮をむき始めたのだった。


 次の日。
 その日は戦闘や作戦、訓練などもなく、解放軍のメンバーにとっては久方ぶりの休息であった。いよいよ迫る決戦の時を前に、リーダーであるリューイが休みにしたのである。
 当然、食事時にもなれば、こんなに城の中に人がいたのか、と思ってしまうほどに食堂は人で溢れかえる。その様子はさながら春の学生食堂とでもいうべきだろうか。あの時期はまだ何も知らないで毎日学校に来る新入生でとかく混み合う。
 食堂はそんなわけで、昼食をとろうと城のあちこちから出てきた者達でごったがえしていた。が、やはり休みの日ということもあってその格好は様々である。
 いつもと同じように服装をととのえている者。いかにも今起きました、と顔に書いている者。逆にこれから街へ繰り出そうとしているらしい者etc。
「さて……」
 そんな中でクレオは昼食を乗せたトレイを手に、あたりを見回していた。
「どこか、座れそうなところはないものか……な」
 と同時に、彼女はその幼い頃からよく知っている少年を目で探していた。が、この食堂はあまりにも広く、後ろの方は霞んで見えるほど。少なくとも自分が分かる範囲にリューイはいなかった。
「クレオさん?」
 そう後ろから声をかけたのは、やっぱり今日も上から下まで青ずくめなフリック。彼もまた席を探している様子である。クレオは苦笑して彼に応えた。
「席……なさそうだな」
「そうですね……。まあ、探せばあるかもしれないし。少なくとも絶対にあそこは空いている」
「?」
 フリックは人込みをかきわけながら器用にトレイを運び、クレオを手招きした。
「ああ、なるほど」
 フリックの指し示した先を見て、クレオは苦笑した。その先にいたのは、多分解放軍の中でもおそらく食欲を争わせればトップクラスのビクトールとパーンである。
 要するに、フリックはそのふたりの前に並んでいる皿をどかせば、座るところが出来るだろう、というものだった。確かにそうでもしないかぎりこの人込みの中で席を探すことは出来ない。
「いつもながら……すごい食欲だね」
 皿をまだ食べているパーンの方にどかしながら、クレオは呆れた。
「今日は休日でやることもないのに。食べ過ぎじゃない?」
「休みの日のメシはまた格別だ」
 そう言ってパーンはおそらく五杯目になるだろうカツ丼に手をつけはじめた。
「おまえも……ほんと、よく食うよな」
 一方、フリックも隣で盛んな食欲を見せているビクトールを呆れ顔で眺めた。見ているだけで胸焼けがする。
「んな呆れ顔で見るなよ。俺たちゃ体が資本だろうが」
 そう言いながらビクトールもまた、六枚目のステーキに手をつけた。
「あんたの場合は食べ過ぎ。その分動いてるからいいんだろうけどね」
「……ま、くまだからな」
「それ言ったらパーンはライオンだからね」
 スプーンを手にしながらクレオは笑った。パーンより食べる輩はこれからもいないだろう、と思っていた矢先に会ったビクトールにその考えを変えさせられた彼女である。
 くまとライオン。
 他にどんな形容があるんだろうか、このふたりに。
 それだけであとはもう何も言う気もしない人並みの食欲を持つふたりだった。
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
 フリックが手をあわせるとぺこり、と誰にするでもなく頭を下げた。クレオも同じような仕種をすると、シチューにスプーンを運ぶ。
「ん?」
 ひとくち、シチューを食べてクレオは首をかしげた。どこかで、食べたことがあるような味だと思った。
「どうかしたか?」
 ようやく食べ終えて、満腹満腹、と腹をさすったパーンを無視してクレオはもう一度シチューを口に運んだ。
「……フリック。このシチュー、どこかで食べたことがないか?」
「どうしたんだ、クレオ?」
「シチュー?」
 フリックがクレオと同じように首をかしげ、自分のシチューを見た。一見何の変哲もない、ただのシチューである。
「シチューがどうかしたのか?」
 パーンと同じようにあれだけの量をぺろりと食べてビクトールも不思議そうな顔をした。
 彼もステーキ七枚のほかにシチューを頼んでいた。しかし、その皿はすでに空になっていた。何もシチューについて感じなかったらしい。
「シチュー、どうかしたか。普通だったぜ?」
「……俺もそう思うけど。ただちょっとスパイスの使い方が独特だよな」
 フリックのコメントにクレオは肯いた。パンをちぎって口に放り込み、この味について考える。
「そうなんだ。いつもの味と違うんだ」
「?」
「だけど、考えすぎだと思うけど……なんてったってシチュー担当はあのレスターだし」
 なんとなく、クレオが何を考えているか分かるような気がして、フリックは言った。
 食べたことのある味でシチュー、といったら現シチュー製作者の他にはひとりしかいない。ただし、その男は既に鬼籍に入ってしまっている。作ろうと思っても作れるはずがない。
「……そうだよな。考えすぎかもしれない。でも、懐かしい味だ」
 多分、今日は作る者が違ったのだろう。そうクレオは思った。


 資金繰りの戦闘が行われた次の日も昼食ないし夕食にはシチューが出た。
 しかも、クレオが懐かしいと思ったあの味で。
 そして次の日も。
 更にその次の日も。
 味は次第に、そして確実に前によく食べたことのあるものに近付いていった。
 一方、彼女の主は朝が何故か極端に弱くなっていた。


「おかしい、な」
「確かに」
 一週間後。前と同じようにフリックとクレオは夕食の席を共にしていた。ただし、今日はビクトールとパーンがいない。彼らは腹が減ったとわめいて夕方にもう食事をすませてしまっている。今ごろきっとビクトールは飲んでいるだろうし、パーンは夢の中だろう。
「何が?」
 かわりに隣にいたテンガアールが、変な顔をしているフリックとクレオを眺めた。彼女のトレイにもシチューが乗せられている。
 彼女の隣にはヒックスがいた。あいもかわらずにテンガアールの尻に敷かれていることが一目瞭然である。
「いや、ちょっとな」
 曖昧にごまかして、フリックはシチューを口にした。そうして、目の前のクレオと目配せをする。
「シチューがどうかしましたか?」
「テンガアール。このシチューの味、どこかで食べたことある?」
 大体の確信が得られたので、あとは普通に食べながらクレオは聞いた。テンガアールは即座に首を振った。ヒックスも同様に知らない、という。
 ──知る訳がない。二人がこのシチューを食べられるわけがない。
「でも。おいしいですよね?」
「戦士の村じゃこんなシチュー作れる人いないんじゃないのかなあ」
「だろうね」
 最後の言葉はフリックだった。彼も味にうるさい方とはいえない。しかし、戦士の村で作られるシチューとはどこか違う、垢抜けつつも素朴な味のシチューなのだった。
「私もしばらくぶりにこの味に出会った」
「しばらくぶり?」
 戦士の村の現住人二人が瞬きした。
「懐かしいというほど時間は経ってないけどな」
「?」
 苦笑と寂寥をまぜごぜにしたような顔つきをしながら、トレイを下げようとフリックは立ち上がった。他の三人も食べ終えてしまったので各自片付けに入る。
「ねえ、どういうこと?」
 ぱちぱち、と瞬きをしてテンガアールがクレオに聞いた。シチューが一体どうかしたのか、という顔をしている。
「ちょっとね」
 クレオは目を少し細めた。
 しかしそれは一瞬で、すぐにまた姐御肌の表情が顔に浮かぶ。
「フリック」
「はい?」
 少しだけ考えてクレオは、伸びをしながら立ち去ろうとした青ずくめの青年に声をかけた。
「この謎を解いてみようとは思わないか?」
 懐かしすぎるこのシチューの味の謎を。
 それは謎というにはあまりにも簡単すぎる、かつ切ないものだけれども。
「ああ……それはいいかもしれない」
 顎に手をあて、少しだけ考えてフリックは頷いた。
「え? 何何?」
 すかさずテンガアールが面白そう、とじゃじゃ馬ぶりをいかんなく発揮した。
「テンガアール、よしなよ。大事な話みたいだし」
「うるさいわね、ヒックス」
 止めようとしてテンガアールからヒックスは肘鉄をもらう。
「あんた達も来るかい? 夜中のミステリーツアー」
 猫のじゃれあいのような若者二人を眺め、笑いながらクレオは言った。
「え」
「はい!」
 テンガアールが即答したのはごくごく自然なことであった、かもしれない。