STARWALKERS - 追憶への前奏曲 -

 扉を開けて外に出ると、バルマウフラは目を眇めた。
 冬の間は同じ刻限でもまだ真っ暗だったが、ここに来て太陽はようやく朝寝坊を止めたらしい。見れば、その位置も冬と比べて随分と高くなっていた。
 無彩色だった陽射しが仄かに色を帯び始めている、とそう思う。そんなふうに思うのは、目の前に広がる光景が冬と今とでは違うからだろうけれども。
 枯木立に雪が寝そべっていた冬は終わった。新緑の季節には早いが、森へと向かう小道の左右をよく見れば其処此処に春の使者が訪れているのが分かる。
 黃水仙。クロッカス。スノーフレークにヒヤシンス。ブルーベルにはまだまだ早いが、マグノリアのつぼみはもうだいぶ膨らんだ。
 もう少しすれば、一斉に他の草木も目を覚ます。それらの色を受けて、陽光は春の色になるのだ。
「……まだかしらね」
 花の名前や季節の移り変わりを自分に教えた男がやって来るのを、バルマウフラは戸口で待っていた。家の中にちらりと目を向けてみると、玄関からすぐ続く居間には誰もいない。人の気配が感じられないその空間はなんだか奇妙に思えて、バルマウフラはそっと視線を外した。
 そうして今度は耳をそばだてる。すると、物音がかすかに聞こえてきた。
 ──いったい何をしているのやら。
 一緒にいると溜息ばかり出てしまう、と思いながらもいつものようにバルマウフラは溜息をついた。腕のなかの幼子を抱え直し、音の源へと向かう。
 居間を抜け、さして長くもない廊下を進んでいく。何かを動かしているのか、あるいは探しているのか、物音は書斎のほうから聞こえた。
「何をしているの?」
 薄く開いていた扉から書斎へと入り、バルマウフラは待ち人に声をかけた。
「探しもの? 地図なら鞄に入れていたのを昨日見たわよ……ってこれは何」
 彼女にとって待ち人であるところの男──、オーランはその言葉に顔を上げた。腰に手を当てて少し困ったような笑みを浮かべる彼のもとへ歩み寄りながら、バルマウフラは部屋を見渡した。
 机の上には何冊も本が積み上がり、ペーパーウェイトでは押さえきれないほどの紙束がその横に広がっている。開けられたままのインク壺はつい今の今まで書き物をしていましたと言わんばかり、書棚を見やれば机に出した本の影響で他の本も雪崩を打っているという──、なかなかの惨状ぶりだった。
「思いついたことを書いていたら、こうなってしまったんだけどね」
 言い訳がましくも聞こえるオーランの言葉に、バルマウフラは頬を引きつらせた。彼はおそらく正直に言っているのだろうが、聞きたいのはそういうことではない。
「……今から旅に出るって人がやることじゃないわよね?」
 低くなってしまった声色はそのままにして、確認するように訊いてみる。その口調にも表情にも感じるところがあったのか、旅装のオーランは神妙に頷いてきた。
「昨日、すっかり片付けたわよね。大事な書類はしまって、鍵をかけて」
 さらに確かめる。バルマウフラの言葉に、こくこくとオーランは頷いた。
「どうしてそれが全部元に戻っているの……」
「忘れてしまったら大変だろう? だから書き留めて……。……勿論今から片付けるから!」
 パチ、と部屋の空気が不穏な音を立てたのを聞いたのだろう。火花が出る前にオーランはそう宣言すると、机上の本を揃え始めた。
「君はそこに座っていて」
「当たり前よ」
 オーランの言葉を待つまでもなく、バルマウフラは気に入りの椅子に腰掛けた。バタバタと派手な音を立てながら部屋を片付けていく男を見、それから我が子を見やる。
 突然の大きな音に驚くかと思ったのだが、子はきょとんとしていた。そのうち視線を感じたのか、小首を傾げてこちらを見上げてくる。いったい何があったの、と問いたげな瞳の色は、自分のそれとは同じではない。
「お部屋を片付けない悪い子……。子じゃないわね、人には雷が落ちるのよ」
 おどろおどろしい物言いでバルマウフラが語って聞かせると、きゃあ、と子は嬉しそうに声を上げた。分かっているのかいないのか、何がそんなに嬉しいのか。予想外の反応に、バルマウフラは子と同じように首を傾げた。
「雷は綺麗だからね、きっと見たいんじゃないかな?」
 インク壺を閉め、ペンを片付けながらオーランが言う。
「じゃあ、見せましょうか?」
「今は……、いや、僕相手の雷はいつでもご遠慮願いたいかな……? 氷も炎も程々に」
「そう思うなら早く片付けることね。素早く、綺麗に、元通りに」
「……努力するよ」
 突き放すようにバルマウフラが言うと、オーランは苦笑いで応えた。まとめた書類を机の引き出しにしまい、鍵をかける。
 ぐるりと部屋を見回した男の素振りを合図に、バルマウフラもまた部屋を見回した。書棚の本の順番はきっとめちゃくちゃなのだろうが、細かいことを言うと時間が足りなくなる。仕方ない、と割り切って立ち上がった。
「あとはやっておくわ。貸しひとつね」
 子が父に向かって手を伸ばしたので、バルマウフラはオーランに子供を渡した。
「有難い。……しかし、心配だな」
「……まだ言ってるの?」
 慣れた手つきで子供をあやしながらこちらを心配そうに見てくる男に、バルマウフラは呆れ顔をつくった。
 ──いったい何度目のやり取りになるんだか。
 旅に出る前の男はいつもこうなのだ。
 留守の間に何かあったら、と膨らんでくるらしい不安を男は隠さない。秘匿している書類や本などはどうでもよくて、家族の身に危険が及びでもしたら──。そんなふうにつらつらと話す男を初めの頃は好ましく思っていたが、今となってはすっかり聞き飽きてしまった。
「夕方にはアレッタが着くわ。腕っぷしでいえば、彼女のほうが貴方より断然強いわよ。この前の武闘大会でも準決勝まで進んだんでしょう?」
 顔馴染みの名前をバルマウフラは挙げた。
 アレッタは「支援者」から送られてくる「仲間」のひとりだった。拳闘士としての実力を認められた彼女は、先の戦ではとある貴族の要人警護に就いていたらしい。戦が終わってその任は解かれたのだが、彼女の実力を高く買った貴族は次なる「仕事」を彼女に与えた。
 そのうちのひとつが、この家の警護だった。
「そうらしいね。いや、アレッタに不満があるというわけじゃないよ。彼女を手配してくれているアクチノラ伯にも……。でも、ほら」
「理屈じゃない、そう言いたいのね?」
 バルマウフラの言葉に、オーランが苦笑する。
「駄々をこねているというのは分かっているんだ。そして、僕の代わりに最良の助っ人がいてくれるというのも、分かってる。君達が健やかにいてくれるだろうってことも。……でも、心配なのはそのままで」
 眉尻を下げた男が心細く見え、バルマウフラは一歩近寄った。手を伸ばし、オーランの両頬を軽く叩く。
「私を信じなさいな。そして、アレッタのことも、他の「仲間」のことも。……大体、貴方のそれは「心配」じゃないわ」
「バルマウフラ?」
「単に「寂しい」のよ、貴方の場合」
 そうでしょう、と念を押すようにバルマウフラは笑んだ。
「……そう、だね。寂しいな」
 感情の根の部分を言い当てられたらしいオーランは、素直に頷いた。子を抱えたまま背を折り、バルマウフラに口づける。
「まったく、それでどうやって……」
 口づけを甘んじて受け入れたバルマウフラだったが、盛大にぼやいてしまうのは止められなかった。
 ──まったく、本当に、それでどうやって。
 いつものぼやきなのだろうと男には思わせておいて、バルマウフラは心の内でさらに呟く。
 ──寂しい、だなんて。
 この想いに行き当たると苦しくなるから、普段はあまり考えないようにしているが──。
 オーランの感情は矛盾している、とバルマウフラはこんなときよく思う。真実を明らかにするために教会を相手にして戦おうとする姿と、その戦いには弱点ともいえる自分達に接する姿。どちらも確かに彼の本質だと今では思うが、本当はいずれかを切り捨てたほうが彼自身の心の安寧に繋がるのではないかと思うのだ。
 自ら死を選びながら──現れ始めた「支援者」達がいようとそれはきっと変わらない──、こうやって日常を楽しみ、心から感情を表す。寂しい、だなんて言い出せる。
 不思議な男だとバルマウフラは思っていた。そして、身勝手な男だとも。
「できるだけ早く帰るから」
 自分のためにも、君のためにも、この子のためにもね。
 オーランの言葉に、バルマウフラは自分の心を切り上げた。首を横に振り、指を勢いよく男の顔の前に突きつける。
「そんな言葉は要らないわよ。しっかりと、確実に……もう一度、だなんて言うことのないように時間を使って。慌てて良いことなんてひとつもないんだから」
「そ、そうだね」
 再び説教の態勢に入ったバルマウフラに恐れをなしたのか、オーランが引きつり笑いで背筋を伸ばした。
 聞く姿勢をとったオーランにバルマウフラは大きく頷く。
「必要な文献が足りなかった、そう言ってルザリアに足を運んだのはもう何度目? ミュロンドのときもそうだったわよね。いえ、本とかだったら別に良いのよ。気付かれてしまったら処分されるだろうけれど、そうでないかぎりは逃げないわ」
 だが、そうはいかないものもある。
「でも、人は動くわ。ましてや、今度の相手は一発で仕留めないと駄目でしょう?」
「仕留めるって……。まあ、それはそうだけど」
 いつから僕はハンターに……などと呟くオーランをバルマウフラは無視した。
「貴方にとっては獲物そのものでしょうが。ずっと聞きたがっていたじゃない、ラムザの話を。本人から、直接」
 そうなのだ。
 今度の旅の目的は、ラムザ・ベオルブに会うことだった。翻弄されつつも自らの道を選び、この国を、世界を真に救った者──そして真実を見た者──に会う、それは成し難いとも自ら思いつつも男がずっと願っていたことだった。
 この国から静かに屠られていく「真実」を逃したくないとそう思い、事実をかき集め、そうして撚り始めたときから、ずっと。
 伝手の伝手のそのまた伝手を頼っても、「草」を放ってみても、一向にラムザのその後の足取りは掴めなかった。ラムザにしてみればしつこい追手がかかっていると思って隠れたのだろう。それは容易く想像できたが、オーランにしてみれば歯がゆいことこの上なかったに違いない。
 行方を探して、もうこの国にはいないだろうと諦めて。だが、ひょんなことからラムザと連絡を取ることができたのが、数月ほど前。
 会って話を聞きたい、そう打診すると、諾、とすぐに返事が来た。──そのときの男の表情といったら!
「じっくりと、気の済むまで聞いてくるのね。こんな機会はもう二度とないわ。貴方が直に「真実」に触れられるなんてことは」
「……ああ」
「城で王様とばったり出くわす、なんていう暢気な展開にはならないのよ」
「……まったくそのとおりだね」
 バルマウフラが畳み掛けると、降参、とばかりにオーランは片手を挙げた。その所作が気に入らなかったのか、あるいは喧嘩だと思ったのか、オーランの片腕に収まっていた子がむずがる。
 二人は同時に我が子を見つめ、溜息をついた。そうして生まれた妙な間の後に、どちらともなく苦笑いを浮かべる。
 さて、とオーランが呟いた。
「そろそろ行くよ。日暮れまでにはディジェットに着きたいからね」
「そうね」
 東に向かってちょうど一日で辿り着く街の名を出し、オーランは我が子を再びバルマウフラへと渡した。
 書斎を出、居間に置きっぱなしだった鞄をオーランが持つ。髪の毛を引っ張ってくる子を適当にあしらいながら、バルマウフラは男の姿をぼんやりと眺めていた。
 ──別に、これは最後なんかじゃない。
 いつもの、普段の旅と同じだ。ただ、今回は少しばかり離れている時間が長いだけで何も変わるところはない。
 なのに、何故か急に心がざわざわとした。
「まあ……、何かあったら鳥を送るわ」
 旅支度を仕上げたオーランの背に、バルマウフラはぼそりと言葉を投げた。常の声色で話したつもりが随分と暗いものになってしまったことに気付き、顔をしかめる。
 ──そんなつもりは、ないのに。
 男の「寂しい」が、移ってしまったのだろうか。まさか、と思いながらそう考えてみると、そんな自分はなんとなく滑稽に思えた。
「別に何もなくても送ってくれて構わないから。そのほうが安心できるよ」
 心のざわめきを気取られまいとバルマウフラが身構えるよりも前に、オーランが振り向く。バルマウフラの前まで歩み寄ると、彼はバルマウフラの眉間を軽く押した。
「バルマウフラ、寂しいときは寂しいって言うんだよ」
 優しい笑みを浮かべるオーランからバルマウフラは視線を僅かに逸した。だが、そうして逃げてしまうのも癪に思えて、すぐさま視線を元に戻す。
「……少しだけ、よ」
「そういうことにしておこう」
 頬同士が触れ、次いで口づける。子に引っ張られる髪の痛みとともに、バルマウフラはその柔らかさを感じた。



 静かな昼下がりだった。
 アレッタが着く頃までには一通り片付けてしまいたいと思い、バルマウフラは書斎に入った。寝入ってしまった子を揺籠に寝かせ、まずは書棚へと向かう。
 予想通り、本の順番はめちゃくちゃだった。中には上下が逆さまになっている本もあり、これには呆れるしかなかった。いくら急いでいたとはいえ、流石に少し酷い。
「本を大切にしない子にはメテオかしらね」
 傷んではいないか、と確かめながら一冊ずつ元通りに戻していく。幸い、どの本も無傷だったのでバルマウフラは安堵した。特別に譲ってもらった希少な本、世紀の大発見といわれる魔術書、城や教会に隠匿されていた議事録……。その他にも多様な本や書類が乱雑に置かれていて、短い時間でよくぞここまで散らかした、と妙に感心してしまう。
 没頭してしまうと、男は周囲が見えなくなる。すべてにおいて知識欲が勝ち、その末にこうした状況が度々生まれてしまう。その度にバルマウフラは怒ってみせるのだが、内心では諦めの境地に達しているのも事実だった。
 とはいえ、こうして片付けに手を貸すことはもはや滅多にない。以前とは違って、少しずつ「知らないほうが良いもの」が増えてきたからだ。──男がそう言った。
 書斎に入っても構わない。書棚や机を触っても気にしない。……ただ、できれば。
 言葉を濁しながらそう切り出してきたときの苦しげな男の表情を、バルマウフラは忘れられない。
 己が為すことを見ていてほしい。自分にずっとそう願っていた男が、ある日言った言葉。それは、バルマウフラが真実を知ることへの控えめな拒絶だった。
 何故、とバルマウフラは男に問わなかった。知りたい、とは言わなかった。
 すべてを見届けるためには知らないほうが良いこともあるのだろう。少なくとも、煩悶しながらも男が書き進めているうちは、きっと。そう、思った。
 だから、ただ傍らで見続けてきた。あとどれくらいでこんな日々が終わるのか──、終わってしまうのか、それは分からない。今ではないと思いつつも、いつかは終わる幻のような日々。
 そのときまでは、必ず見届ける。それは男と交わした約束でもあり、自分が望んだことでもあった。
 だが──。
 その前に、自分は何かを知るのだろうか。
 その前に、最後まで男を止めずに見届けられるだろうか。かつて感じた心が、男の信念を捻じ曲げてしまわないだろうか。
 そして、そのときが来たら……。
 ──分からない。
 唇の動きだけでそう呟くと、バルマウフラは手にしていた本の埃を払った。
 手が届くところに辛うじてあった書棚の隙間にその本を差し込む。書棚に置かれてあった本はそれで元通りになったが、机の上にはまだ数冊の本が置き去りにされている。
「動かさないほうがいいかしらね……。……あら?」
 バルマウフラは机上の書を眺めたが、見覚えのある本がふと目に入った。
 男の本ではない。自分の本だった。
「何かの拍子に紛れちゃったのね」
 自分のものならば良いだろう、とバルマウフラはその本を手に取った。片手にすっぽりと収まるほどの大きさのそれは、詩集だった。
 確か、旅の最中に買い求めたのではなかったか。そう思いながら本を開く。
 吟遊詩人でもなく、深窓の令嬢というわけでもないが、詩や物語といった類を読むのは嫌いではなかった。教会の退屈でどこか非現実的な教えとは違って、そこにはある意味において切実なまでの現実があると思ったからだ。……とはいっても、浮世離れした恋愛ものなどには興味がなかったが。
 好むのは、眠くならない程度の叙事詩。この本もそうだった。
 ──ああ、そういえば。
 バルマウフラは本をこの書斎に持ち込んだときのことを思い出した。季節を幾つも巻き戻さなければならなかったが、思い出してしまえばその記憶は案外鮮やかだった。
 ──あのときは、まだ二人だけだった。
 例の気に入りの椅子に座って本を読む、それは当時のバルマウフラの日常だった。別段何を話すわけでもないのにそれでもそこにいたのは、今思えば見張りのつもりだったのかもしれない、とそう思う。
 男はそんな自分を邪険にはしなかった。聞き足りないところがあるかもしれないから、と在室をむしろ求めていたくらいだった。
 そうして過ごしていたある日のこと。読み終えてしまったその本をバルマウフラは男に勧めた。息抜きにどうかしら、と。
 根を詰めていたのだろう、真顔のまま男は本を受け取るとパラパラと頁を繰った。
 その様子をバルマウフラは頬杖をついて見ていた。この手の話を男が好むかどうかもまだ知らなかったから、内心では緊張していた。真顔のまま閉じられてしまったなら自分は少しだけ落胆するだろう、そんなふうにも思っていた。
 だから。
 とある頁で男が手を止めたとき、バルマウフラは我知らず息を呑んだ。それをごまかすために何気ないふうを装って、何か面白いところがあった?と訊いてみると、男はゆったりと笑んだ。
『フォルサン・エト・ハエク・オーリム……』
 読み上げながら男が頁の一箇所を指す。今の畏国語でもなければ、古代神聖語でもないその言葉は、魔法の詠唱のようにも聞こえた。
『ああ、それね』
 それは、バルマウフラ自身も読み進めていたときになんとなく心に残っていた文章だった。男の傍らから覗き込み、男が指した箇所から数行先を指差す。そこには、外つ国の青年が呟いた言葉を女がこちらの言葉、すなわち畏国語で繰り返す描写があった。
 ──いつかこれらのことを思い出すことも、喜びとなるだろう。
 男は、噛み締めるようにその言葉を呟いた。それから、外の言葉でもう一度。
『いつか、喜びに……』
 バルマウフラもまた繰り返した。男が何を思ってこの言葉に目を留めたのか、それを思いながら──。
「……」
 辿った記憶に誘われるままに、バルマウフラは詩集を開いた。件の言葉があった箇所を探そうと頁を捲り始め──、紙片が挟まっていることに気付いた。
 予感がした。
 栞がわりにしたのかもしれない紙片が落ちてしまわないように、慎重にその頁を開く。思ったとおり、二人で読んだあの言葉がそこには書かれてあった。
 バルマウフラは言葉を目で追った。今こうしてみると、その言葉はあの頃よりも少し重たく感じられる。それはたぶん、時が進んだ分だけ終わりが少しずつ近付いているからだろう。別れという名の終焉が、少しずつ。
 ──思い出すことも、喜びに……。
 唇だけで呟く。言葉を、意味を、噛み締める。
 いつか、そうなる日が自分にも来るのだろうか。思い出し、懐かしさに笑みつつ、追憶を喜びとして表せられるだろうか。
 傍らで見ていた男がいないことを、受け止める日が来るだろうか。
 バルマウフラは咄嗟に首を横に振った。今は無理だ、と本能でそう思った。もう少し時間がほしい、覚悟ができていない、と心の深いところがそう叫ぶ。
 だが、いつかは。
「そう、ね……」
 深く息を吐き、どこか疲れた思いでバルマウフラは詩集を閉じようとし、手にしていた紙片に目をやった。
 四つ折りにした粗末な紙に何か書き付けてある。インクが乾いてから挟んだのだろう、幸いにも本は汚れていない。
 ふと興味を持ち、バルマウフラは紙片を開いた。盗み見するような真似に良心は咎めたが、それでも見たいと思った。
 紙の折り目を伸ばす。そこには、男の筆跡でこう書かれてあった。
人間は何に幸福を見いだすのだろうか?
何のために今を生きるのだろうか?
そして、何を残せるだろうか……?
「……本当に、馬鹿なんだから」
 それは、男なりの想いなのだろう。願いでもあるのだろう。あの言葉から、男は答をそう導き出した。
 己にとっての幸いを既に心に置いた男の言葉。
 文字をなぞり、バルマウフラは微笑む。詩集の言葉より、男の書き付けは何故か心に沁みていく。
 すべては、人それぞれで。
 男は、男の道を歩んでいく。
 自分は、自分の道を歩んできた。これからも、そうするだろう。
 バルマウフラは思う。
 もしかすると、二人の道は交わることもなかったかもしれない。そうすれば、こんな想いを抱えることもなかったかもしれない。
 だが、果たしてそれは自分にとって幸せなことだったのだろうか。
 バルマウフラは首を再び横に振った。今度はゆっくりと、己の想いに向き合いながら。
 そうして今度こそ詩集を閉じる。紙片だけを机に置き、詩集は書棚へと入れた。
 アレッタはもうじき来る頃だろう。
 揺籠で寝ている子を抱き上げ、とりあえず片付けた書斎を見回す。机にあった鍵を取り、書斎から出る。
 ──いつかこれらのことを思い出すことも、喜びとなるだろう。
 今はまだ無理だけど、いつかは。
 心の奥底に詩集と男の言葉を置いて、バルマウフラは書斎の扉に鍵をかけた。

あとがき

2020年6月に発行した「STARWALKERS」の再録作品です。公会議の前年くらいかなーと思っていますが、詳しい時期設定はありません。ただ、以前書いた拙作「Interval Interview」の前日譚(ほぼ繋がりはないですが)になっています。

オーランは結構部屋を散らかしそうなタイプだと思っています。獅子戦争版のどこかでアラズラムさんの部屋を見たときに「あんな感じかしら」と思ったのですが…アラズラムさんの部屋は「まだ」整ったほうだと思いますが、ご先祖様は「自分が分かればOK」なところがあるんではというのが私見です。で、バルマウフラさんは真逆かな。

話は変わりますが、エピローグムービーに出てくるオーランの問いかけは見た瞬間から心に残りました。純粋な疑問であると同時に、オーランの想いでもあり、抱える不安でもあり…なんとなく呪いの言葉にも似ていると思っています。そのほかにもエピローグムービーのテロップは奥が深いなと見るたびに思います。

2020.06.20 / 2023.01.26