STARWALKERS - 夏の雪 -

 考えたことがない、といえば嘘になる。

 街を行き交う人々の表情は概ね明るく、市場へ向かうと思しき荷車には沢山の農作物が積まれている。そういえば、今年は豊作なのだと聞いた。
 其処此処で未だ小競り合いがあるとはいえ、大きな戦が起きる気配はもはやなかった。緩やかに、だが確実に世は平らかになりつつあるということを、戸惑いながらも誰しもが実感し始めている。街の様子はその証左だ。
 美味しそうなフィグが目についたので、果物屋の前で足を止めた。好きな果物だとそういえば彼女が言っていたのを思い出し、数個買い求める。
 愛想の良い店主に手を軽く振り、そうしてまた歩き出した。

 心には決めている。だが、言い出せない。

 目当ての宿屋に辿り着き、主人に出立を告げた。預かってもらっていた鳥を引き取って、街の外に抜ける門へと向かう。
 目指す門は教会に面した広場を挟んで反対の方向にあった。鳥をどうするか少し迷ったが、まあいいかと思ってそのまま進む。同じように鳥を伴って門へと向かう者の姿を見かけたからだ。それに、広場へと続くこの通りは相応に広いというのもある。
 鳥と並んでゆっくりと歩いた。
 やがて広場へと出る。どこの街とも同じように教会前はひらけている。広場に配されている噴水の周りを子供達はぐるぐると駆けまわり、大人達はのんびりと談笑していた。
 そんな長閑な光景をなんとはなしに眺める。だが、頭を占めるのは別のことで。
 告げるべきだろうか。そればかりを思う。
 闇に捨てられそうな、忘れ去られそうな、過去を。今を。それらから成り立つだろう「真実」を探りたい──、そう話したことがあった。
 そんな自分を、傍で見ていてほしいと願った。恐怖心から真実の希求を投げ出さないように見守っていてほしいと彼女に願った──、あの日。
 あの日から今まで、どれほどの月日が流れたのだろう。そして、今の考えに至るまで、どれほどかかっただろう。
 人知れず苦く笑う。
 実際にはたいして月日は流れていない。季節は一巡りしたかどうか、そんな具合だ。
 それなのに、もう。
 心には決めている。定まっている。この先に辿る道行きを、自分はもう決めた。
 それ、を告げたとして。
 彼女は頷くだろうか。別離を望むだろうか。
 ──分からない。
 それ、を告げなかったとして。
 彼女は失望するだろうか。安堵するだろうか。
 ──分かりたくない。
 様々な想いが過ぎっていく。傷つけたくないという自分に、何様のつもりだと別の自分が唾を吐く。手放したくないという自分に、狭量すぎると別の自分がせせら笑う。
 それでも本当は。心の根にある、本当のところは。
 彼女に、自分の想いを。

 バルマウフラがぼんやりとしている。
 人のことは言えないな、と椅子に足の小指をぶつけたオーランは彼女の様子を見ながらそう思った。
 南に面した窓に椅子を寄せ、バルマウフラは外を眺めている。何をするでもなく、ただぼんやりと。
 ──疲れているのか。
 自分もだが、彼女も。最近の忙しさを振り返り、オーランは思った。
 付き合わせる格好で古文書やら機密書類やらの整理をバルマウフラには手伝ってもらっていた。正確には散逸寸前のそれらを見かねた彼女が呆れ顔で手伝いを買って出てくれたのだが、いつの間にか膨大な量になってしまっていた資料の山にここ一週間は忙殺される羽目になってしまった。
 それも昨日の夜にはあらかた片付き、今日はこうして平和なのだが。
 彼女にも休息の時間は勿論必要だと思う。こうした時を持つのはとても大切なことだ。ただでさえ、彼女は気を張ってばかりなのだから。
 きっと彼女なりの休み方なのだろう。話しかけるよりひとりにしておいたほうがいい。
 そう結論づけ、オーランは卓に置いてあった書類を手にした。そうしていつものように書斎に引っ込もうとして──、足を止めた。
 何気なく見たバルマウフラの横顔に虚ろな色が浮かんでいる。
「バルマウフラ?」
 考えるよりも先に声が出る。しまった、と思いながらもオーランは彼女がこちらを向くのを待った。
 だが、バルマウフラが自分に気付く様子はない。空虚な顔をしてそのまま外に目を向けるばかりのその姿にオーランはふと不安を覚えた。
 ──どうした?
 無視ではない。彼女が自分を無視するときはこんな顔をしない。この生活を始めてから知った多くの事柄からひとつを取り出し、そう思う。
「バルマウフラ」
 歩み寄り、もう一度声をかける。それでも反応はなかったので、オーランは彼女の肩にそっと触れた。
 瞬間、彼女は大きく体を揺らした。予想通り気付いていなかったらしく、驚きに満ちた顔でオーランを素早く見上げた。
「あ……、オーラン……」
「ごめん、驚かせてしまったね」
 全身に緊張を走らせてしまったバルマウフラにオーランは謝った。安心させるように笑みを浮かべ、彼女の肩に手を置く。
「本当はそっとしておこうかと思ったけれど、随分ぼんやりしていたから気になって」
 オーランがそう説明してみせると、バルマウフラは詰めていた息を少しずつ吐き出した。虚ろだった表情に僅かに生気が戻る。
「そんなことは……。……いえ、少しぼうっとしていたわ……」
 ぼそぼそと言うバルマウフラはあまりにも珍しかった。
 ──本当にどうしたんだろう。
 指先で彼女の肩を軽く叩きながらオーランは思った。ほんの少しよ、と念を押すような言葉は聞き流して彼女をじっと見つめる。
 見上げてくる彼女は、やはり少し疲れているように見えた。普段見せる意地っ張りなほどの強気な姿勢をつくろうとして失敗している、それこそがその証だった。
 何かあったのだろうか。何かしただろうか。もう一度思い起こす。
 件の書類の山を片付けたこの一週間。その前は確かフォーサイスさんの家の手伝いに行っていた。それより前は時期を迎えたベリーを摘みに森へ。
 さらにその前は、と記憶をさかのぼると、そこには空白ができていた。
 ──ああ、そういえば。
 自分は家を離れていた。教会の謀略を裏付ける貴重な文献が出てきたという報せを受け、しばらく旅に出ていたのだ。その間、彼女はひとりで留守番をしていた。一緒に行くかい、と誘ったけれど彼女は首を横に振ったから。
 ひとりにするのは心配だったが、これが初めてのことではない。帰ったときには笑顔で出迎えてくれたし、土産のフィグも喜んでくれた。そのときはいつもの彼女だった。
 思えば、摘んだベリーをジャムにしているときも、フォーサイス家の娘さんの話をしているときも、まったく普段通りだった。書斎の片付けの最中に繰り出された説教の際も変わりはなかったと思う。
 そこまで考えて、オーランの脳裏にひとつの可能性が浮かんだ。
 ──気付いたか?
 資料の多さに彼女は呆れていた。走り書きばかりの草稿の山にも同様に。どこに何があるかこれでも分かっていると弁明した自分をよそに、彼女はそれらを綺麗に整理してくれた。
 それはとても助かったわけだが──、彼女は何かを感じ取っていたのかもしれない。
 自分がもう心に決めていることを。この先の道行きを。
「オーラン、貴方も大概ぼんやりしているわよ?」
「ん? ああ……ごめん」
 バルマウフラに話しかけられて、オーランは我に返った。少し焦って謝ると、いつの間にか普段の調子を取り戻していた彼女は「別にいいけど」と溜息をついた。
「それに、変な顔」
「変な顔?」
 何か付いているだろうか。そう思って、オーランはぺたぺたと自分の顔を触ってみたが、別段何も付いてはいない。
 そういう意味じゃなくて、とバルマウフラが苦笑する。
「眉間に皺が寄ってる。随分と怖い顔をしているわ」
「怖い顔……」
「そう。何かあったの?」
 首を傾げて訊いてくるバルマウフラに、オーランは言葉に詰まった。
 訊きたいのはこちらだった。何か変わったことでもあったのか、とか、もしかして気付いてしまったのか、とか他にも色々──単純な疑問から飛躍していると自分でも分かっている疑念まで様々なことを──訊ねたかった。
 だが、それらの問いを今彼女にぶつけても良いのか分からない。果たして彼女は本当のことを言うだろうか。
 単純な疑問も。飛躍している疑念も。
 答えてくれるだろうか。
 ──分からない。
 オーランは瞬くと、緩く頭を振った。常の笑みを浮かべる余裕はなかったが、そのぶん大袈裟に肩を竦めてみせる。
「別に何もないさ。そういう君こそ、何かあったのかい?」
「え?」
 あくまで軽い気持ちで訊ねたという雰囲気をつくってオーランは彼女に切り出した。
「ほら、いつもなら『ぼやっとなんかしてないで、ちゃんと部屋を片付けて!』なんて言って僕のことを蹴倒すじゃないか。なのに、今日はそれがない」
 オーランがバルマウフラの口調を真似てみせると、彼女は嫌そうな顔をした。
「何なの、その変な声色……。それに、蹴倒すって何よ。私はそんなに凶暴じゃないわ」
「そうかな? よく蹴ってくると思っていたんだけどね」
 唇を尖らせて言うバルマウフラをオーランはさらに茶化すことにした。そのほうが普段の自分達への近道だと思ったからだ。
 実際、彼女は自分をよく蹴る。勿論、軽く小突く程度だが。
 彼女の蹴りがいつ繰り出されるか、あるいは、いつ手が出るか。それをオーランは既に知っていた。怒ったとき、と初めは思っていたが、本当に怒っているときには彼女はそんなことはしない。どちらかというと、照れているときや気恥ずかしいとき……感情をうまく隠せない、そんなときに蹴ってくる。
 あとは、夜。あれは蹴るというより、溺れるに近いのだが──。
「まあ、それはいいか……」
「何の話?」
 勝手に話を終わらせないで、とバルマウフラは不服そうに言ったが、オーランは曖昧な笑みを浮かべることに成功した。思考の先をそのまま伝えでもしたら本当に蹴られてしまう。
「本当に変な人。……大体」
「何だい?」
 バルマウフラはしばらくこちらを見据えていたが、向けられた笑みを追求するのはどうやら止めたらしい。その判断にオーランはほっとした。
「大体、部屋は昨日すっかり片付けてしまったじゃない。……また元通りになったって言うのならこちらにも考えはあるけれど?」
 言いながらある種の可能性に気が付いたのか、バルマウフラの声が低くなっていく。ほっとしたのも束の間、その冷え冷えとした声にオーランは思わず身構えた。
 花がほころぶような彼女の笑みが怖い。
「考え」
「蹴るなんて生ぬるいわね。氷漬けにしてあげましょう」
 そう言うと、バルマウフラは右手を挙げた。辺りの空気が彼女の声と呼応するかのように冷えていき、小さな氷の結晶が出現する。右手を取り囲むその数は次第に増え、細雪の様相を呈した。
 綺麗だ、とオーランはそのさまに一瞬見惚れたが、勿論そんな場合ではない。詠唱し始めた彼女の口を慌てて塞いだ。
「闇に生まれし精霊の……むぐ」
「待って、待ってくれ! いくら僕でも昨日の今日でなんてことはないから!」
 彼女が唱えかけたのは最下級魔法のブリザドのようだったが、それでもまともにくらってしまえば相当に痛い。もっとも、今は夏の終わり、もしかすると涼しいだけで終わるかもしれないが……確率は低いだろう。
 切羽詰まった声でオーランが叫ぶと、口を塞がれたままのバルマウフラはぱちりと目を瞬かせた。
「もむもぐ?」
「本当だよ。心配なら見て来るかい?」
「……まもめめ」
 おそらく「後でね」と彼女は言ったのだろう。まだ疑っているようだが、くぐもった声には今しがたの冷たさはもうなかった。
「手を離すけど……頼むから落ち着いてくれ」
 オーランはそろりそろりと慎重にバルマウフラの口を解放した。
「落ち着いてるわよ。……もう、何を話していたか分からなくなったわ」
「……そのとおりだね」
 彼女の言葉に力なく笑ったオーランに、ともかく、とバルマウフラが続ける。
「心配してもらって悪いけど、別に何もないわね。……オーラン、貴方は?」
「──」
 一瞬だけ窓の外へ視線を送り、バルマウフラは再びオーランを見上げた。ひた、と視線を合わされ、彼女の言葉の真偽を考えようとしていたオーランはひそかに動揺した。
 人の心を見透かすような、嘘を見抜くような、穿つような、そんな視線だった。
「貴方は何かを隠しているはずよ。……まあ、隠し事が幾つあっても不思議ではないし、私は構わないけど。でも」
「バルマウフラ」
 言いかけたバルマウフラをオーランは思わず遮った。自分でも驚くほど強い口調になってしまったその呼びかけは、二人だけの居間に妙に響いた。
 すぐに静寂が満ちる。
 名を呼んだオーランも、呼ばれたバルマウフラも互いを睨むように見つめたまま何も言わなかった。相手の呼吸を読み、間合いをはかる──そうして心の深いところを探り合う。
 ──告げるべきだろうか。
 オーランは唾を飲んだ。
 既に心は定まっていることを。「真実」を探ったその先に辿る道行きを、彼女に。
 告げたい、告げるべきだと心の根は叫んでいる。それをオーランは認めざるを得なかった。彼女に隠し事はしたくない、できない、と自分に訴えかけている。
 そうして。
 傍で見ていてほしいと請うたときと同じように、これから辿る道行きも見守っていてほしいと願っている。すべてを見つめていてほしいと。そんなふうに。
 自分ばかりに都合の良い話だという自覚はある。だが、それでも。
 ほかの誰でもない彼女に、すべてを。
 彼女にだけは、自分の心を。
「……そんなに多くないよ、バルマウフラ」
 沈黙をやぶり、オーランは静かに言った。ぴくり、とバルマウフラが肩を揺らす。
「今思いつくのは──、心にあるのは、ひとつだけだ。確かに僕は君に隠し事をしていた。いつ告げるべきか……そもそも告げるかどうか迷っていた。楽しい話ではないし、聞いた君がどう思うのか知るのは正直怖い」
 一旦言葉を切り、オーランはバルマウフラの反応を見た。何か言葉を、とも思ったが、彼女は黙したまま視線で続きを促した。
「……でも、話したい。ずっとそう思っていた。……聞いてくれるかい?」
 椅子に座っているバルマウフラの前に跪き、目線を合わせる。掠れてしまった声で願いを言うと、彼女はやがて頷いた。
「いいわ。どんな話か分からないけど……でも、その前に」
 椅子を持ってきて座りなさいな、と彼女は言った。


 目線を合わせて語るのは、告げるのは、自分の未来だ。そして、君の。

 何故、戦は起きたのか。
 目に見えていた争いの構図の裏にあったものは何か。
 この国を真に脅かしていたものは何か。
 退けた者は誰か。
 このままでは何も残らない、隠されたまま葬られるだろう真実とは何か。
 闇に捨てられそうな、忘れ去られそうな、過去を。
 今を。
 それらから成り立つだろう「真実」こそを探りたい、と。
 そう願った。
 ──そして。
 道半ばで目を背けないように、倒れないように、傍で見ていてほしいと君に願った。
 自分にとって幸いなことにそれは果たされ、時が動き始めた。季節は巡った。
 記憶を洗い、話を聞き、書を漁る、そんな日々。
 そうして得られた事実は瞬く間に膨大になった。
 後はそれらの事実を撚り合わせ、真実を導き出すのみ。そう思った。
 そのとき。
 心の底から何かが生まれた。己の内に別の欲が出現した。
 世にあらわしたい、と。
 伝えたい、と。
 残し、誰かに知ってもらいたい、と。
 己の内に留めるだけでは、なく。
 そんな願いが自分の心を縛った。抗えない魅力がそこにはあった。
 それでも迷いはあった。悩みもした。その先を思えば。
 選びとった道の行く末は「死」に繋がるだろうと分かっている。
 ……怖くない、といえば嘘になる。自ら死を選びながら生きるのは苦痛だろう。
 けれども、それよりもっと怖いのは。

 君の想いを、知ること。


 言葉はうまく紡げなかった。言い訳が混ざった説明を彼女はどう思っただろうか。
 己の想い、は伝わっただろうか。
 萎れてしまいそうな心を励まし、いつの間にか逸していた視線を再びバルマウフラへと向ける。一縷の望みにかけ、答を促そうとした。
「君はどう──」
 オーランはそこで言葉を失った。
 感情がすべて抜け落ちたような顔でバルマウフラはこちらを見ていた。それは、まるで何かの仮面を付けてしまったかのような具合だった。
「バルマウフラ……」
「……少し、外の空気を吸ってくるわ」
 そう言うと、バルマウフラは窓の外を見やった。思わず差し伸べたオーランの手を退け、表情を変えないまま椅子から立ち上がった。
 否、立ち上がろうとした。
「危ない!」
 うまく立てなかったのか、ぐらり、とバルマウフラの体が傾ぐ。宙に浮いたままだった手をオーランは咄嗟に差し出し、彼女の軽い体を抱きとめた。
 椅子が派手な音を立てて転がる。
「大丈夫か?」
「……ええ」
 オーランが問うと、バルマウフラはか細い声で答えた。
 その答をオーランは信じなかった。腕の中にいる彼女は震えていた。顔色も悪い。
 ──自分の言葉は、想いは、彼女を傷つけた。
 己の失敗を悟り、オーランは唇を噛み締めた。やはり、告げるべきではなかったのだ。後悔と己への呪詛が心を占める。
 そんなオーランを現実に引き戻したのは、バルマウフラの力ない声だった。
「……本当は、調子が悪いの。少しだけね」
 貴方のせいじゃない、とバルマウフラは言った。そうして寄りかかってきた彼女をオーランは彼女が楽になれるようにその場に座り込んだ。
「確かに驚いたけれど」
 表情が抜けたまま苦笑する彼女の慮るような言葉に、オーランは顔をしかめた。彼女は本当のことを言っているという確信はあったが、それでも違和感があった。
 体調が悪いのも、驚いてしまったのも、本当のことだろう。……庇う言葉は嘘だろうけれども。
 だが、他にも彼女は何かを隠している。
「バルマウフラ」
 しかし、オーランは自身の考えを棚上げにした。今は彼女の体調が最優先だった。
 呼びかけると、バルマウフラはどこかぼんやりとした顔でオーランを見つめた。
「医者を呼ぼう。いや、今から行こう、呼ぶのは時間がかかる。それか、まずはフォーサイスさんへ相談して……」
「少し待って」
 纏まらない考えをそのまま声に出して言ったオーランを、バルマウフラは制止した。そうして窓の外を見やる。
 そういえば、先刻から彼女は外を気にしていた。
「バルマウフラ?」
 外に何かあるのか、とオーランは彼女の視線を追った。だが、座り込んだこの姿勢では窓から見えるのは青い空ばかりで。
「どうしたんだ? 何か気になることでも?」
「……お医者様はもう来る頃よ」
「え?」
 気が急いて訊ねたオーランにバルマウフラが言う。どういうことだい、とよく分からないままに問いかけようとしてオーランはふと口を噤んだ。
 外から車輪の音が聞こえてくる。それに混じって鳥の足音も。誰かがやって来たのだ。
「ほら、ね」
 青白い顔をしてバルマウフラが笑む。その表情がオーランには預言者のようにも思えた。

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔だとバルマウフラは思った。

 バルマウフラの隣に立つ男は、突然聞かされた宣告に固まっていた。見上げてみれば、口だけがはくはくと動き、目は瞬きをするのも忘れてしまっているようだった。あのままではすぐに乾いてしまうだろう、とそんなことを思う。
 総じて、男は驚いているようだった。豆鉄砲を食らったどころの騒ぎではないのかもしれない。
「お子ですな」
 そんな男──オーランに、医者は繰り返して聞かせた。
「子……。子供?」
 淡々とした医者の二度目の言葉は耳に届いたらしい。ただ呆然と復唱するオーランがバルマウフラにはおかしかった。
 何を驚いていらっしゃる、と医者が呆れ顔で言う。
「やることは、やってるんでしょう?」
「は、はあ。……まあ」
 医者に気圧され、オーランが狼狽えた声でしどろもどろに言う。
「よろしい。まあ、しばらくは具合が悪いときがあるでしょう。そういうものですからな。それでは注意すべき点をいくつか」
 はい、と答え、バルマウフラは医者に向き直った。何かに書き留めたほうが良いだろうかと思ったが、なんとかなるだろうとも思う。分からないことがあればフォーサイスの奥さんに聞けば良い。
 そう思ったのだが、隣の男は同じ考えには至らなかったようだった。
「ちょ……ちょっと待っててくれ! 紙! ペン! インク!」
 一気に我に返ったのか、半ば独り言のように叫ぶと、オーランは慌てて居間を出ていった。
 何かに蹴躓いた音が聞こえ、次いで扉が勢いよく開かれる音が聞こえる。騒々しいそれらの音の先には書斎がある。言葉通り書き付けるものを取りに行ったのだろうが……。
「面白いご夫君ですなあ」
 溜息をついたバルマウフラに、妙に感心した風情で医者は言った。



 緩やかな風が窓から吹き込んでいた。
 開け放った窓辺に立ち、バルマウフラは外を眺めていた。いつの間にか夜の帳が降り、外はもうすっかりと闇だった。聞こえてくる虫の音と吹き込む風の匂いが秋の始まりを感じさせる。
 ほんの少し前までは、と思う。夏の短夜と生者を祝う夏至祭はついこの前のように思えたが、あの頃には同じ刻限でも陽は西の空に未だあった。それが今ではとうに陽は落ち、夜がもたらす静けさばかりだ。
 窓の外、夜の空には星が満ちていた。明るい星、そうでない星、白の星、金の星、白銀の星、青の星、赤の星。そうした星々を縫って渡る天河は水の流れのようにも雲のようにも見えるが、あれもまた星の集まりらしい。そう教えてもらったことがあった。
 ──確か、あれは昨年の夏。
 目線を下へとずらすと、星の河が急に途切れた。闇色で森の輪郭が分かる。
 バルマウフラはふと思い返した。
 天河の話を聞いたのは、昨年の夏だった。隠遁先を求めてよく知らぬこの森に居を構えた頃か、あるいはそれよりも少し前か。弾む声であれこれと星を指し示し、同居人は嬉しそうに自分に語って聞かせた。時折は寝物語にもなったそれを半分ほどは聞き流していたが、それでもいくつかの話は覚えてしまったし、天河の成り立ちは興味深かった。
 星を見たい、とそう思った。
 窓を閉め、ひとつだけ灯していたあかりを吹き消す。居間から直接外へと出られる扉を開けようとして、バルマウフラは外出を告げるべきか少し迷った。同居人は書斎にいる。
「……」
 だが、結局は告げずにそのまま外に出た。あまり顔を合わせたくなかったからというのもあるし、単に面倒だったからというのもある。
 闇と星に包まれたかったからランタンは持たない。星明かりを頼りにいつもの森道を抜け、同居人が勝手に「星の広場」と名付けてしまった草地に出た。
 鬱蒼とした森の只中にありながら、奇妙にも木立のない円形の空間。如何なる力によるものか、深い森の中、何にも遮られず夜空を仰ぐことのできる場所──今では同居人のみならずバルマウフラ自身もこの場所を気に入っていた。
 見上げるまでもなく満天の星々が視界に広がった。暗い穴の底へ光が射し込むが如く、真円の空間に闇に映えた星明かりが降る。
 ──まるで雪のよう。
 星の光を今夜はそう思った。様々な色を持つはずの星の光が、今日は冷えた色に見える。
 雪を待つ子供のようにバルマウフラは手を空へと伸ばした。
 無論、本物の雪ではないからこうしてみても冷たさを感じることはない。星明かりの結晶が手に乗ることもない。
 だが、闇空に光る星々は本当に雪のようで──、冷たかった。
 ──そう感じてしまうのは。
 何故だろう、とバルマウフラは思う。以前よりは近しく思えていた星空が今は遠くて冷たい。そう思う心はどこから来るのだろう。
 苦しくなるような、こみ上げるそんな想いはどこから。
「……本当に馬鹿ね」
 手を降ろし、呟いてみる。声は思っていたよりもどうしようもなく震え、それが誘い水となって視界はぼやけ始めた。星が見たいと願う心で瞬きをすると、頬を何かが滑り落ちた。
 馬鹿なのは誰だろう。呟いたばかりの言葉を問いに変え、やはり思う。昼間、告白をしてのけた男か。それを聞いて動揺してしまった自分か。その両方か。
 思い出してみても、男の考えは馬鹿だとしか言いようがなかった。根は深謀遠慮な男だとすっかり思い込んでいたが、自分のその評価は間違っていたのだろうか。それとも、考えに考えを重ねてしまうとあんな無鉄砲な結論に至るのだろうか。自分には見透かせなかった結論を、考えを、想いをいつから抱くようになったのだろうか。
 男が自分で言っていたとおり、想いの向くままに選びとる道の果ては確かに「死」に繋がるのだろう。数多の事実から撚った「真実」というものを暴かれたとしたら、教会は絶対にそれを許しはしない。異端と名付け、火の向こうに追いやる未来は自明だ。本当に、自ら死地へ赴くようなものだ。
 ──死にたい、のだろうか。
 そんなふうにはバルマウフラには思えなかった。生への執着はごく普通で、それ以上でもそれ以下でもないように思えた。何か特別な病を抱えているようにも、それで自暴自棄になっているようにも見えない。少なくとも、傍目からはそう見えた。……心の内は窺い知ることはできないが。
 そう、心を知ることはできない。自分は、何も分かっていない。
 それが、悔しかった。
 星がまたぼやけて見える。そのたびに瞬きをしてやり過ごしてもその元凶は頬を濡らすばかりで、事態はいっかな好転しない。
 何故泣かなければならないのか。それもまた分からなかった。
 悔しいのは、そうだと思う。だが、それだけではなかった。自分はいったい何を望んでいたのか。何を期待して共にいたのか。
 訪れた平穏を甘受する、それが自分の望みだっただろうか。そう思いもしたが、即座に否定する。──否定したのは理性だった。そして、普段取り繕っている意地っ張りな心の表。
 本当のところは。気付きたくもない心の奥底にある本当の望みは。
 男は真実を突き止める者だった。それだけのこと。自分はその傍らに立ち、すべてを見届ける者だった。それだけのこと。
 ──それだけだったはずなのに、どうして。
 分かっていたはずなのに、何故だろう。そう思い、空を睨んだ。
 緩やかに吹き渡る風が木立を揺らす。その音を聞きながら、バルマウフラは自分が泣き止むのを待った。濡れた頬を風が癒やすのを待った。
 そうして。
 葉ずれの音に混じって草を踏む音が次第に近付くのを待った。
「……風邪を引くよ」
 背中に声を聞く。振り向かずにそのままでいると、声の主は手にしていたらしい薄手のショールを肩にかけてくれた。
 それでもバルマウフラは振り向かなかった。否、振り向けずにいた。
 ただひたすらに空を見上げる。瞬きをしてみても、星はもうぼやけない。大丈夫、と自分に言い聞かせてから口を開く。そう、いつもの声色で。
「未来がこんなことで変わるなんて思っていない」
 残っている理性で告げる。「自分らしく」振る舞うのが最善だと、そう信じて。
 なのに、自分を無視して声はみっともなく震えた。
「バルマウフラ」
 肩に手が置かれる。ショールがあるから男の手の熱は伝わらない。ただ重みだけを感じた。
「これは、偶然。……偶然で事故のようなもの」
 常ならば落ち着くその重みも今はただ苦しい。その苦しさから逃れたくてバルマウフラは言葉を継いだ。
 星空からも目を逸し、木立の生む闇を見つめた。
「……子供が足枷になってしまうなんて、そんな」
「バルマウフラ!」
 そんなことはない、と繋げようとした言葉を遮るようにオーランが声を荒げた。その声色には怒気が僅かに含まれていて、バルマウフラは身を竦ませた。
 怖い、と少しだけ思う。この男を怖いと初めて思った。怒りという名の刃を自分に向けられたのは、たぶんこれが初めてだった。
 それだけのことを自分は言ったのだ──、バルマウフラはそう思ったが、だからといって「自分」を見失うわけにはいかなかった。いつもの自分のようにもっと強い言葉を吐かなければ、とただ思う。
 本当のことだけを言うふりをして、何もかも煙に巻いてしまうのが自分は得意だった。そうやって生きてきた。
 ──だから。
「……何よ」
 大仰に溜息をつき、バルマウフラは低く言った。振り向きはしなかった。
 振り向いてしまえば、自分というものが音を立てて崩れていくのだろう。それだけはできない。
 幸いなことに、男は無理に振り向かせようとはしなかった。そのかわりに、肩に乗せた手に力が込められる。
「君の本心がほしい」
 掠れた声で男はそう言った。
「さっきの……昼間の続きにもなるが……、君の心を」
「すべてもう伝えたわ」
 今度はバルマウフラが遮る番だった。これ以上、声を聞いていたくなかった。
「驚いた、それだけ。これからも何も変わらない。私は私の、貴方は貴方の道を歩く。そうね、交わした契約は守るわ。私はすべてを見届ける」
 口を挟む余地も与えず、一気に言い切る。気をつけていたのに早口になってしまった口調を男はどう思うだろう。頭の中をそんな考えが掠めたが、もう遅かった。
 嘘は話していない。心の奥底にある一番柔らかいものを見せていない、ただそれだけだ。
 見せる必要はない、そう思う。自分でも見たいと思わないのだから、他人であれば尚更だ。
 漆喰が剥がれかけた壁のような、時折吹き荒れる砂嵐のような、そんな記憶の断片達をすり抜けて落ちていく。そうして辿り着いた先、ちっぽけで柔い心の欠片は今も暗がりに眠っている。
 それは揺り起こしてはいけないものだ。けして。
 ──なのに。
「それが君の本心?」
 確かめるように問うオーランに、バルマウフラは即座に頷いた。
「そうよ。嘘なんか言わないわ」
「だが、本当でもない。……君は本当のことしか言わないように思えるし、実際そうなんだろうけれど……自分自身には平気で嘘をつくから」
「嘘じゃない」
「じゃあ、こう言おう」
 言葉と共に体が動く。引き寄せられる、とバルマウフラが思ったときにはもう後ろから抱き竦められていた。
「君がけして触らない、見ようともしない、そんな想いが心の何処かに眠っている……僕はそのことを知っている。でも、それを君から聞きたい。それが、君からほしい」
 肩口に額を擦り付け、吐息で男が願う。両腕に力が込められるのをバルマウフラは退けられずにただ感じた。そして、確かに伝わる鼓動を。
「──君は何を望む?」
 切実な声色に、何かが音を立てて脆く崩れていく。足元が揺らぐような感覚に目眩がし、思わずバルマウフラはオーランの腕に縋った。
 考えるよりも先に、言葉はそうして転がり始める。
「……ひとりは嫌」
 茫漠とした声でバルマウフラは言った。震えない自分の声を不思議だと思った。
「うん」
 男は頷くと、続きを無言で促す。
「失うのは、もう」
「うん」
 希望を渡してくれる者はいなかった。未来を崩す者だけは数多くいた。そういうさだめなのだと諦めていた自分を別の次元へ掬い上げたのは誰だったろうか。
 忘れ去っていた過去と再会したのは、何故だったろうか。
 ひとりではないと気付いたのは、何故。気付かせてくれたのは、誰。
「ひとりでそんな未来を……選んで、歩いていくのは」
 心音を感じながら、背中に熱を感じながら、少しずつ言葉を紡ぐ。心の奥底に沈んだ暗がりの只中、今まで背を向けていた想いを探す。
 寂しい。音のない、内なる声が聞こえた。
 辛い。悔しい。悲しい。嫌。次々と悲痛な呟きが聞こえる。そんな想いをバルマウフラはそっと抱えた。それらは確かに、自分の心だった。
 そして、最後にひとつの言葉が残る。
 自分には無縁だと思っていた言葉。よく分からない、そう思い為して避けていた、ありふれた想い。
 横たわるその想いの前に座り込み、ただ見つめた。
 たぶん、これから先の道行きにはあまり役に立たないだろう想い。
 ほんの僅かな時間だけ触れ合い、そうして分かたれてしまう心と心には用をなさない想い。
「……そうだね」
「……何に頷いているのか、分かっているの? オーラン・デュライ」
 ひとつひとつの言葉に頷く男の腕をバルマウフラはあやすように叩いた。歯痒さも苛立ちもなかったが、迷子のような男が少しおかしく思えた。
 男は自分自身の言葉で傷ついているのかもしれなかった。本当の望みを告げ、それでも別のところにもまた望みがあるのかもしれない。自分と同じような、淡い切望が。
 もし、男がそうであるならば。バルマウフラは思う。離れ難いなどと思っているのならば。そうして頷いているのであれば──。
「うん……。分かっている、つもりだ。僕もそうだから」
 嬉しい、とバルマウフラは思った。男の真摯な言葉は自分のそれとは違って、事実であり真実だ。だから、嬉しかった。
 だが──、だからこそ。
 叩いていた手を止める。声色も変えて、両足に力を入れた。首筋に感じる吐息を頼りに顔だけで振り向くと、目が合った。星明かりだけの夜、闇の中にあってもそれは分かる。
 腕の力が抜けたのを感じ、素早く体の向きを反転させる。肩に手を置き、背伸びをして男の頬にバルマウフラは口づけた。
 そうして囁く。
「それでも、なのね?」
 にわかに驚いたらしいオーランはしばらく沈黙したが、やがてゆっくりと頷いた。
「ああ」
 きっぱりとした肯定に、バルマウフラは微笑んだ。未だ揺れ動く心の中に、諦めとは違う色の想いが入り込むのを感じた。
 自分ができることは、何だろう。自分がしたいことは、何だろう。新たに入り込んだ想いはそう問いかける。
 この男のために。何より、自分のために。
 別離なんて望みたくない。死する道なんて選ばないでほしい。その果てにある想いはそのままにして、これから先を思う。
 バルマウフラは男の背に腕を回した。
「──隠さないで、話してくれた」
 できること、したいこと。きっとそれらはすぐには浮かばない。だから、今は。
 心を占めているこの想いなんて、すぐに消えてしまうのかもしれない。だけど、今は。
 すべてを、認めて。
「貴方はちゃんと話してくれた。そこだけは褒めてあげる……まあ、及第点というところかしら」
「バルマウフラ」
 名を呼ぶ声が耳朶を優しく打つ。背をそっと撫でられる。
「私はすべてを見届ける者。貴方とはそう約束した」
「……」
「でも、そのときまでは」
 これだけは、もう決めたのだ。バルマウフラは思った。
 心なんてすぐにうつろう。自分のこの選択を未来の自分は馬鹿にするのかもしれない。重さに耐えられなくなるのかもしれない。結局は逃げてしまうのかも。
 それでも。
「そのときまでは、傍にいるわ。離れずに貴方の傍にいる──。そして、確かに見ている。……約束だから、とかじゃなくて……私自身がそう望むのだから」
 声が、心が震える。少しばかり腕に力が込められ、それが何よりも嬉しかった。
 見上げれば、夜空の星。間近には、星と語らうよりも真実を選んだ男。
「だから、貴方は貴方の……道を。自分で決めた道を」
「……分かった」
 頷いた男を愛しいとバルマウフラは初めて思った。
 だから──。
 視界から星を消し去って、そうして柔らかい心を受け入れた。

あとがき

2020年6月に発行した「STARWALKERS」の再録作品です。オーランとバルマウフラが同居生活を始めてしばらく経った頃の話です。

「白書発表時には既にオーランとバルマウフラの間に実子がいた」という私的設定でこれまで書いてきたのですが、本作はわりと踏み込んだ話になりました。なかなか書くのが難しかった…。子供ができたことはふたりともすんなり受け入れそうですけども、それとは別にオーランの決意(と苦悩)はバルマウフラさんを(ある程度予感しているかもですが)動揺させるだろうなと思いました。

そもそも、オーランは何故白書を発表しようと思ったのか。承認欲求とはまた違うけど、書いたら見せずにはいられない作家みたいなものでしょうか?

2020.06.20 / 2023.01.26