STARWALKERS - 氷祭の夜 -

 訪れる長い夜は、闇を容易くもたらす。
 降り積もる雪は、物言わぬ骸を隠す。
 凍りつく大地は、人々の心をも凍えさせる。
 そうしたものから逃れるために生者は集う。闇夜を払うが如く数多の蝋燭を灯し、失われた者達の魂が迷いなく還ってきますようにと願い、束の間でも寄り添えますようにと祈る。
 氷祭はそのための祭だった。
 いにしえには違う意味合いを持っていた、そう教えてくれたのは父だった。戦で見せる顔とはまるで違うと友にからかわれながら穏やかな笑みを湛えていたのを覚えている。
 長き冬の夜を憂い、白い雪に覆われる大地を慰めるための祭。それが、氷祭の起源。
 今は精霊と魂を慰めるための祭だが、と前置きをして父は続けた。──変わっていないものもある。
 たとえば、広場に据えられる立派な樅の木。たとえば、魂との別れのために結ぶカリアの枝。樅の木の下に置かれる数え切れないほどの蝋燭の灯火。祭の最終夜である冬至から徐々に伸びだす陽の長さ。
 変わらないもの。変わりゆくもの。今を生きる者は常にその狭間にあり、変化を感じることは能わない。すべては後の世に生きる者達が判じることなのだ。
 ──さて、来年は。
 父は言った。来年こそはカリアの枝も減るような穏やかな年になってほしいものだが。
 そう言って笑った父も戦に斃れ、自分はカリアの枝を手にした。
 樅の木に一緒にカリアを結んでくれた父の友は、自分の頭を撫ででくれた。
 そして──。
「オーラン」
 隣から声をかけられ、オーランは自分が過去を彷徨っていたのだと知った。慌てて我に返り、小首を傾げて自分を見やるバルマウフラに笑みを取り繕う。
「あ、ああ……。ごめん、何か言ったかな?」
「早く結んでしまわないと、他の人の邪魔になりそうって言ったのよ。……まるで聞こえてなかったのね」
 呆れ顔でバルマウフラが言う。
 その言葉に促され、オーランは背後を振り返った。どれくらいぼうっとしていたのか、それとも賑わう頃合いになったのか、カリアの枝を樅の木に結ぼうとする人々で周辺はごった返していた。確かにこれでは邪魔だと難癖をつけられても仕方がない。
「今、結んでしまうから」
 手にしていた二本の細枝に目を落とす。一呼吸の逡巡の末にそのうちの一本を樅の木に結びつけた。
「これでよし。待たせたね」
 樅の木に向かって目礼すると、人混みではぐれてしまわないようにバルマウフラに向かって手を差し伸べる。少し躊躇した後でその手を取った彼女を促してオーランは歩き出した。
 広場を囲む出店の数々をひやかしながら、そうしてそぞろ歩く。
「……いつも思うけど、暗い祭のはずなのに賑々しいのが不思議なのよね」
「確かにそうだね。悲しい祭だからこそ集うのだろうけど……」
「まあ、毎日こんなに暗ければ滅入っちゃうものね。適当な憂さ晴らしも必要ってことかしら。……あ」
 木彫りのオーナメントを扱っているらしい店の前でバルマウフラが足を止めた。
「少し寄るわ」
 オーナメントを選び始める彼女に頷き、オーランもまた店を覗いた。
 星や鐘、杖にカリアの葉、十二宮それぞれを象ったモチーフなど様々なオーナメントが店には所狭しと陳列されていた。イヴァリースの民なら馴染み深いそれらの品々は、カリアの枝と同じように樅の木に括っても良いし、守護を求めて一年を通じて家に飾っても良い。氷祭には多くの店が並ぶが、小ぶりのものであれば値段も手頃なこともあってどの店も繁盛しているようだった。
 さして興味も覚えなかったので、一通り見ただけでオーランはバルマウフラに目を向けた。
 楽しそうに小ぶりのオーナメントをあれこれと物色している彼女は年相応に見えて微笑ましい。前に年齢を聞いたときには予想していた歳よりだいぶ若いと知って驚いたのだが(その際、足を思いきり踏まれてしまった)、それはおそらく彼女の性格と境遇に起因するところが大きいのだろう。
 じっくりと吟味した後、バルマウフラが小さなオーナメントを店主に渡した。頷く店主に代金を支払い、品物を受け取る。連れは何処に行ってしまったのかと辺りを見回す彼女に、オーランは手を挙げた。
「お待たせ」
「何を買ったんだい?」
 訊ねると、バルマウフラは買ったばかりのオーナメントを見せてくれた。魔除けの動物を模したそれは、彫りは荒いがなかなか味があった。
 だが、少し気になることがある。
「可愛い、というのかな、いい感じだと思うけれど……これって魔除けのものじゃなかったかな?」
「そうよ?」
 重ねて問うと、バルマウフラは素直に頷いた。それが何か、と言わんばかりの彼女にオーランは苦笑する。
「いや、少し不思議だったんだ。魔道士、違うな、教会に属していた人間が持っていたら魔除けになるどころか呼び寄せてしまいそうで」
 話しながらそこまで考えて、はた、と気付く。
「……ん? 魔除けといってもこれは元々が土着信仰に由来するものだからグレバドスとは関係が薄いしそもそも教会の意図したところと事実から成り立つものから考えうるのは」
「何をぶつぶつ言っているの?」
 呟きが聞こえたのか、傍らに立つバルマウフラが再び繋いだ手に力を込める。はっと気付いて思わず見ると、バルマウフラは先程の呆れ顔を再び浮かべてこちらを見上げていた。
「いきなり自分の世界に入り込むのは本当に悪い癖ね。ましてや、誰が聞いているか分からないのに。不用心この上ないわ」
「……ごめん」
 彼女の説教はまったく正論で、オーランは神妙な面持ちで再び謝った。今夜はどうも自分の世界に彼女を巻き込んでしまうような気がする。……いつものこと、といえばそうなのかもしれないが……。
 そのとき。
「結構好きなのよ」
「え?」
 バルマウフラの唐突な告白に、オーランは反射的に訊き返した。
 気負っているふうでもなく、むしろ愛しそうに目を細めて彼女はこちらを見ていた。あまり見せることのないその表情はある意味彼女らしくなくて、戸惑ってしまう。
 ──この癖が出ると大抵は怒るのに、それは愛情の裏返しだった……とか?
 そうだとするとかなり嬉しいことなのだが、にわかには信じがたかった。かといって、彼女の言葉を疑ってしまうのもなかなか難しい。
 期待に満ちたまなざしでオーランはバルマウフラを見た。すると、何か感じるところがあったのだろう、彼女は小首を傾げた。
「どうしたの? オーラン、貴方も好きなの?」
 きょとん、とした顔になってバルマウフラは訊いてきた。
「バルマウフラ……?」
 彼女の名を呼ぶ自分の声が上ずってしまったことをオーランは少しばかり苦々しく思った。すっかり動揺している自分をそうして自覚する。
 ──これは、本当に?
 話の脈絡がよく掴めなかったような気もするが、彼女がそう言ってくれるならば自分にとってこんなに喜ばしいことはない。そう思ったオーランの心を打ち砕いたのは、バルマウフラの次の言葉だった。
「このオーナメント、可愛いわよね。魔除けの動物だっていわれるけれど、別にそんなの関係ないもの。これまでも結構集めていて……本当にどうしたの?」
 嬉しそうに話すバルマウフラを眺めながら、オーランは斜めに傾いでしまった。浮足立ってしまったが、やはり勘違いだったらしい。
「ははは……それで、好きと」
 溜息のかわりに出てきてしまったのは、情けない笑い声だった。
「こう見えても、ね。意外だって思っているんでしょうけど」
 腰につけていた小さな革鞄にオーナメントをしまいこむと、バルマウフラは見慣れた表情に戻って肩を竦めた。
 嬉しそうな彼女の微笑みは貴重だったなとオーランは表情の変化を残念に思ったが、いつものつんけんした表情のほうが既に馴染み深い。心が不思議に落ち着いてしまうのも事実だった。
「……それは、まあ。少しは」
 聞こえるかどうかという具合でオーランはバルマウフラの言葉を肯定した。そんなことはないと大袈裟に否定してみせても彼女は逆上するだけだし、きっぱり頷いてもそれはそれで気まずい雰囲気になるのは必定だった。この加減が実に難しいと思う。
 そんなふうに思いつつも、それも実は楽しかったりもするのだが──。
「素直なのは良いことね。じゃあ、覚えておいて?」
 どうやら自分の答え方はこの場合正しかったらしい。大きく頷くバルマウフラを見やり、オーランはそっと胸を撫で下ろしながら訊ねた。
「何をだい?」
 問いを受けてバルマウフラが人差し指を宙に向けて立て、確認するように言う。
「オーラン、貴方は結構ほうぼうを巡るでしょう? 旅の途中、何かのついでに道具屋や古物商なんかを覗くこともあるかもしれないわよね」
「そうだね。……それが?」
 オーランは頷き、彼女に続きを促した。
「土産物屋……に行くことはないわね。とにかく、そういったところで同じような「可愛い」小物を見つけたら……ついでに……その……」
 自身の言葉に何か思うところがあったのか、突然バルマウフラは言い淀んだ。そのまま俯いてしまった彼女を窺うと、耳元が赤く染まっている。蝋燭やランプが眩いばかりに灯されているこの場では、それがはっきりと分かった。
 なるほど、とオーランは思った。おそらく、「普段の自分」と乖離しているところを彼女はできるだけ見せたくないのだろう。確かに、可愛いもの好きという一面はこれまでに知った彼女とは違っていた。それだから、意外だとも思ったわけで。
 だが、知ったところで意外だと思うくらいで終わる話でもある。なのに、今更取り繕ってしまうあたりが彼女らしくて、ある意味可愛い。
 ──だから、逆効果なんだけどね。
 そう思う。
 自然と緩んでしまう頬を気取られないように、オーランは表情を引き締めた。何でもない、というふうを装った口調をつくり、途切れてしまった彼女の言葉を繋げる。
「探してみるよ。まあ、僕の見立てだからあまり期待はしないでほしいけれど」
「……それはそれで、楽しみにしているわ」
 軽く言ってみると、その言葉に引き寄せられたようにバルマウフラが顔を上げた。その表情に喜色が浮かんでいる彼女に目を細め、ところで、とオーランは話題を変えた。
「バルマウフラ、寒くはないかい?」
「え? 確かに少し冷えるとは思うけど……どうしたの?」
 見上げてくる彼女の問いに答えるべく、オーランは周囲を見渡した。氷祭といえば必ず出ているはずの店をそうして探す。
「いや、温かいものでもどうかなと思ってね。ああ、あった」
 目当ての店はすぐに見つかった。バルマウフラの頭越しに見えるその店は盛況のようで、結構な行列ができている。その列の長さに閉口して別の店を探してみるが、どの店も同じくらい賑わっているようだった。
「混んでるな……」
「グリューワイン? これ目当てで来る人も多いでしょう? 混まないほうがおかしいわよ」
 暢気に話している場合じゃなかったかもね、とバルマウフラが笑った。
「でも、いいわね。おごってくれるなら飲みたいかも」
「じゃあ、決まりだ。買ってくるから……そうだな、あの噴水で待っていて」
 樅の木とは広場を挟んで反対側に位置する噴水を指し、オーランは言った。こくりと頷くバルマウフラに「くれぐれも」と続ける。
「見知らぬ人にはついていかないように」
「……幾つの子供だと思っているのよ」
 むう、とバルマウフラは唇を尖らせて言ったが、そんな表情も危ういのではとオーランは内心で思った。彼女をひとりにしておけば、声をかけてくる輩はきっと大勢いるだろう。
「子供じゃないから心配なんだけどね?」
「ちゃんと大人しく待っているから、馬鹿な心配なんかしないでさっさと並びなさい」
「はいはい。それじゃ、またあとで」
 大きく溜息をついたバルマウフラに背を押され、オーランは店へと向かった。


 言われたとおりの金額をきっちり渡し、なみなみと注がれたグリューワインのカップを受け取る。大きめのカップ二つを片手で持つのは難しく、オーランは手にしたままだったカリアの枝を外套の隠しに突っ込んだ。
 立ち上る湯気からはスパイスを効かせたワインの香りがした。グリューワインは冬の飲み物だが、屋外で行われる氷祭では体が温まるからと殊に好まれる。ワインを温めているから酒精はだいぶ飛んでしまっているが、そのぶん飲みやすいというのも人気のひとつだろう。子供はホットミルクを、大人はグリューワインで氷祭を過ごすのがならわしだ。
「思ったよりだいぶかかったな……」
 予想より時間がかかってしまったことをバルマウフラはどう思うだろう。オーランはワインを零さないようにと注意深く歩きながら思った。
 きっと待ちくたびれてしまったことだろう。冷え込んできたから震えているかもしれないし、あまりの遅さに読みが甘いと怒るかもしれない。いずれにせよ、何かしらの心づもりはしたほうが良さそうだった。
「仕方ない、か」
 凍った石畳やすれ違う人々にも注意を払いながらオーランがようやく噴水まで辿り着いた頃には、グリューワインの湯気はすっかり儚くなってしまっていた。
 大きな噴水は待ち合わせ場所にはうってつけだと誰もが思ったのだろう、反対側の樅の木と同様に人でごった返している。その中には勿論バルマウフラもいるはずだった。
 いるはず、なのだが。
 広場に面した方向の噴水の周りはもはや立錐の余地もないほどの人混みだった。彼女は人混みをあまり得意としてはいないから、そちらにはいないだろうとオーランは思った。
 時計回りに噴水の周囲を歩く。裏側に行くにつれて少しずつ人は減っていき、真裏に達そうかという頃には落ち着いた雰囲気となっていた。それでも、噴水の縁に座る余地などはまるでなかったが。
「ああ、いたいた。……ん?」
 読んだとおりにバルマウフラは噴水の傍にいた。見慣れた彼女の姿にオーランは彼女のほうへ歩みかけ──、ふと足を止めた。
 バルマウフラは確かにいたが、ひとりではなかった。オーランの見知らぬ男が彼女の傍らにはいる。
 ──誰だ?
 オーランは眉根を寄せて訝しんだ。
 男は親しげにバルマウフラに話しかけていた。大袈裟なほどの身振り手振りでもって話すさまはまるで役者のようだとオーランは思ったが、すぐに逃避しかけた思考を切り替える。
 単に声をかけているだけか。それとも、彼女の知己か。
 前者ならば、遠慮なく割り込んで追い払うだけだ。だが、後者ならば。
 バルマウフラの知己といって真っ先に思いつくのは教会の関係者だった。これまでも何度か教会は彼女に接触を試みたから、今回もその類かもしれない。以前、連れ戻すのではなく始末するためだと彼女は笑ったが──、その類だとすると肝が冷えた。
「……」
 立ち止まったままオーランは慎重に目の前の光景を見極めた。
 馴れ馴れしく話しかける男にバルマウフラが追い払うように手を振る。面倒そうに顔をしかめているところから察するに、知己にせよそうでないにせよ彼女の心を動かす輩ではないらしい。そして、急を要するふうでもないようだった。
 心底ほっとしたオーランは二人の方へ大股に歩み寄った。先にバルマウフラが気付き、何事かを告げるように目配せをする。それを見てとり、オーランもまた頷いた。バルマウフラを口説こうと必死な男だけが状況の変化に気付かない。
 そんな男の背後にオーランはぴったりと立った。
「私の妻に何か用でも?」
 つくった低い声色でオーランがそう言うと、男は慌てた様子で振り返った。やはり見覚えのない男が何か言う前にオーランは笑みを一瞬だけ浮かべ、すぐさま真顔に戻った。
 去れ、と顎で示す。
「……畜生、連れがいたのかよ!」
 オーランの所作に男は鋭く睨むと、罵りの言葉と共に唾を吐いた。そうして石畳を力任せに蹴り、わざとらしく足音を立てて去っていった。
 負け犬のなんとやらだな、とその後ろ姿を見送りながらオーランが思ったそのとき。
「私の妻って何なのよ……」
 ぐい、と唐突に外套の裾を引っ張られ、オーランは平衡を崩した。見ると、バルマウフラが今しがたの男と同じくらいの鋭さでこちらを睨んでいる。
 噴水にも数多置かれている蝋燭のおかげで、彼女の眼光の鋭さがどれほどのものかは分かる。だが、彼女がどんな表情を浮かべているのかを知るには、僅かに距離が離れているようにオーランには思えた。
 ──いつもと同じ、かな。
 へらり、とオーランは笑い、バルマウフラとの距離を自然な調子で詰めた。平衡を崩しながらもなんとか死守したカップの片方を差し出すと、想像通りの膨れ面で彼女はそれを受け取った。
「まあ、言葉の綾だよ」
「綾、ねえ……。色々と、だいぶ引っかかるんだけど」
 胡乱な目つきを隠そうともせずにバルマウフラが言う。
「嫌だった?」
 訊きながらオーランがカップを掲げると、バルマウフラもそれに応じた。コン、と小さな音が鳴る。
「……引っかかるだけよ」
「そうか」
 カップの触れ合う音と負けず劣らずの小さな声を揶揄する気もなく、オーランはグリューワインを一口飲んだ。やはり、ワインはすっかり温くなってしまっている。
 横目で見ると、バルマウフラもワインの温さを感じ取ったらしい。諦め顔で彼女は溜息をついた。
「もう少し早く帰ってくれば良かったのに」
 両手でカップを持ち、バルマウフラが独りごちる。
「そうすればこんなに温くならなかったし、それに」
「変な輩に絡まれることもなかった?」
 オーランが先回りをすると、バルマウフラは顔を上げた。そうして珍しく素直に頷く。
「この人混みで、この石畳だからね……。それについては謝るよ。何人?」
「五人」
 声をかけてきた人数を言外に訊いたオーランに、バルマウフラが片手を挙げた。分厚い手袋に覆われた指で告げた数字を示す。
「今のと、その前に三人」
「四人じゃなくて?」
 合わない数字にオーランは首を捻った。簡単すぎる計算だが、そのまま受け取ってしまっては分からない何かがあるらしい。何故かじっと見上げてくるバルマウフラの視線にそんなことを思う。
「あともうひとりは……」
 誰、とオーランが訊ねようとしたそのとき、バルマウフラが目の前に指を突きつけてきた。
「え?」
「何言ってるの。真っ先で筆頭じゃない」
 言い切るバルマウフラに、オーランは目を丸くした。
「僕も?」
「そうよ。声をかけてきて、口説いて。さっきの男とは少し違う手口だったかもしれないけれど……まあ、似たようなものね」
 そう言うと、バルマウフラは口の端を上げた。否やは言わせない、という風情の彼女にオーランは思わず脱力する。
 確かに、と思った。
 まだ彼女も自分も南天にいた頃──教会の命を受けて彼女が潜入していた頃──、なんとなく声を幾度かかけた。見慣れない者がいつの間にか我が物顔で闊歩しているのが気になった、というのが声をかけた最初の理由だったと思う。だが、彼女の素性を「調査」で知った後も声をかけたのは、そればかりの理由ではなかった。
 夜のゼルテニアを共に逃げ出した後に同行を求めたのも。
 自由の身となったはずの彼女に、これからも傍で見ていてほしいと願ったのも。
 ……心当たりは多分にあった。
「嫌だった?」
 先刻と同じ問いを再びオーランはバルマウフラに投げかけた。彼女の性格を思えば、嫌なものは嫌だとはっきりと言うだろう。そして、嫌ならばこの場にはとうの昔にいないはずだ。
 確認の意味だけで訊くと、彼女は笑った。
「そうだったら、ここにはいないわ。……ねえ、少しいい?」
「何だい?」
 予想通りの返事に心が落ち着くのを感じながら、オーランはバルマウフラの問いを待った。
「さっき「私」って言ったわね。でも、私に話しかけるときは「僕」で……いつだったかしら、「俺」って言うときもあったわよね」
「ん? そうだね」
 確認するように言うバルマウフラにオーランは頷いた。
「使い分けているだけなんだけど、不思議?」
 問い返してみると、バルマウフラは首を横に振った。
「それは分かるわ。相手に合わせて使い分けるのは、そんなに不思議なことじゃない。……でも、そうね。やっぱり不思議なのかも」
 バルマウフラは考えながら言葉を紡いでいるようだった。その思考の行き先が何処に向かうのか掴みあぐねたオーランは、次の言葉を待つ。
「貴方は目上の人には「私」って言っていた。不思議なのは……さっきの奴にも「私」なんて言ったことよ。あれは?」
 彼女の問いに、オーランは先刻の自分の言葉を思い出してみた。そういえば、名乗ったときに「私」と咄嗟に言ったかもしれない。特段意味を込めて言ったわけではないのだが、彼女の心には妙に留まったようだった。
「よく考えて名乗ったわけじゃないけどね。「僕」のほうが良かったかな」
「どうかしらね。なめられるんじゃない?」
「じゃあ、「俺」で野性味を出してみるとか」
「……たぶん、似合わないわよ?」
 想像してみたのだろう、バルマウフラが渋い顔をする。確かに、とその表情にオーランは思った。今となっては「俺」と自分を呼称することなど殆どない。そんな相手と相対することもなくなった。
「だとすると、「私」で良かったかもしれないね。──ああ、そうか」
「何?」
 得心したとオーランは頷いてみせると、不思議そうな顔で見上げるバルマウフラに笑いかけた。
「君はときめいたんだ。思いがけず大人の余裕を見せた、この僕に」
 オーランはわざとらしく断言し、バルマウフラの顔を覗き込んだ。みるみるうちに彼女の顔が朱に染まっていくのが分かる。
「なっ……」
「そうだろう?」
 絶句したきり固まってしまったバルマウフラの頬に掠めるような口づけをし、オーランは素早く身を引いた。蹴りが飛んできてもおかしくないほどのことをしている自覚はあるが故の逃げだ。常ならばこの間合いで蹴飛ばされる。
 だが、今夜は違うようだった。
「バルマウフラ?」
 うろうろと視線を彷徨わせてバルマウフラが一歩を詰める。蹴らないのか、とオーランが思ったそのとき、軽い音と共に小さな衝撃を胸に感じた。
 バルマウフラが抱きついてきたのだ。
「え? いや、あの、……バルマウフラさん?」
 思いもかけない彼女の行動に、オーランは動揺した。その拍子に声が裏返ってしまったが、そんなことを気にしている余裕はどこにもない。
 嬉しいとは思う。嬉しいが、しかし。
「……人目があるよ?」
 抱きしめるべきか否かと思いながらオーランは周囲を見渡した。結果、誰も見ていないと分かったのだが、それでも訊かずにはいられなかった。
「構いやしないわ」
 間近で聞こえる彼女の声が意外な言葉を紡いだ。その返事にオーランは目を瞬く。
 ──らしくない、ような。
 オーランはそう思った。普段の彼女ならば、とっくに怒っていて──睨むか蹴るか無視するか置き去りにするか他の手段かは分からないがいずれにせよ──こんな甘やかなことは言わない。甘えるような素振りも人目のつくところではけしてしない。
 なのに、だ。
「それとも、貴方が嫌?」
 鼻にかかるような声でバルマウフラが言い募る。その声色もやはり甘く、オーランは己の鼓動が早まるのを感じた。
 ──このままじゃ確実に落とされる。
 同じような流れがさっきもあったな、とオーランは思った。あのときは結局自分の勘違いで終わったが、果たして今はどうだろう。
 彼女は本気なのか。それとも。
「嫌じゃない、むしろ歓迎だが……。もしかして、酔っ払ってる?」
 時間稼ぎにオーランが問うと、バルマウフラは即座に首を横に振った。見上げてくる瞳が潤んでいるのと相俟って、幼く見えるその仕草はオーランをくらくらさせた。
 酔っぱらいは自分が酔っていることを認めないものだが、彼女もその例に漏れないのだろうか。いつもなら、酔ったところも見せないのに。
「こんな私はおかしい?」
「……変、といえば変かな。いつもの君らしくない」
 バルマウフラのさらなる問いにオーランは正直に答えた。その途端、彼女の表情が険しくなる。
「いつもの私って何? 私らしいって?」
 それこそ「いつもの」尖った声音でバルマウフラは畳み掛けた。空いた片手でオーランの頭を引き寄せると、唇が触れ合いそうな距離で続ける。
「貴方は私の何を知っているのかしら?」
「え……」
 オーランは答えに窮した。
 ──自分は、彼女の何を?
 彼女の問いは、頭を金槌で殴られたような感覚をオーランにもたらした。鈍痛が体中に沁み渡るように彼女の言葉も全身を廻る。
 いつもならば。普段ならば。確かに自分はそう考えていた。思っていた。──なんとはなしにそう決めつけていたのではないか。彼女の断片を切り取って、自分の都合の良いように解釈していたのではないか。
 彼女の心の表だけを掬って、それで。
「……」
 自分の思考の浅はかさにオーランは立ち竦んだ。引き寄せられた姿勢のまま、ごく間近にある彼女をただ見つめる。真顔の彼女に返す言葉はなかった。
 行き交う人々の笑い声も、打ち鳴らされる手拍子も、上がり始めた花火の音もどこか遠くに聞こえる。自分の鼓動の音、互いの息遣いの音。そればかりがやけに響いた。
 いつまでも耳に残る潮騒のように。
「冗談よ」
 どれほどの時が過ぎただろうか、すい、とバルマウフラが目を細める。そのまま彼女は目を閉じ、オーランへと口づけた。
 触れるだけで、唇はすぐに離れた。それを寂しいと思う余裕もなく、オーランは呆然と彼女を見つめた。
「バル……」
「冗談よ、冗談。「大人の余裕」はどこへ行ってしまったの、オーラン?」
 名前を呼びかけたオーランを遮り、バルマウフラは微笑む。言葉こそ「普段通りの」彼女だったが、優しさに満ちた声音も浮かべられたその微笑みもオーランの知る彼女のものではなかった。
「いや……それは……」
 今まで知らなかった彼女の一面に心を囚われ、オーランは口ごもった。心のままにただ見つめると、バルマウフラが困ったように笑う。
「お返しよ。いつもやられてばかりじゃ割に合わないんだから。さあ、そろそろ行かない?」
 身を離したバルマウフラが手を差し伸べてくる。オーランがその手をとると、彼女は手袋越しに緩く握ってきた。
「せっかくだから花火も見たいわ。でも、その前にカップを返してしまって……。……ああ、それからオーラン」
 次第に早口になるバルマウフラを未だぼんやりとした思いでオーランは見ていたが、彼女の呼ぶ声にようやく我に返った。
「な……何かな?」
「カリアの枝。まだ持っているようだけど……樅の木に結ぶのだったら急がないと」
 彼女の視線と言葉に導かれ、オーランは外套の隠しに突っ込んだままだったカリアの枝に目をやった。そういえば、存在すら忘れてしまっていた。
 空のカップをバルマウフラが返している間に、枝を隠しから取り出す。しばらくその枝を眺め、やがてオーランは首を振った。
「これは必要ないんだ」
「え?」
 バルマウフラの手を引き、オーランは枝の回収箱へと向かった。不要となったカリアの枝を回収するため、広場の其処此処には箱が据えられている。そのひとつに枝を入れてしまうと、不思議そうなまなざしを向けてくる彼女にオーランは向き直った。
「……いいの?」
「最初は義父上の枝も結ぶつもりだったんだけれどね。結ぶのはオヴェリア様のぶんだけでいい」
 僅かに目を伏せてオーランが言うと、そうね、と呟きが返ってきた。
「それでいいと思うわ。貴方がそう思っているのなら」
 彼女の言葉にオーランは頷いた。
 春先に見た青年の後ろ姿。あれが幻でなかったのなら、義父もきっと。
 ──きっと、元気で。
 おそらく、会うことはもう二度とない。それでも、カリアの枝を結ぶ必要はないと思った。
 少なくとも、今は。
 広場いっぱいに響く音と共に花火が打ち上がる。見上げると、銀の光が闇に煌めいていた。
「バルマウフラ」
 傍らで同じように見上げる彼女の名を呼ぶ。目線だけをこちらに向けてきた彼女に、オーランは笑んだ。
「これから、でもいいかい?」
 今はまだ分からない。分かったつもりでしかない。彼女の「本当」は。
 ──だから、これから。
 言葉の切れ端の意味を正しく捉えたのだろう、バルマウフラは再びあの微笑みをひらめかせた。小さく頷き、肩を寄せてくる。
 そうして彼女は囁いた。
「いいわ。……私も、だから」
「……そうだね」
 また花火が上がる。今度は金色の光の粒が緩やかに散っていった。
 星のように。魂のように。
 寄せられた肩を抱き、オーランはその光景を眺める。何かを言う必要はもうなかった。
 見上げた夜空、儚く散った偽星の後には本物の星が静かに煌めいていた。

あとがき

2020年6月に発行した「STARWALKERS」の再録作品です。獅子戦争終結の年、オーランとバルマウフラが同居生活を始めた冬の話となっています。

オーランのお父さんとシド伯は戦友だったということですが、オーランパパはどんな人だった(性格もですが、地位とか役割とか)のか気になります。ラムザパパのバルバネスさんとは違った間柄だったのではなどと想像(妄想)しているのですが、どうなんだろう…。主従関係いいなとか、階級はジェントリあたりかなとか、やっぱり軍師や参謀系だったのかしらとか(戦場で死亡、とブレイブストーリーにありますが)。考えると長くなる…。

「氷祭」というお祭りについては、オリジナル設定です。拙作のあちらこちらに出てくるお祭りですが、イメージは冬至とクリスマスを足して2で割ったような感じです。

2020.06.20 / 2023.01.22