STARWALKERS - 雨の日の夢 -

 漆喰が剥がれかけた壁のような具合だった。
 時折吹き荒れる砂嵐のような具合でもあった。
 古びた羊皮紙の端。引っ掛けてできてしまったかぎ裂き。中身のなくなったインク壺。錆だらけの鐘。
 暗い隧道を抜け、白い光の渦に突き落とされる。ふと仰いでしまった陽に眩むような、そんな具合。
 薄衣をまとったように紗がかかっているわけではない。
 靄に包まれているわけでもない。
 普段省みることもないそれは、朽ちた小箱の中に入っている。鍵はないが、歪んだ蝶番が開けようとする者を拒む、そんな箱に。
 それが何なのか、彼女は知っていた。彼女だけが知っていた。何故なら、それは彼女のものだから。
 だが、彼女も忘れていた。もう、長いこと。
 心の片隅に置き忘れていた小箱。その中にあるものは──。

 バルマウフラは足早に歩いていた。
 道に転がる小石を足裏が覚え、裾や袖口から入り込む埃っぽい風が肌に触る。それらに顔をしかめながら彼女は使い先へと急いだ。
 底が擦り減った靴は少し大きく、春先に着るには薄手すぎる服もまた同様に大きい。どちらもお下がりなのだから仕方がないのだが、後でもう少し直さなければと思う。
 歩きながら重い籠を持ち直す。すると、籠に入った瓶がカチャカチャと音を立てた。
 教会で作った葡萄酒を懇意にしている家や店へ配って歩くのが、今日の彼女の仕事だった。教会に住む子供達で手分けをし、それぞれが重い籠を持って街に散る。辿り着いたら日頃の礼を丁寧に言い、葡萄酒を渡す。そうして、幾許かの寄付をそれとなく求める……そこまでが今日の自分達の仕事。
 冷たい水に触らなくて済むから、今日の仕事は楽だなとバルマウフラは思った。籠は重いし、礼に添える笑顔は得意ではない。貰うものだけ貰って扉を閉める大人に悪態をつくこともある。それでも、少しはましだった。
 ──早く終わらせて帰ろう。
 そう思い、最初の家の扉を叩いた。しばらく経って顔を出した使用人は主人の不在を素っ気なく告げ、犬猫を追い払うように手を振った。
 閉まりかけた扉を手で押さえ、早口で口上を述べる。不機嫌そうな色を隠さない使用人に葡萄酒が入った瓶をつくった笑顔で渡し、急いでその場を離れた。
 扉を叩く。笑顔をつくる。礼を言う。葡萄酒を渡す。運が良ければ寄付の依頼を。
 最後の一本になるまでそれを繰り返したが、結果は芳しくなかった。寄付の話まで漕ぎ着けても半分は渋い顔をし、もう半分が気の毒そうに扉を閉める。笑顔で応える大人はひとりもいない。
 仕方ない、とバルマウフラは思う。
 戦がそうさせている、と訳知り顔でそう教えてくれたのは教会をよく訪う大人達だった。もう長いこと続いている隣国との戦でこの国は駄目になってしまった。王はおろか貴族も重税に喘ぐ民には見向きもしない。貧しくなっていく現実を直視しようとしない。せめて勝ち戦なら、とも思うが旗色は悪いらしい……。
 嘆きなのかぼやきなのか判断のつかない大人の言葉はよく分からなかったが、諸々を諦めてしまうには十分だった。
 真新しい靴や服。甘いお菓子。可愛い人形。安息日に出されるという雉の丸焼き。ただでさえ孤児には縁遠いものばかりなのだから、この先それらを手に入れるなどということは夢幻に違いない。
 故に彼女は諦めることを覚えた。仕方ない、と現実を適当に受け入れるすべを覚えた。
 そう、仕方がない。ちっぽけな自分にできることなんて何もないのだから。彼女は思った。
 軽くなった籠を腕にかけ、最後の一軒である商家を訪ねた。鉄扉に据え付けられた呼び鈴を引っ張り、待っている間に口角を上げた。思い出さずともすらすらと口をついて出る言葉をもう一度だけ頭に呼び起こし、それから深呼吸をする。
 この商家は別格だった。街の小さな教会にとって生命線ともいえるほどにその存在は大きく、それはそのままバルマウフラ達孤児の運命をも左右する。そう思うと失敗は許されなかった。
 だが。
 たっぷり四半刻は待っただろうか、現れた使用人は手に何かを持っていた。門の向こうに佇む孤児を使用人は一瞥し、葡萄酒はもう不要だと告げた。
 バルマウフラは顔色をなくした。今年だけですか、と問う声が震えた。
 使用人はゆっくりと首を横に振った。手紙らしき紙切れを門扉越しに渡してよこし、神父様に知らせるようにとだけ言い残して去っていった。
 後にはバルマウフラだけが残された。
 閉ざされた門扉に力無く触れ、しばらく彼女はその場に呆然と立ち尽くした。砂埃の舞う風が全身を洗ったが、そんなことに気を回す心の余裕はなかった。他の家や店のときと同じように悪態をついてやり過ごすなどということもできなかった。
 転がり落ちる坂道の先に待っていたのは脆い崖だった。昨日から続く今日、今日から続く明日の先に見えるものはもう何もない。
 あるとすれば、絶望という名の海くらいだろうか。
 やがて、彼女はぱちぱちと目を瞬かせた。忘れていた呼吸を意識して繰り返すと、目に入った砂を押し流すべく浮かんだ涙は乾いた頬を流れた。
 ──仕方が、ない。
 緩みかけた心の螺子を締め直そうと歯を食いしばる。乱暴に擦った目で商家を睨むと、彼女は門扉から手を離した。
 睨んだまま一歩退く。そうしてまた一歩。後ろ歩きでそのまま街路へと戻ろうとしたそのとき、背後から車輪の音が聞こえた。
 振り返ると、品の良い仕立ての鳥車がこちらへと向かってくるのが見えた。路の中央を歩いてしまっていることに気が付いたバルマウフラは、慌てて道脇へと退いた。
 ──貴族様だろうか。だったら。
 通り過ぎようとする鳥車をぼんやりと眺めながらバルマウフラは思う。
 ──この葡萄酒、持っていってくれないかな。
 街の大商人には見事に振られてしまったが、それよりも貴族に捧げられれば教会が受ける見返りはそのほうがずっと大きいだろう。そうすればこれからの糧に困ることもなくなるし、今回の失態で罰を受けることもない。それどころか、よくやったと褒めてくれるかもしれないし、新しい靴や服を買ってもらえるかもしれない。
 衝動のままにバルマウフラはふらりと一歩前に出た。そうしてまた一歩。
 路に出てきた子供に気が付いたのだろう、鳥車の御者はぎょっとしたような顔で手綱を引いた。驚いたのか、車を引いている鳥も妙な鳴き声を上げて歩く速度を落とす。
 好機だった。
 睨んできた御者には目もくれず、バルマウフラは車に向かった。何事かと外を見やった鳥車の乗客──きっと貴族様に違いないと彼女はそう思った──に急ごしらえの笑みとともに籠を掲げる。
 ──あの、これ。教会で、葡萄酒を作って、それで。
 あれほどすらすらと出ていた口上はすっかりたどたどしく、頭の中は真っ白になった。何を言おうか、何を言っているのか、自分でもよく分からなくなっていた。
 それでも、と彼女は思った。震えだした体を励まし、乗客を見つめた。
 だが、戸惑う様子の乗客と張り付いた彼女を無視して鳥車が再び動き出す。御者の舌打ちに気を取られる間もなく、よろけた彼女は籠を落とした。
 聞こえたのは、自分を蔑む他人の心。それから、砕けて消えた自分の未来。
 落とした籠から赤い液体が流れ出る。転んだ彼女はその正体を勿論知っていたが、そのとき思い浮かんだのはまったく別のものだった。
 砂埃に塗れた路に流れたのは、葡萄酒などではなく夥しい血。
 砂埃に塗れた路に伏すのは、瓶などではなく自分の骸。
 ──それは、そう遠くはない未来に必ず起きること。
 啓示めいたそのひらめきは、凄まじい速さで彼女の心を縛り上げた。僅かに残っていた心の柔らかな部分を蝶番の歪んだ小箱に閉じ込め、溶けぬ氷を代わりに満たす。そうして凍りついてしまった心を棘のついた鎖でがんじがらめにしてしまうと、最後に啓示は彼女へ仮面を贈った。
 彼女は、それを静かに受け取った。


 小さな箱の中にあるのは、封じられてしまったのは、古い記憶。諦めの中に漂うかすかな期待。明日。未来。
 思い出すこともなくなったもの。思い出せなくなったもの。
 忘れてしまったものは──、心。
 啓示が施した鎖は解けるはずもなかった。それ故に、未来を望む彼女は存在するはずもなかったのだ。
 だが。
 季節は巡り、星も巡り、人も巡る。
 その、只中で。

 耳には聞こえぬ音とともに、彼女は鎖から解き放たれた。

 雨が降り続いている。
 眠りに落ちる前からずっと聞こえる雨音に促されるように、バルマウフラは意識をゆっくりと覚醒させた。
 朝が近いのか、それとももうとっくに朝なのか、窓に張ったタペストリの隙間から見える外は薄明るい。正確な時刻こそ分かりようもないが、この天気を考えるとたぶん後者なのだろうとバルマウフラは思った。
 雨の朝は嫌いではない。勿論、何日も降り続く長雨ともなると鬱陶しいことこの上ないし、快晴の朝もまた捨て難い。だが、何の予定もとりあえずは見つからずにぼんやりと過ごすことができる日の始まりとしては、これはこれで良いものだと思う。
 何にも急かされることなく、ゆったりとしたまどろみから目覚める朝。今日の雨はその一助だった。
 何より暖かい。部屋に冷気は満ちているし、そもそも何も身に着けていないからそのぶんだけ肌寒くはあるが、それでも上掛けを被ってしまえば十分に暖かかった。
 その暖かさが心地良くて、再び瞼が閉じかける。眠いというわけではないが、もう少しこうしていたいとなんとなく思った。
 幸せだから、というのとは違うとバルマウフラはぼんやりと思った。今は満ち足りているから? 続いてそう考えてみたが、それもなんだかしっくりこない。
 ただ、本当に、なんとなく。今はこうしていたい。
 ──不思議ね。
 この感情の変化はいったいどうしたことだろう。そう思い、バルマウフラは忍び笑いをもらした。かつての自分とは少しずつ変わってきていると思う。何がどう、とはいえないのだが、何かが違う。
 持ち前の気の強さも、突き放すような物言いも、他人への手厳しさも基本的には何も変わっていないはずなのに、昔の自分とは何かが。
 ──そういえば。
 昔、という符号に思い至り、彼女はうっすらと目を開いた。
 夢を、見た。幼かった頃の、忘れていた遠い過去の、そんな記憶を思い起こすような夢を。
 その夢は懐かしさを帯びてバルマウフラに語りかけた。こんなこともあったでしょう、と包み込むような優しさで漆喰が剥がれかけた壁のような記憶を呼び起こした。
 夢の中身は──、記憶自体は優しいものではなかったけれど、胸をぎゅっと締め付けるようなものではもはやなく、ただ懐かしく思えた。
 そんな夢を、最近見るようになった。夢だけではない、ふとした拍子に思い出すことも多くなった。
 まるで、固く閉じられた箱を開けたかのような。
 戒めの鎖を解いたような。解かれた、ような。
 ──何故、かしら。
 答は出ていると思いながら、唇だけでそう呟いた。
 素直に認める気にはなれないが、ひとりではないというこの状況がそうさせているのだろうとそんなふうに思っている。それが自分なりの答だ。……あまり認めたくはないことだが。
 守るように、包み込むように。そんなふうに今も自分を抱いている背後の男が、きっと。
 ふう、と息をつくと、バルマウフラは手を滑らせた。そうして自分の腰を撫でさすっている男の手をつねった。
「起きているんでしょう、オーラン」
「痛いなあ」
「変な真似をするからよ」
 笑い含みの声を背に受けたが、バルマウフラは振り返らずに言った。掠れているが、いつもの声色が出せて少しほっとする。
 だが、オーランはそれを聞き逃さなかったようだった。
「風邪かな?」
 その問いに、バルマウフラは渋い顔をした。どこか嬉しそうな響きをもって聞こえてくる男の声に嫌な予感がした。
「違うわ」
 先手を打っておくべきかという考えもちらついたが、それがどう転がるかは分からない。だから、できるだけ素っ気なく答える。
 そうか、とオーランは呟くと、つねられた手をそのままにしてバルマウフラの腰を撫でた。
「昨夜、たくさん声を出したから、とか」
 その言葉に、バルマウフラは血が逆流するような思いになった。素早く起き上がり、枕を掴む。
「違うわよ! オーラン、貴方って本当に……っ」
 罵りの言葉とともに枕をぶつけようとしたバルマウフラは平衡を崩した。振り返りざまに腕を引き寄せられ、口づけられる。枕は的はずれの方向に飛び、どこか遠くで間抜けな音を立てて落ちた。
 挨拶のように唇を数度軽く食んだかと思うと、閉ざした歯列を男は舌先でつついてきた。悪戯めいた口づけにバルマウフラがきつく睨むと、男は嬉しそうに目を細めた。
 口づけは目を閉じてするもの、と言ったのは誰だったろうと頭の片隅でバルマウフラはふと思ったが、露骨なほどに幸せそうな男のそのさまには毒気を抜かれる格好になった。
 ──それなら。
 掴まれたままの腕をバルマウフラは引き抜いた。どうするのか、という興味深そうな視線には一瞥を返し、その体に半身を覆いかぶせる。両肘を男の肩に乗せ、そうして彼女は自分から口づけた。
 真夜中の色を持つそれではない。男が仕掛けた戯れのようなそれでもない。その狭間のような口づけは結構好きだと彼女は思う。自分が主導権を握っていれば尚のこと良い。
 食む。なぞる。絡め、互いの吐息と唾液を分け合う。
 軽く絡めた舌を最後に吸い、彼女は身を起こした。満足そうに笑ってみせると、男は苦笑を返してくる。
「情熱的だね、バルマウフラ」
「どうかしら。大体、仕掛けてきたのはそっちでしょう」
 色のない手付きで背を撫でるオーランにバルマウフラは言い返し、その胸板に手を置いた。初めて触れ合ったときには軍師という割には意外だとも思ったが、程良く引き締まった男の体は自分には好ましい。
 もっとも、そんなことを伝えでもすれば目の前の男は調子に乗るから言うつもりは毛頭ない。だが、こうして触れるのも楽しくて好きだった。それに、なんだか落ち着く。
「それはそうだけど、応えてくるなんて珍しいなと」
「そんな気分だっただけよ」
 常のすました調子でバルマウフラが言うと、見下ろした先でオーランは喉で笑った。
「惜しいな。もう少し時間が早ければ良かった」
「どういうこと?」
 オーランの言葉の意味が理解できず、バルマウフラは小首を傾げた。動いていく視線につられて窓を見ると、外は先刻よりもう少し明るくなっていた。
「朝だから……いや、もう昼かな? まだ暗ければ喜んで君の誘いに乗ったんだが」
「……色々馬鹿ね」
 自分を棚上げにしてバルマウフラは呆れてみせた。置いたままだった手で胸板を軽く叩き、男に起床を促す。本当はもう少しこうしていたかったのだが、これもまた言うつもりはなかった。
 何にも急かされることなく、ゆったりとしたまどろみから目覚めた朝。こんな日は猫のようにごろごろするのも良いのだが、残念ながら話の流れは起きる方向へと既に向かっている。
 ──残念、か。
 男の言葉がなければ、自分はどうしていただろう。
 手探りで自分の服を手繰り寄せながらバルマウフラは自嘲するように口の端を上げた。持て余し気味な自分の心の正直なところに仮の蓋をし、服を着込もうとして手を止める。
 服は少し──、いや、だいぶ大きかった。
「バルマウフラ、それは僕の……」
「……そのようね。……まあ、いいわ」
「いいのかい?」
 ぶかぶかの服に包まれてしまったバルマウフラは自分の失態に一瞬脱力したが、すぐに頭を切り替えた。男の服を着てしまったのはこれが初めてではないし、今の気分ではそれほど抵抗感もない。むしろ、今までの余韻が続いているようで心地良いくらいだった。
 すっかり着替えてしまうとバルマウフラは寝台から降り、窓へと向かった。そうしてタペストリを捲ろうとして──、裸のままの男を振り返る。
 男は少し情けない顔でこちらを見ていた。
「僕の服は……」
「上掛けを巻き付けるか、私の服を着るか。好きなほうを選びなさいな」
 男に向かってそう言い放つと、バルマウフラはにっこりと笑った。



 秋の雨がもたらす肌寒さは変わらなかったから、暖炉に火を入れた。敷いたばかりの厚手の絨毯の上に陣取り、思い思いに時を消した。
「夢を見たの」
 揺れる炎をなんとなく見つめながら、バルマウフラは背中合わせで座る男に言った。読み終えてしまった魔術書を傍らに置くと、返事を待たずに続けて話す。
「夢、というのか本当は分からないけれど。幼かった頃のことを最近よく思い出す……それで夢に見ることもあるといったほうが正しいかしら」
 幼かった頃の、忘れていた遠い過去の、そんな記憶を思い起こすような夢を。
「小さかった頃の?」
 ぱたり、と本を閉じる音がする。聞く姿勢を取ったらしい男に向き直り、バルマウフラは頷いた。
「聞いてもらってもいいかしら?」
「夢占はできないけれど、僕で良ければ」
 そう言うオーランに、バルマウフラは小さく笑う。
「分かってるわよ、占星術士さん」
「そういうことだね。……じゃあ、膝を貸してもらえるかな?」
「は?」
 笑みとともに告げられた予想外の申し出に、バルマウフラは思わず変な声を上げた。
「どういうこと?」
「昔話を聞くには穏やかな環境が必要だろう?」
「ちょっと、オーラン!」
 言うやいなや身を傾がせたオーランをバルマウフラは押し止めた。それなりに重さがある男の体を勢い任せに戻し、そうして素早くその膝を枕代わりにして寝転ぶ。
「その手にはそうそう乗らないわよ。……うわ、硬いわね」
「バルマウフラ……」
 諦めとも困惑ともつかない苦笑まじりの溜息とともに名を呼んできた男を見上げる。陽の光の下で見れば僅かに茶も入っている彼の瞳は、この角度からは只一色の黒にしか見えなかった。
 その瞳が緩やかな弧を描く。
「仕方ないな。寝心地は悪いから大丈夫だろうけど、話しながら眠ってしまわないように」
「心配ご無用よ」
 そう言いつつも寝かしつけるように撫でてきた男の手を取ると、バルマウフラは自分から指を絡ませた。


 語るのは、思い出すのは、砂埃の混じった乾いた風だ。
 名も知らぬ小さな街。小さな教会。小さな自分。
 大きかった服や靴。重かった葡萄酒入りの籠。
 諦めることを感じ取っていた心。だが、その奥底では何かを期待していた心。
 大人達の暗い溜息。遠くて近い戦の影。
 容易に訪れる絶望。希望とは何なのかよく分からなかった。
 それは、自分にぴったりな新しい服や靴だったろうか。
 明日の糧を請い、葡萄酒を渡して歩く。ただ生き延びる、それも希望だったろうか。
 答を寄越してくれる者はいなかった。
 希望を渡してくれる者もいなかった。
 未来を消し去る者だけは数多く。
 鳥車の御者。困惑顔の貴族。よろけた自分。
 落ちた籠。割れた葡萄酒の瓶。
 乾いた路に流れた葡萄酒の色は血の色をしていた。

 思い起こすのは、漆喰が剥がれかけた壁のような記憶。
 遠い、遠い、記憶。


「……」
 絡めた指先をあやしていた男の手が止まった。
「心配ご無用って言ったのに」
 バルマウフラは笑った。
 見上げる先、オーランはひどく複雑そうな顔をしていた。何かを言おうとして開きかけた口をまた結び、眉根をきつく寄せる。その表情はいっそ自分よりも痛みを感じているようにバルマウフラには見えた。
「同情なんてしないでね。……ただ話してみたかった、それだけだから」
 語った記憶は、確かに優しくも楽しくもなかった。どこにでもあるような、本当にありふれた、ただの現実。自分だけではなく、この国に住まう多くの子供達が見た景色。だが、眼前の男はそれを見たことはおそらくない。せいぜい書類に上がってきた数字で知っていただけだろう。
 かつての自分は、それを許容していただろうか。何も言わない男に対してバルマウフラは思う。
 ──どうだろう。
 諦めることには慣れていた。その延長線上でもしかしたら許していたのかもしれない。男だけではなく、この国の民を数でしか見ない者達のことも。
 そんなものだとやはり思っていた。冷めた目で見つめ、皮肉まじりの言葉を時折吐くぐらいだった。
 だが、怒りがないわけではなかった。むしろ、逆だった。
 昏い怒りがあったから、自分は教会の駒から抜け出さなかった。そして、すべてを利用して絵空事を成し遂げようとする「あの男」を監視し続けた。命じられただけではない、自分の意思もそこにはあった。
 絵空事なんて大嫌いだった。絶対的な現実に歯向かう馬鹿げた妄想など、それこそ許せないものだった。怒りの矛先は馬鹿な御歴々ではなく、馬鹿げた絵空事にあった。
 自分は諦めることばかりを知る「持たざる者」だったから。あの男とはまた別の意味で、そんな存在だった。
 だが。
 己の怒りの内側に潜んでいた別の怒りもまた、自分の内に実はあった。ゼルテニアの夜、あの瞬間まで自分は認めずにいただろうが──、それが矛先を変えた。自分は剣を向け損ね、そして自由になった。
 そうして。
 そうして、今がある。
 過去と決別し、過去と再会した、今が。
 懐かしさだけを帯びた過去と語らえるようになった、今が。
「思い出せて良かったわ」
 手を伸ばし、バルマウフラは男の乾いた頬を撫でた。
「……痛いところは?」
「ないわね」
 即答すると、オーランはようやく険しい表情を緩めた。されているのと同じような所作でバルマウフラの頬を撫でてくる。
「ただ、懐かしい?」
「そうね、懐かしいんだと思う」
 撫でられる頬がくすぐったいのと、問う声が優しすぎるのとで、バルマウフラは思わず笑ってしまった。
「バルマウフラ?」
「……貴方は聡いけど妙にお人好しなところがあるから、こんなことを話せば気にするだろうと思っていたわ」
 怪訝そうな色を表情に混ぜたオーランを諭すように、バルマウフラは静かに言った。
 同情なんてしないで。哀れまないで。そう言うのは簡単だ。
 だが、言われた側は果たしてそれができるだろうか?
 目の前の男に、それが。
「それは……気にするさ。でも」
 唇に指先で触れ、バルマウフラはオーランの言葉を遮った。
「貴方は同情なんてしないでしょう。気にはするかもしれないけれど」
 何も言えなくなった男にバルマウフラは続ける。
「でも、それだけ。だからこそ、私は今こうしてここにいるの」
 ゼルテニアの夜。
 あの逃避行から今までを思うと、気付かずにはいられない事実はそこにあった。
 初めのうちは馴れ馴れしいと思った。哀れみや同情といった感情から同行を求めたのかと思った。それとも体か。そんなふうに思っていた。
 だが、行動を共にしているうちにそんな考えに違和感を覚えるようになっていった。
 隣に立つようになって気付いたことが確かにあった。……その源にある感情の正体を言い当てるつもりはないが、それでも確かに。
「そう、私はここにいる。誰に言われたわけでもない、自分の気持ちでここに」
 それが分かってきたから、こうして話した。
 指を離して告げると、オーランは真顔のまま頷いた。そうだった、と小さく呟き、かすかな笑みを浮かべた。
「それは嬉しいな」
「調子に乗らないでね」
 釘を差し、バルマウフラも笑った。
 もしかすると、と心の片隅でそうして思う。たぶん、と確信の色を帯びてその仮説は組み立てられていく。
 この男は、とっくに自分のことなど調べ上げているのだろう。同行者となってからなのか、あの夜の後か、初めて相対したときか、それよりももっと前か……それは分からないが、多くの間者を纏め上げていた男にそんなことは造作もないことだ。
 ──私が知っていることも、そうでないことも、きっと。
「……だからどうだっていうのかしら」
「バルマウフラ?」
 ふと漏れてしまった独り言を耳にしたらしい男には首を横に振り、バルマウフラは目を閉じた。寝返りをうち、男の背に腕を回す。
 幾多の事実を飲み込み、少しばかりの感情には目を背け、それでも自分の気持ちで今はここに。
 それは、自分にとって確かな真実。
「結局寝てしまうのかい?」
 多分に笑みを含んだ溜息が降りてくる。猫のようだねという呟きを無視し、バルマウフラは伝わってくる暖かさに身を委ねた。
 ずっと聞こえていた雨音も暖炉の火が爆ぜる音も徐々に遠く。
 おやすみ、という男の声もどこか遠く。
 そうして溶けていく意識の端、ふわりと浮いた心と体が何かを感じた。
 それは、耳にはけして聞こえぬ音。それは、目にはけして見えぬもの。
 感じるままに、いつしか手にしていた鎖を離す。自分の心を縛っていた鎖の最後の一片を、夢の間際で手放した。
 硬い音が聞こえた。鈍い光を見た。
 あの日の啓示が消えていくそのさまを、感じた。

あとがき

2020年6月に発行した「STARWALKERS」の再録作品です。獅子戦争終結の年、オーランとバルマウフラが同居生活を始めた秋の話となっています。なんだかんだで既にどこか甘やかというか少しばかり艶めかしい話となりました。

バルマウフラさんの子供の頃はどんな感じだったのかしらと考えたのですが、幸せな光景は思い浮かばなかったです…。この後、紆余曲折を経てミュロンドへ渡ることになるのですが、そのへんもいつか書いてみたいなと思っています。

2020.06.20 / 2023.01.22