「アイツは割と寛容だったのだよ、そして純情だった。今思えばな」
ようやく起き上がれるようになった頃、すべきことが何もなくて「暇だ」とシドニーが愚痴をこぼしたのがきっかけだった。
やせ我慢をしているとは思う。だが、元々の性格らしいシニカルな態度が徐々に戻ってきたことは喜ばしいと言ってよいのではないか。武器の手入れに没頭していたアシュレイは、そう思って顔を上げた。見ると、シドニーが工房に備わっている本棚を眺めている。見覚えのある本でも見つけたのか、少しばかりぎこちない所作で腕を伸ばして本を手にした。
シドニーの「手足」は、大聖堂崩壊の際にもげて失われた。
本人はたいして気にも留めていないようだったが、アシュレイの僅かな動揺を感じたのか「工房に予備がある」と意識が途絶える寸前に譫言のように言ったのだった。その譫言に従い、アシュレイは指定されたこの工房を当座の休息地として選んだ。炉に火が入っているから暖かいのも加点すべきところだ。未だ寒い季節、自分はともかく痩躯の持ち主(しかも鍛えているようには到底見えない)には厳しいと思われた。実際、今日に至るまでに幾度かシドニーは落命寸前まで陥った。見守ることしかできないと冷静に判じたアシュレイは、それでもかりそめの「手足」の調整にあたった。無駄な時間になるかもしれない、そう思いながら。
しかし、結果としてシドニーは生死の淵で留まり、永遠の闇底に落ちなかった。脂汗を浮かべて自らの四肢を要求した彼に、アシュレイは魔の力でそれらを接いだ。疲労と慣れぬ感覚の衝撃によるものか、彼はそこで再び気を失ったが、数度の覚醒の後に指先まで動かせるようになっていた。
不思議だ、と思う。自らの力だというのに、実感がない。現実なのだとは信じ難い。
……あの夏の日の真相がどうこうというわけではなく。
ただ、今の状況が。
メルローズがこの場にいたらどのような結論を出すのだろう。そう思うと、アシュレイは少し可笑しな気持ちになった。
§ §
ギルデンスターンが魔に食われ――否、己が彼を身に取り込んだ日から五日ほどになる。屋根裏で伏していたシドニーを抱えてほうほうのていで脱出した夜明けの日から、もう五日。まだ五日、かもしれないが、アシュレイにとっては瞬く間の時の流れだった。
惑わされてばかりだったあの一日より、ずっと短く感じる。いや、あの一日が濃すぎた反動で、今というときを短く感じるのかもしれない。ぼんやりと過ごしているわけではないが、怪我人の看護やら、身の内で暴れる魔を飼い馴らすのやらで精一杯だった。それだけであっという間に時が過ぎる。そう、一連の事件で手に入れた情報を整理する時間も必要だった。目覚めている間のシドニーにも時折訊ねながら、自分なりの解釈で心に落とし込んでいく。上辺だけではこの力に付き合えるような気がしなかった。
そうして今日も師弟の問答のようにシドニーと話をしていたのだが、話の流れがふと途切れた矢先に彼が立ち上がって先の台詞と共に薄い冊子と分厚い本を取り出したのだった。
「あいつ、というのは……」
「アルドゥス・バイロン・バルドルバ。バレンディア内戦の英雄にして、長いこと政を裏から操っていた闇のフィクサー」
そこまで言うと、シドニーは柔らかく笑った。
「俺の父親だ」
皮肉な様子も見せないシドニーの笑みは、アシュレイには新鮮に映った。シドニーがバルドルバ公爵のことを語るとしたなら、もっと屈折した感情を見せると思っていたのだ。メルローズ越しに状況を掴み、大聖堂屋根裏でシドニーの願いを――想いを聞いたときは、このように彼が笑うなどとは思わなかった。
返答しないアシュレイをどう思ったか、シドニーは手にした本の表紙を眺めた。
薄い冊子と、古びた分厚い本。
「俺は崩壊したこの街に閉じ込められて育った。魂が彷徨い、魔がそれを喰らって力を増していくこの街で、身を魔に浸していく必要があった。さて、それは何故だと思う?」
シドニーの問いかけに、アシュレイは目を瞬いた。
「お前を魔の継承者にするため……だけではないんだろうな?」
アシュレイが答えると、シドニーは小さく笑って頷いた。
「その通り、それだけではない。関わりはあるがな」
シドニーは語った。二十五年前の大地震に居合わせたこと。大地震は、魔の力を増幅させるために人為的に起こされたものであること。大地震の策謀者は、自らが「魔の継承者」とならんと企図していたこと。だが、それは叶わず、いびつな形で魔は分かたれて継がれたこと。
「公爵が自身を継承者に……?」
アシュレイは少し不思議に思った。バルドルバ公爵は底が見えないたぐいの政治家で、権謀術数に長けている印象がある。一方で、メレンカンプ教団に支援をしている事実は、確かにこのレアモンデの魔の力を欲したのかもしれなかった。だが、自らを、と考えてみると少しく疑問が残った。――しかし、それが何故なのかはうまく答えられない。
故に、シドニーに問い返す。アシュレイの問いに、シドニーは「妙な正義感と憐憫の情が働いたらしい」と言った。
「公爵は、魔を我がものにしようとした。……まあ、利用することも考えはしただろう。だが、本音は違ったらしい。他者、たとえば法王庁なぞが魔を手にしたならば、「最悪の事態」を生み出しかねない。それを危惧していた公爵は阻止を計画立て、いずれはこの力を葬り去るために己が身に取り込もうとした」
「……」
公爵の目論見は一端で成功し、もう一端では失敗している。魔の力は引き継がれ、アシュレイが保持することになった。正確には、シドニーが保持していた魔を、ギルデンスターンが奪い、最終的にアシュレイが身に宿すことになった。
そう、魔の継承は為されてしまった。
「お前が魔を継ぐ身になったのは、俺の目利きによるものだ。公爵は何も知らない」
「……随分と傍迷惑な目利きだな」
軽口でアシュレイが返すと、シドニーは僅かに目を瞠った。そう返って来るとは思わなかったのだろう、それでも彼は数拍の後に喉を鳴らして笑った。
「つまり」
笑いが止まらないシドニーに、アシュレイは話しかける。点と点の事実を繋ぎ合わせると、線が描かれた。
「レアモンデの大地震を撃鉄にして公爵は魔の継承者にならんとしたが、失敗した。……何故その場にお前がいたのかは知らないが、魔は公爵ではなくお前をあるじとして認めた」
アシュレイの推理を聞いたシドニーは笑いを収めて首を横に振った。
「失敗でもないさ。公爵の願いはほぼ成就している。俺が魔を身に宿したのも、本音の部分ではそう願っていただろう」
それはどういう、と言いかけたアシュレイを制し、シドニーは続けた。
「居合わせた、と告げたな。そう、幾多の蝋燭の灯火で描かれた魔方陣のなかに公爵は赤ん坊入りの籠を置いた。自らも魔方陣に入り、詠唱を始めた。……語らないから推測にしか過ぎないが、継承者はどちらでもよかったのだ。四肢が腐り落ちて瀕死だった俺の救命さえ叶えられれば」
「シドニー……」
「レアモンデの街を沈め、公爵は己の欲望を叶えた。赤ん坊は長じて後、彷徨う魔から「真相」を幾度も聞いた。何千もの無辜の民の命と、死にゆく定めだった自分の命。魂は魔に染まり、形を変えていく。はじめは、「そうまでして自分を助けたかったのか」などと己の父の所業に光を見たような気持ちにもなったが、次第に疑問を抱くようになったな」
シドニーはアシュレイの傍に歩み寄ると、手にしていた分厚い本をアシュレイに渡した。
本の表紙を眺める。革表紙に花々の精緻な描写が美しく刻まれているその本は、植物図鑑だった。幾度も読み返されたのか、紙が手に吸い付くように馴染む。
「俺が幼子の時分には、年に何度か公爵はこの地を訪れた。「報告」自体は上げられていたらしいから、純粋に顔でも見に来たかったんだろう。……そいつは、その頃に贈られた本のうちの一冊だ」
「読み込んでいるな……」
アシュレイは呟き、端が折られている頁を開いていった。ハマシオン、ストック、リリー。どこかで見た覚えのある文字と絵。
ムスカリ。シャガ。ドラセナ。
どのような花か。咲く季節は。花言葉は。
「刻印、の花か?」
「そうだ。殆どがここでは見ることの叶わない、夢幻のような花達。憧れの花々」
夢見るような顔つきでシドニーは頷いたが、やがて寂しげに声を落とした。
「公爵が俺に与えたのは、利己的だったが、純粋でもあった「愛情」とやらだった。当時はそのように振舞える相手なぞいなかったのだろうから、貴重ではあったのだろうな」
アスター。メリッサ。アカシア。アネモネ。カラー。
未来を思う花言葉。灰となって消えた、花々。
沁みいるようなシドニーの声を聞きながら、頁を捲る。そうしてカラーまで辿り着いたとき、記憶の端で何かが疼いたような気がした。
夏前の、明るい陽射し。穏やかな風。白のブーケ。
「……?」
「アシュレイ? ……ああ、あてられたのかもしれないな」
反応が薄れたことに気付いたシドニーに問われ、アシュレイは我に返った。見ると、シドニーはアシュレイに対して肩を竦めてよこした。口端を上げ、懐かしいか?と問う。
何が、とアシュレイが返すと、シドニーは義手の指先で頁を指した。
「お前の記憶のかけらかもしれんな」
「……それは、分からない」
浮かぶのは――、「彼女達」を思い起こすのに浮かぶ光景は、あの夏の丘。出会い、それから。愛を誓ったはずの教会も、産院も、過ごした家も、すべてが濃い霧の向こうにある。いや、はじめから何もないのかもしれない。
だが、彼女達は心にしっかりと住んでいる。その真偽は別として。
アシュレイは小さく溜息をついた。脱線した話を元に戻そうと首を振り、シドニーが手にしている薄い冊子を見やった。
「それは?」
「文字の練習用の帳面さ。義手で書くのはさすがに不得手でな。後に思いつきで念じてみればペン先が勝手に動くようになったから、問題は消え失せたが」
ほら、と事も無げに渡された帳面を開く。確かに、拙い字が紙いっぱいに記されていた。帳面の最後まで字が整うことはなかったが、最後の頁は何を考えて練習したものか、父親に宛てた感謝の言葉が綴られていた。
「これは、誰も知らない。……ハーディンでさえもな」
話し疲れたのか、シドニーは壁に凭れた。本と帳面を作業机の隅に置き、アシュレイは彼の傍に寄った。
「少し、眠るか?」
「……そうさせてもらおう。ああ、そうだ」
きつく目を瞑り、シドニーはつくりものの指で自らの眉間を押す。そうして続けられた未来の花言葉に、アシュレイはひとつの別れを予感した。
あとがき
「刻印」がお題でした。しかし、24種から選択したことになっていないというか、「刻印」にしっかり向き直っていないという謎な話になりました…が、皮肉っぽくないというレアなシドニーさん書けて楽しかったです。刻印はカラーを選択してアシュレイのエピソードももう少し入れたかったんですが…ぐぬぬ。なお、「風の花」はアネモネです。
ベイグラの刻印の花々、花言葉を調べるとポジティブな言葉が多くて、妙に切なくなりました。この刻印はシドニーお手製だったとしたらなんとしたことか…と。と、ここまで書いて「あれ?ハーディンだっけ?」と思ってもみたり。記憶が曖昧なのでゲームプレイしたいです。プレイさせてください!スクエニさーん!
2025.02.22 / 2025.03.14