MAZE AND MOEBIUS

 見上げれば、光に包まれた優しき聖母像。
 それは胸に眠るひとつの原風景──。

 隙間を抜ける風の音。
 彷徨い続ける魂の嘆き。
 失われ始めた魔の力を求め、彼らは他の魂をも食らう。
 ──断末魔。
 その叫びにこめられる願いは生か死か。
「……」
 天井を仰ぎ、虚空を見つめ、シドニーはしばしそれらの音に耳を寄せた。
 声なき声。
 怨念を宿したような響きは、この魔都の「後継者」たりえる彼にも容赦なく牙をむく。隙を窺うような魂が背を撫ぜ、無言の呪詛をかける。
 シドニーはふと微笑った。微かな空気の流れに驚いたのか、悪魂は慌てたように彼の躰から離れる。
 そうして彼とこの魔都に漂う魂達の間に再び越え難い壁が生じた。
 今までならばこのようなことはなかった。
 多少なりとも魔を帯びた魂は劣等意識が強く、少しでも強者の魂には近付かない。彼らの標的は常に自らより弱い魂であり、それらを喰らって彼らは力をつけるのだ。
 故に、これまでは己が跳ね除けるまでもなく「魂」等は近寄らなかった。絶えず見えぬ壁がそれらと自分の間にはあった。
 それが、今。
 再び寄ってきた悪魂をはねのける。その場に僅かな黒い塵が生じ、もとより見えぬ魂は永遠に姿を消した。
 シドニーは力を抜き、ひとり嗤った。
 己の力は確実に弱まっている。少なくとも、愚かな魂に狙われるようになるほどには。
 無論、彼らと自分の力には雲泥の差が今なおある。しかし、「弱まりつつある」事実が彼らをして、己に牙をむけるような事態を引き起こしていた。
 彼らを陥れる罠を張る時間はない。そして、張るつもりも彼はなかった。
 ──これは厳然たる事実だ。
 彼は思った。
 己の魂は既に光を失い、闇に呑まれかけているという事実。この現の世に生まれ落ちたその瞬間から魔に侵食され続けた躰が、まもなく朽ち果てるという事実。
 それは同時に自分が寄り代としていた「結びついた魂」が終焉を迎えつつあるという意味をも表す。いや、それ故に彼はこうして生きながら朽ち続けているのだった。
 ──あの男は自分をどうするつもりだったのか。
 ふと沸いた黒い疑問に彼はまた嗤った。
 強大な魔の力を欲し、自分という儡を男は用意した。この魔都を統べるために。
 儡は操る者なくして動くことを許されない。儡として生を受けた自分はまさしくそれだった。古代の魔道師が手にしたと同等、もしくはそれを凌駕したといわれる魔の力を身に宿し闇に走った。
 男は主。己は従。
 その均衡が崩れたのは何時だったか。
 男が魔の消滅を願った時からか。
 男に愛すべき存在ができた時からか。
 己が自らの命に終わりを感じた時からか。
 そのいずれもが正しく、一様に間違っている。この世界に「絶対」という言葉など有り得ないのだからそれは当然のことなのだが。
 男は魔の消滅を願った。この力を後の世に継承していくことを良しとせず、封じ込め、この世から葬りさることこそを己の残された命題と定めたようだった。
 それは確かにもっとも憂いのない方法だろう。消滅させてしまえば力が後の世に悪用されることはない。魔そのものが闇に消え失せる。
 だが、それを聞いた時、彼は唾棄したい衝動に駆られた。
 男の言う「魔の消滅」とはすなわち、自然に朽ちるを選ぶということである。落ちた葉が腐り、土と化すのと同じように、何もしなければ魔は滅ぶ。
 そう、何もしなければ。ただ時を待てば。
 しかし、そんな時間はどこにもなかった。事は急を要する。既に法王庁は魔の存在を突き止め、男が飼い慣らしていた議会もまた動き始めた。先刻、己の魂を狙った悪魂と同じように。
 ただ時を待つことはできなかった。魔力を失いかけた我が身でレアモンデの魔のすべてを引き受け、守り、それを崩壊させるには何もかもが足りない。
 彼は男に「魔の継承」を促した。朽ちかけた躰から健康なそれへと魔を移し、「狩人」の追跡を退ける。魔の消滅はそれからでも遅くはないと。
 だが、男はその考えを受け容れず両者は決裂した。
 もしかすると、男は自分に危険を感じたのかもしれない。魔を利用し、その力を欲したかのように見えたか。
 ──まさか。
 想いは伝わらず、両者は袂を別った。
 今更これ以上の魔を手に入れてどうしようというのだ。男が病に伏せる部屋を辞し、苛つく神経を彼なりに宥めながら、彼は思った。
 この都に渦巻く力を己は欲さない。己が望むのはそんな力ではなかった。
 己が望むのは……。

 ──……

「……ハーディン?」
 張り詰めた空気が一瞬、彼の躰を打った。目がここではない何処かを映し出す。
 魔の力によって映し出されたそれは、傷を負った友の姿。対峙するは法王庁の申し子。
 追いつめられたのだ。
 友の顔に苦渋の色が浮かぶ。背信の事実に打ちのめされたその目は虚ろに見開かれていた。
「……」
 瞑目し、結んだ像を打ち消す。暗く湿った神殿に魂の咆哮が響き渡った。
 すまないとただ純粋に思う。傷付き、倒れた友に彼は詫びた。
 ──ただ、それでも。
 願う自分がここにいる。望みを未だ叫ぶ己がここに。
 儡ではなく、人の子として。
 瞼を閉じれば別の光景が像を結ぶ。光に包まれた優しき聖母像。それを見上げる自分。
 胸に眠るひとつの原風景。
 現れた男を見つけるや否や、贋物の足をひきずり駆け寄った幼き自分がそこにはいる。
 あの時から望んでいたのは。
 諦めた今もこうして望むのは──。

 扉の向こうに現れた気配に彼は思考を停止させた。
 己の放つ死臭に、僅かにだが異なる臭気が混ざるのを覚え彼は眉根を寄せる。
 しかし同時に、大声で笑い出したい気分に彼は駆られていた。
 もうすぐ、すべての幕が閉じる。
 終曲の予感に、朽ちかけた躰が震え始める。
 そして扉の開け放たれる音。
 自らの用意した終章に彼はゆっくりと向き直った。

あとがき

シドニーが一体何を考えてたのかということを考えるきっかけになったのは実はこの話からでした。もちろん、その前にもあれやこれやと考えていたのですが公爵と深く絡めるようになったのはやはりこの話から。そういう意味で個人的に思い出深かったりします。
「闇が生まれた聖地」(このネーミング好きだ…)でのエピソードはどれも好きなのですがシドニーがキルティア神殿で虚空を見つめてるのがとても好きなのですね。誰もいない時、ふっと素に戻っているっぽいシドニーさんが好きです。

2000.06.25 / 2001.08.14