MAGNOLIA

 祈る言葉は宙を舞い揺れ動く
 どうか私達を故郷へ帰して


 雲は風にゆったりと吹かれ流れていく。
 その雲に遮られ陽の光は表情を変える。
 それは一秒たりとて同じものではなく。
 けれども全てが同じもののようで。
 ゆったりとうなじを掻き揚げるとティアは溜息をついた。
 たとえばあの雲は、あまりにも白くて動きも決まったものでしかない。
 風はどこまでも穏やかで優しすぎて。
 彼女にはこの光景が現のものとは思えなかった。
 これは夢なのだろうか。それとも幻なのだろうか。
 きっと、そのどちらですらもないのだろう。
 ここではすべてが止まっている。
 流れていくように見せかけて、時はいつまでもこの場に。
 あの時から何も変わらない光景。
 透明な何かにすっぽりと包み込まれたように不確かに揺れ動きながら。
 閉じ込められたようにいつまでも。
 だけど――。
 はたしてそうだろうか?
 風に吹かれ草原は輝きの色を見せた。
 この木陰から抜け出て、光の草原を歩けばあの日と同じになるのかもしれない。
 何も変わらない光景。
 全てが止まっている場所。
 閉じ込められたようにいつまでも。

 ――はたしてそうだろうか?

 心に問いかけてみた。
 本当は閉じ込められてなどいないのかもしれない。
 この不確かな場はきっとたくさんの扉に囲まれていて。
 その扉のどれかを開けば、ここから消えることもできるのだろう。
 でも。
 この丘を去ることはできない。
 何も動かないこの場所を去ることは。
 だってここで自分は探しているのだから。
 待っているのだから。
 あの時からずっと。
 別れを告げることはできない。
 さよなら、と一言言うことはとても簡単で。
 けれどもその言葉に意味はないのだから。
 本当は何度も言いかけた言葉だけれど。それでも。
 誰も聞いていないところで口の端にするようなことではないのだから。
 何度も何度も言いかける。
 何度も何度も空を仰ぐ。
 振り返る。
 ――そうして今もここにいる。


「ママ?」
 我が子の呼びかけに、彼女はこの世界に引き戻された。
 ここでないどこかを見つめていたのがその声ですうっと現実に戻る。何も動かない光景を視界の隅に追いやり、彼女は小首を傾げた息子へと視線を移した。
 自分と同じく、この場を留まるを選んでいる愛しい子。
 他人でしかなかったあの人と自分とを繋げた存在。
「なに? マーゴ」
 手を伸ばし、滑らかな頬を撫ぜてやる。その感触がくすぐったいのか身を捩ってひとしきり笑うと、子供はふと真面目な顔つきになった。
 その表情が似ていると思う。
「どこをみてたの?」
 自分の手を取って語りかける小さな手。
 このまま、変わることなく育つことなく終わりを告げたひとつの命。
 その命が投げかけた問いは、飾り気がないために悲しくて。
 自分はどこを見ていたのか。
 自分は何を見ていたのか。
 空を? 草原を? 雲を見ていた?
 ――何も見ていなかった。
 あの時より変わらない光景をこの瞳は映さず、光となって通り過ぎた。
 このまやかしの風景は自分に何も残さず。
 じっと見つめる我が子に彼女は微笑んでみせた。
 何も動かないこの場所にいるのは。
 いつまでも蒼い空と緑の草原を眺めているのは。

 探しているから。
 待っているから。
 呼んでいるから……だからこの場所に。
 いつか戻ってくると信じているから。
 そうして今もこの場所に。
 あの日、球となって浮いてしまった、愛する人の心のどこかに。


 緑の風が渡る。
「……早く帰ってこないかなって思って見ていたの」
 誰が、とは言わなかった。言わずともこの子には伝わるだろう。
 自分達にとって、とても大切な存在がここにはいない。
 何も動かないこの世界には自分達だけ。
 彼にとって、とても大切な存在が傍にいない。
 闇に放り込まれ、目隠しをされ。
 孤独という道を歩んでいる。
 まるで置き去りにされてしまったかのように。
「そうだね。おそいね」
 両手を双眼鏡に見立てて遠くを見やるマーゴにあわせ、彼女もまた再び草原を眺めた。
 誰もいない丘だ。
 愛しい者の姿も。丘を降りる自分の姿も。
 この光景にそぐわぬ風体の男達も。
「早くもどってくるといいのにね、パパ」
「……きっともうすぐ戻ってくるわ」
「本当?」
 少しばかり曇っていたマーゴの表情が言葉で明るくなる。やはり不安に思っていたのだと気付き、再び彼女は我が子の頬を撫ぜた。
 少しでもその不安の雲を取り除けるように。
 本当は自らの不安こそを取り除きたいと願ったのかもしれないが。
 私達はここで待っている。
 ずっとずっと呼んでいる。
 いつか戻ってくると信じている。
 小さな肩についた葉を取り除き、それを風に乗せてみる。
 葉は、少しも行かぬうちに風に乗り、そして風から転がり落ちた。
 けれども。
 もう何度も繰り返した想いが胸を過ぎる。
 いつかこの場所に彼が戻ってきたとしても、それは時の流れを止めるためではないのだと。
 これからを見つめるために会うことを望むのだと。
 死の為などではなく。
 生の為に。
 そうやって引き継がれていく永遠のために。
「ええ、必ずね」
 ひとりごとのように彼女は呟いた。やはり、自らに言い聞かせるように。
 祈りですらあるように。


 ――何に祈ろうか。
 天に頂く太陽は時折雲に隠れ、草原には影が風と共に渡った。
 何に祈ろうか。
 神に?
 それとも、愛する者が今立ち向かっているであろう魔の存在に?
 ――いいえ。
 彼女は小さく首を振った。
 そのどちらでもない、もっと自分に近いものに。
 球という閉じた空間の中に滑り込むことができる唯一の存在に。
 自分の心に、彼女は祈った。


 どうかあの人を私達へ返してください。
 あの日、魂の放浪者となったあの人を私達のもとへ。
 事実は何も変わらない。
 記憶も何も変わらない。
 過ごした時は本当のもの。
 けれども時は流れ、球は次第に完全なものとなり。
 思考をやめた心は次第に乾いていった。
 そうしたのは誰?
 そうさせたのは誰?
 ――いずれにせよ私達はこのままではいられない。
 真実を捻じ曲げたまま、歪ませたままにこの場を去ることは。

 死の為などではなく。
 生の為に。
 そうやって引き継がれていく永遠のために。

 細い糸を手繰り寄せ、真白の世界から呼び寄せる。
 暗闇でもあかりを感じてひとつの形を為す。

 そして「あなた」もそれを望んでいたのでしょう?


 何かが動いた。

 夏の陽の光とともに懐かしいまなざしを感じ、彼女はゆっくりと顔を上げた。
 木の向こう側に佇むのは彼女がずっと待ち焦がれていた者。
 少し驚いたような顔をして彼はその場に立ち尽くしていた。
「パパ!」
 同じように気付いた子供が、父の帰りに顔を輝かせ駆け出す。
 走ってきた我が子を受け止め、抱き上げるのを見届けながら彼女はゆっくりと立ち上がった。

 彼が自分を見ている。
 自分も彼を見つめている。

 ――どうかあの人を私達のもとへ。
 心から祈った。
 永遠の別れを告げるために。
 永久に共にいることを誓うために。
 だけど、何よりもその前に。
 僅かに微笑むと、彼女は心を唇に乗せた。

「……おかえりなさい、アシュレイ」

あとがき

アシュレイが自らの過去と記憶と戦っている間、ティアも戦っていたと思っています。それが彼女の場合、「信じる」ということかなと…。考えようによってはアシュレイよりよっぽど辛い戦いだったのではないかなあと。

2000.06.25 / 2001.08.14