MONOCHROME OR SEPIA

 再び、風が騒いだ。

「皆様のよき御領主となられますよう」
「有り難う御座います。努力します」
 初老の男に挨拶を受け、彼は丁寧に辞儀をした。
 満足そうに客人が頷く。そうして他の客と同様に視線を動かすのを、彼は何処かぼんやりと眺めていた。
「亡き前公爵もこれで胸を撫で下ろすことでしょうな。あの小さかった坊やがこんなに立派になられて」
「いえ、未熟ですから……。お力添えいただくこともありましょう。宜しくお願いします」
 隣に立つ伯父が自然に言葉を引き取る。先の公爵である父が死に、自分が成人するまでの間、公爵家を支え続けた彼はある意味、自分にとって親のようなものだ。
 その長い年月の間には、伯父こそが公爵を継ぐに相応しいという声があがったことも度々あった。華やかさにこそ欠けるが、思慮深く世事に長け、忍耐強いその性格は今の混迷する公爵家とこの国そのものにとって必要なものだというのである。
 幼い時分は大人の会話が分かるわけでもなかったが、自分より伯父が望まれているのだということに彼は素直に納得していた。
 とはいえ結局は、伯父は辞退し、当然のように自分をたてたためこの件は立ち消えとなったが。
「……疲れたか?」
 人の流れを見計らってその伯父が声をかける。その声に彼は、いつのまにか伏せがちになってしまっていた顔を上げた。
 目の前には、新しい領主に挨拶をするために列為す大勢の人々。
 その殆どが己よりもひとまわりもふたまわりも年長だという事実を思い、内心彼は嘆息した。
「いえ、大丈夫です」
 伯父と同様に前を向いたまま、彼は答えた。
 多少の気疲れはあるが、それほどではない。それよりも自分の考えにややうんざりしていたのだ。
 挨拶に笑顔で応えながら彼は思う。
 自分ではなく、伯父が望まれていると認めることは己の非力さを隠すことができる。
 与えられた役目から逃げ出すことができる。
 薄暗い雰囲気の漂うこの家から離れることができる──……かつて彼はそう考えたのだった。
 しかし今自分はこうして当主として礼を受けている。
 奇妙に胸を染めるざわめきに、彼は再度溜息をついた。


 襲名の挨拶も終え、会食が済み、そうしてすべてが片付いた頃には陽は傾きかけていた。
 静寂が邸を包み込む。
 あれほど大勢の人間が集まった広間には今、自分と伯父とそして執事のバルドウィンがいるだけだ。
「さて、と」
 懐から時計を取り出し、伯父はそれを覗く。天窓から射し込んだ光がちょうど真鍮の蓋に反射し、眩しく輝いた。
「ジョシュア。私はこれで帰るが、何かあったらいつでも呼ぶようにな」
 現れた従者から薄手の外套を受け取ると、伯父はそう言った。言に、彼は頷いてみせる。
「……ありがとうございます」
 つまりは未熟者で期待はしていないということだ。羽の生え揃わぬ雛鳥だと言外の意を悟ったが、彼はやはり不快そうな表情など見せない。
 ただ、事実だと思った。
 やがて馬車は着き、伯父を乗せ去っていった。
 車輪が奏でる乾いた音が次第に遠ざかると彼はそっと肩の力を抜いた。
 やはり伯父が先刻言ったとおり、疲れが出たのかもしれない。
「……お疲れでしょう。今、茶の準備をいたしますからお休みくださいませ」
 背後からの声に彼は振り向いた。影のように付き従う執事が珍しく安堵の表情を浮かばせ立っている。
 伯父と共に誰よりもこの公爵家を把握し得る人物。彼は亡き父の代よりこの家に仕えている。
 その執事に促され、年若い当主は居間として使用している一室へと向かった。
 石畳の廊下は人影もなく静が不気味に沈んでいる。この邸には自分と執事のバルドウィン、それから数名の使用人しかいない。
 時折、風が窓枠をかたかたと揺らす。
 音は不意に大きくなり、そして止んだ。
 このような小さな音も響き渡るほどこの邸は静寂に満ちている。
 扉を開け居間へ入り、彼はソファのひとつに腰を下ろした。邸に人がいないため、ここを「居間」として使うことも殆どない。しかし、それでも手入れの行き届いているあたりはやはり執事と伯父の力によるところが大きいのだった。
 そう、この邸には人がいない。
 彼には近しい者がなかった。
 両親は彼が幼い頃に死亡したのだという。伝聞形なのは、彼自身が両親の死を「覚えていない」からだ。
 今から十五年ほど前、ふたつの事件があった。ひとくくりに「グレイランド事件」と呼ばれるその出来事で彼は両親を失った。
 公爵邸がテロリストの標的となり、数時間の立てこもりの後に焼きうちにあった。
 その時、本邸にいた使用人や親族と共に母も死んだ。
 父はちょうど本邸を留守にしており、別邸──―現在ではバルドルバ公爵家の本邸となっている──―に滞在していたので難を逃れた。
 しかし、その一週間後、父もまた何者かに殺され死を遂げる。
 犯人は逃亡しその後の足取りは掴めず。その死因の不可解さもあってこの事件は迷宮入りした。
 ──―以上が彼、現公爵ジョシュア・コリン・バルドルバの知るところである。
 ジョシュアはそのまま暫くソファに座ったまま動かなかったが、やがて壮麗だが重苦しい上衣を脱ぐと背もたれへとかけた。
 深く座り、整えられた蜂蜜色の髪に指をさしいれるそれは彼の癖。
 この追憶色に彩られた出来事に思考を巡らせる時の。
 彼はこれらの出来事をまったく覚えていなかった。故に、後に人から聞く形で何が起きたかを知った。
 父の顔も、母の顔もおぼろだが覚えていると思う。父は年老いてはいたが優しく、母は美しかった。
 だからあの頃の記憶がまるでないというわけではない。
 事件に関する記憶のみが……事件と事件の間の一週間がすっぽりと抜け落ちているのだ。
 それは何故なのか。
 周囲は自分には何も語らない。バルドウィンしかり、伯父しかりだ。
 もしかすると自分はあの場に居合わせていたのかもしれないと彼は思う。恐怖心が高じて記憶が抜け落ちたという可能性はありうる。
 それとも……。

 扉を叩く音が彼を我にかえらせた。この控えめな叩き方はバルドウィンのものだろう。僅かに身を起こし、彼は入室を促した。
 開く扉。
 珍しいことは続くもので、老執事は自ら茶を運んできた。礼儀正しい所作で入室を果たすと、彼はまず運んできた銀のトレイを卓に置き、それから扉を閉めた。
 紅茶のよい香りが部屋を満たし始める。
 穏やかな夕暮れ時の光が射し込み、あたかも時が止まったように。
 その光を受け、何かがきらりと輝いた。
「……?」
 何故かその光が気になり、彼は立ち上がった。さして表情を変えないバルドウィンの横に立ち、光を放ったものを探す。
 探していたものはトレイの中に。
 伯父の持っていた真鍮の時計とは対照的な銀色のそれは鍵、だった。
「坊ちゃま、──いえ、ジョシュア様」
 鍵に目をとめた当主に向き直り、バルドウィンはそれを取った。幾分くすみがかってはいるが、鍵は綺麗に光を受け、そして輝いている。
「これは今日この時、ジョシュア様にお渡ししようと私がお預かりしてきたものです」
 言いながらそれを手渡された。見たことのないその鍵に彼は目線でバルドウィンに問う。
 そして、バルドウィンもまた若き当主の問いを予想していたかのように口を開いた。

 遠い日に闇に葬られた絵。
 手を差し伸べられた古い一枚の。

 黄昏時の静寂を彼は歩いていた。
 手には銀色の鍵。この家と共に歩んできた者より受け取ったそれを手に、誰もいない廊下を彼は歩いた。
『この鍵は、亡き先代様がお使いになっていた部屋のものです』
 丁度よい頃合いに茶をポットから茶器へ移しながら、まるで独言のように執事は言った。
『父の?』
 つい先程まで思いをはせていた事柄にふいに踏み込まれたような気がして、彼はどきりとした。だが、執事はそれには気付かない。単なる偶然に彼はどこか安堵した。
 そうして彼は鍵を受け取った。

 先代公爵………すなわち父の部屋はこの邸の中央にあった。
 そういえば、とその部屋の前で彼は思う。まだ小さい頃、けして開かないこの扉が気になっていた。子供特有の思い込みでその部屋には何か秘密めいたものを感じ、開けようと躍起になったこともあったか。
 バルドウィンや伯父はただの使っていない部屋だと説明したが、先刻の様子を見るかぎりそうとは言えないだろう。
 何かが隠されている。
 おそらく、自分が知るべき何かが。
『旦那さまの……、先代のお部屋の鍵を私はずっと持ってまいりました。ジョシュア様が成人なされた時にお渡しするために』
 そう、バルドウィンは言っていた。
 何かがある。
 おそらく、過去に関する何かが。
 自分の感じるこの邸の不思議めいた雰囲気に関する何かが。
 扉の前に立ち、彼は鍵穴に銀色のそれを差し込んだ。
 重い金属音が静まり返った空間に響き、鍵は外れた。

 突き抜けるような空の蒼は、既に大分その色を失っていた。

「これが……父の部屋」
 南に面したその部屋は、窓を大きくとっているためか穏やかに明るかった。確かに、邸の主の居室として相応しい場所である。
 同時に、奇妙な感覚はいっそう強まった。
 懐かしさが胸を満たすようなそんな感覚。そして何かに引きずり込まれるようなそんな感覚。
 ──この部屋に足を踏み入れたことなどないのに?
 そんなことを思ってしまうのは、やはり自分の中に父の思い出があるからか。
 暫く戸口に立ち尽くしていたが、そのままでいるわけにもいかず、部屋に入る。
 夕暮れの追憶色が室を染め上げる。閉められた窓が外界とこの場を遮断し、生まれたのは奇妙な静寂。
 時は止まるか戻ったかのようだ。
 天蓋付の寝台。ここで父は死んだのだとバルドウィンは言った。
 そう、この空間は実際に時を止めていた。すべてをそのままにしておくという形で。
 陽が傾いているためか、部屋の中は微妙に明るさが異なっている。
 その明るさを追ってみる。室の中で一際明るいのは、今彼が背にしている壁。
 明るさを追い、彼は振り返った。
「──」
 目に飛び込んできたのは、壁にかけられた一枚の絵。
 記憶にある父の姿、母の姿。
 そして中央には……幼少の自分。
 家族の肖像であるその絵は彼にも見覚えがあった。幼い時分に見たことがある。本邸にもこれと同じものが大広間にかけられてあった。
 懐かしさの原因はこれだったかと、彼はその絵に近付いた。
 絵は大分くすみ、色褪せている。かけられたままであったのならそれもまた仕方ないのだろう。
 ──だが、この違和感は何だ?
 懐かしさに包まれた室の中を、心の中をざわめきが通りすぎる。何かが違っていると彼に告げている。
 何かが違う。一体、何が?
 絵をじっと彼は見つめた。年老いてはいたが優しかった父。その父の姿は記憶にあるよりも若く見える。
 美しかった母。だが、微妙に雰囲気が違うように思える。
 勿論、十数年前の記憶が不確かなのは分かっているのだが。
 ふと、絵の隅を見やった。そこには作者の銘と日付が刻まれている。
 作者は、死後も評価の高い画家のもの。
 日付は──、今から四十年ほど昔のもの。
「……どういうことだ……?」
 見間違いだったかともう一度確かめる。しかし、日付は正確に今から三十八年前を指していた。
 ということは、この幼子は自分ではないということになる。
 おそらく母も……。

 風が窓枠を揺らした。
 不意に響いたその音に彼ははっと振り返る。室は夕暮れの追憶色に染め抜かれ、時が進んでいるのか止まっているのか……それとも戻ってしまっているのか分からない。
 その光の中に何者かが佇んでいる。
 寝台の傍、光があまねく降り注ぐちょうどその場所に。
「誰……?」
 眩しくてよく見えない。だが、その者が自分を見つめていることだけは何故か分かった。
 夕陽に「彼」の髪がきらきらと反射した。真鍮色でもなく、銀色でもない輝き。綺麗な金色。
 ──見覚えが、あった。そんな気がした。
「あなたは……」
 胸がざわめき、抜け落ちた記憶が心を掠める。
 確かめようと歩を進める。しかし踏み出した途端、光の影は淡くその姿を消した。
 光が闇を掻き消してしまったかのように。
 残されたのはこの邸を継いだ者。彼は茫然とこの黄昏時に立ち尽くした。

 ──再び、風が騒いだ。

あとがき

ジョシュアの未来は、と考えて単純に?公爵邸に戻るパターンをとりました。
キャロと一緒に過ごしたり、アシュレイに育てられたりというのもそれぞれ納得できて読むのも大好きなのですが、自分が思いついたのはこれでした。
大きくなったジョシュア。一体どんな風になるのかなと思いますが、わりとぼんぼんタイプになるのではないかなと思っています。ひそかな苦労人なのですが。

2000.06.25 / 2001.08.14