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ベイグラントストーリー
小説
MOONSPHERE
天空に架かる月が蒼ざめた光を朧に投げた、夜。
そんな夜があってもいい。
1.
夜啼鳥の声が聞こえ、あとは静寂ばかり。
雪にすべての音が奪われてしまう冬の夜とも違う、穏やかな静けさがあった。
何物をも寄せ付けない鋭さではなく、触れると溶けてしまう優しさ。
先刻までの地の揺れも包み込んでしまうような。
──否、真なる包容は月の光か。
眠りに落ちることのできぬ頭を僅かに動かし、シドニーは天空の月を眺めた。
ちょうど西に傾ぐ頃合なのか、あまねく降り注ぐ月光も気がつくとその向きを変えている。冬のなごりの蒼冴が朧に溶け、やわらかに地を包んだ。
すべてを享受すれば溶けてしまうような。
そんな不思議な、春のはじめの月明かりに照らされる。
意識の先で光に手を差し伸べる。不視の手は痛みもなく溶けて消え失せた。
さらさら、さらさらと。
朽ち果てた指先から零れた光が、月明かりに溶けては消える。
砂のように、塵のように。
無論、現実の贋手はこそりとも動かずに掛布の中。
視界の端のそれを、シドニーは奇妙な心持ちで見やった。記憶の定まらぬ時分より与えられた、共にあった「手」を、初めて見るもののように眺める。
自分に付随する動かぬそれはただの黒いかたまり。
血の通わぬ冷えた魂のうつわ。操り人形の切れた糸。
そんな形容が脳裏を過ぎた。
月光に照らした幻の手こそ、本来自分が持ちうるべきものだった。光に透け、既に形を失いかけているそれは、或いは魂のかけらか。
──―もしもすべて光に晒したなら?
溶けた光が一滴、零れて落ちた。
多分に自分は感傷的になっているのだろう。涙のような光を頬に受け、シドニーは思う。平時では考えもしない事柄が頭に浮かんでは、消え去っていく。
つくりものの手足と同じように凍り付いた心のどこかが、そんな自分を嘲笑う。来るべき時が来ただけではないか、今更何に心を惑わせるのだ、と。
──終曲を己は知っていたのだから。
だが、心は感情を肯定し、古い記憶を辿る心を自分は認めた。
認めさせたのは、月明かり。すべてを見出す神秘の象徴。
月光は幻の手とともに、心をも透かせた。
意識に浮かばせた手は、気がつくと見えなくなっていた。
先ほどまで眺めていたように朽ちてしまったためか、それとも単に気が逸れて見えなくなっただけなのか。
──もしもすべて光に晒したなら。
そのときは、還る。
月明かりに誘われ、その光に溶け込ませたように還る。一片も残さずこの身を塵と変え、空へ消える。光とは、魂。
魂に魂を晒し、自分は還る。その時が満ちるのはもうまもなく。
この瞬間を己は長いこと待ち侘びていた、そのはずだ。
鎖から解かれたい、と真摯に願っていた。
月は雲に隠れ、宵闇が広がった。遠く聞こえていた夜啼鳥の声もない。
視線を変えるのが億劫で見つめた窓の先にも何も映らない。
闇の投げかけた問いと答えに、無意識裏に心が震える。
闇のもたらした空間に、軋む音が響いた。
2.
床を軋ませた音が耳元で響いた。
室を照らす幽かなあかりが遮られ、長い影が伸びる。
すぐ傍まで気配が及んでいたことに気付かなかったのは、闇に目を向けていたためか。月明かりに手を溶かしたためか。
変えなかった視線を動かし、シドニーは影を見やった。
焼けた炭をかきまぜる乾いた音。空気が通され、爆ぜる炭の音。
夜に冷えた室がふわりと暖められた。
「……寒くないか?」
長い静寂をどこかへ押しやるように、影の声。傍の作業台にあかりを移し替えたのか、その影も消え失せた。
数多の蝋燭が揺れた空間と同じように男は傍らに膝をついた。
あかりに照らされ、自分を見下ろす男の顔が見えたことにシドニーは何処か安堵を覚える。
喩えて言うならば草深い野原でひとりでないことに気付くような。
──……やはり、感傷的になっている。
「シドニー?」
「……何だ」
感傷を引き剥がし、呼ぶ声に答えシドニーは男を一瞥した。だが、その様子に男は怪訝そうな顔つきを見せる。
「寒いと言っていた」
「俺が?」
気がついていなかったのか、と口数の少ない男が問う。
聞こえにくかったが、呟くように何度か。そう言葉は続けられた。
「……」
確かに気付いてもいなかった。そんなことを口走った覚えもない。
無論、寒いと思ったことも。だが。
不意に寒気が襲う。躰は思い出したように寒さに震え、それを認めた。
「確かに……寒いな」
自身の言葉にシドニーは苦笑した。震え出した躰は止まらず、次第に歯の付け根もかみ合わなくなるほどに、かたかたと。
様子を見て取り、男……アシュレイが暖炉にコークスを投げ入れる。その額にうっすらと汗が滲んでいた。
この室はけして寒いわけではないのだ。ましてや暖炉に近いこの場では暑いと言えるのではないか。
なのに、何故?
「寒い」
再度、呟く。呟いたところでどうにかなるわけでもなく、シドニーは瞑目した。
目を閉じれば何処までも落ちていく馴れた感覚。闇がそこには広がっていた。
冷え冷えとした虚。
馴れない、いや、馴れきった感覚。
そして、望んでいたもの。
ふと、浮かび上がったような気がしてシドニーは瞼を上げた。肩に伝わる熱で、起こされたのだと理解する。
「……アシュレイ?」
肩ばかりではない。気がつけばすっぽりと腕の中におさめられていた。
芯から凍るような寒さも既に感じない。
そのかわりに伝わるのは包み込まれた暖かさ。
「面白いことをするな、貴様は……」
くすくす、とシドニーは笑った。つくりものの手が緩く握られ、元来伝わらないはずの熱を覚える。
それはあまりにも心地よかった。
「寒いのだろう?」
アシュレイが言葉少なに答える。シドニーの寒さが何に起因したのか。彼自身にすら分からないことを恐らくこの寡黙な男は知り得ているに違いない。
背を預け、強ばっていた躰から力を抜きつつシドニーは思った。
握られた両の義手から伝わるのは生命の息吹。
光に溶けた魂のかけら。
「ひとつ訊こう……何故だ?」
黙して語らない男に敢えて問いを投げかける。
──何故助けようとした?
自らの罪を償おうというのならば、それは既に範囲を越えている。救えなかった最愛の者の命をこの偽の命で贖うというのであらば。
静かに燃えさかる暖炉の中で炭が爆ぜた。
「何故だ?」
「……。真に死を望んでいたようには見えなかった」
闇に投げかけた問いと答えに、心が震えた。
望んだのは完全なる死。
復活など有り得ない闇の只中。
そのために、生を選び取った。
そのために。
「もう眠れ」
黙りこくってしまったシドニーにアシュレイは告げた。握っていた手を放すとぽんぽん、と叩く。
そう遠くはない過去に幾度となく繰り返された所作だ。
素直にそれを受け容れ、震える心のままに再び目を瞑る。
閉ざされる視界の端、蒼白い月が朧に輝いていた。
あとがき
書いている途中にはたしてこのシドニーさんは公爵邸にこの後行くのか?行かないのか?と考えたりもしました。
2000.04.12