1. Cathedral
──その時、魔都は崩壊の危機にあった。
「まずいな……」
地を揺るがすかのような轟音にアシュレイ・ライオットは顔を上げた。
石埃が降り落ち、既に床にうっすらと積もり始めているのが見える。時折天井から落ちてくる大きめの石片が背を打ち、微かに痛んだ。
ギルデンスターンの呼び起こした「魔」は同時に地震をも引き起こしたらしい。
そして、その揺れは彼がこの都に潜入してから今まで感じた中でも最も大きいものだった。
それでなくともあの二十数年前の地震から此方、この地に大地の安らぎなどなかった。故に今、彼のいるこの大聖堂がいつ崩落しようともそれはおかしくなかった。長い間の地震に、そして魔の出現に耐え切れなくなっている。
現にこうして壁の各所が崩壊の兆しを見せていた。
「──っ」
手が汗で滑る。抱えた躰は肩に重くのしかかった。
「シドニー……生きているのか……?」
問いかけへの応えはなかった。
喉を通る空気の音だけが肉体と魂が分離していないことを示すように、細く微かにアシュレイの耳を打つ。
僅かに響いたその──それがたとえ紛い物にせよ──灯火を消さぬよう、アシュレイはここまで抱えてきた男の躰を抱え直す。そうして、半ばそれを引きずるように彼は崩れ行く聖堂を進んだ。
──意識のない人間の重みなど、今まで知らなかった。
知る必要がなかったのだ。
切羽詰まった状況だというのに、ふと沸いた考えにアシュレイは苦笑する。
いつも自分は単独行動を選んでいた。それはその方が任務遂行に支障をきたさないからだ、そう思っていた。
──しかし、それは違う。違っていたのだ。
二人分の命、そして数多の魂をその背に負い、アシュレイは心の内で思う。
よみがえるのはいつしか叫ばれた言葉。それは確か、この男が言ったのではなかったか?
『貴様が妻子を殺したのだ』と。
救えるものも救えなかった、それは罪。
だから自分は。自分から逃げていた。
人の命の重さに目を背け、知らずのうちに見ないようにしていた。「誰か」を助ける術を、心を忘れていたのだ。
故にあの幼子を救うこともできず、パートナーであった女性を助けることも適わず。
そして今、こうして。
「──」
不意に、アシュレイはとらわれた想いから自分をひきはがした。いずれにせよ、今は考えに耽っている場合ではない。
この場から逃れることを、生きることを。
そして──………。
「……ぐっ!」
一際大きな揺れで落下した石片を背に受け、アシュレイは呻いた。意識を失ったままの男はその身をアシュレイの肩から滑り落とし、床に伏す。
耳障りな金属音は崩れゆく音にかきけされた。
揺れは次第に強くなっている。地はうねり、叫ぶかのよう。素早く視線を走らせるアシュレイの瞳に建物全体が軋み、壊れていく様子が飛び込む。
視界の端には躯のように転がる男の姿が。
──ここまでか?
声にならぬ声でアシュレイは呟いた。もう時間がない。
一階下の魔法陣まで辿り着き、どこかに飛ぶには。
そうして自分はまた何もできず、守れず、救えずに終わるのだろうか。
手に残るのは悔恨だけなのか。
「……有能な…リスク…ブレイカーが…考えごとをして…る場合じゃない……だろう」
その時。声は響いた。
驚き、視線を走らせていたアシュレイは声の持ち主を振り返る。言葉を発した男もまた、その虚ろなまなざしでアシュレイを見上げた。
「シドニー?」
「それから、……人の躰はもう少し……丁寧に扱え」
そこまで言うと、シドニーは我が身を起こそうとし、ひとしきり血を吐いた。力が入らないのか、床の上を義手が滑る。
また大きな揺れが襲い、アシュレイが支えたシドニーの躰も揺れに共鳴するかのように跳ねた。しかし、僅かばかり顔を顰めさせただけで、すぐに何かを呟く。
最初、それはアシュレイの耳に届かなかった。轟音が全てを掻き消していく。
故にシドニーは再度呟いた。手を、と。
「手を?」
「手を……おまえの、背中に……。……ジャンプさせる」
動かない、とシドニーは言う。もう自分で手を動かすことが出来ないらしい。
ハスキーがかったその声は驚くほど静かで、語った表情は生者ではないほどに蒼白。しかし、気を失うほどの痛みに彷徨う瞳は、それでも何かを物語る。
それに気付き、アシュレイはつくりものの手をとった。だが触れた途端、手は持ち主の意思に逆らい、すとんと抜け落ちた。
「──」
「……腕でいい。早く」
がちゃりという音を立て落ちたそれに、たいして気にも留めずシドニーはアシュレイを促した。
言われた通りにシドニーの腕を自身の背にまわす。応え、シドニーも微かに頷く所作を見せた。
幻であるはずの手が、背に浮かぶ「鍵」へ触れる。そして。
崩れ消えてゆく聖堂の中。
かそけき声は響いた。
「黒き翼と……閃光のうねりに誓う……」
声は次第に和し、重なる。
「デルタ…エクセス…………!」
……光。そして闇。
互いに交わり消えてゆく。
青く、白く……
眩しいほどの光の粒子が消え去り、次にアシュレイがその瞳を見開いた場は。
地の震えが僅かに伝わる、見慣れた工房だった──。
2. Light
結末を予感した。
そして、新たな旅のはじまりを。
青白い光がぼんやりと空間を照らし出している。
アシュレイは淡くゆらゆらと揺れるその光をぼんやりと見つめていた。
目覚めているのか、それとも未だ眠りの淵にあるのか境目が分からない。
終わったのか、まだ続いているのか。
現実なのか、夢幻なのか。
──現実なのだろう、おそらく。
覚醒しきらない頭から眠気を吹き飛ばすように、何度か緩慢に首を振った。落ちてきた前髪を鬱陶しそうにかきあげる。
そうして、ひとつだけ息を吐いてあたりを見回した。
薄暗いその室を仄かに照らすのは、壁にかけられたランプ、焼けたコークスの入った暖炉、そして蒼い陽炎のように光の立ち上る魔法陣。
見慣れた風景だ。
風景ばかりではない。鼻をつくような油の匂いも、金屑が散ったためか多少埃の積もった床も。
疲れをとるため壁に寄りかかるように座り込んでいたアシュレイは、ざらついた床に手をつき立ち上がった。じゃり、という音が足元で響く。
仄闇に慣れた目が辿り着くのは暖炉の傍。
都が魔に揺れても何も変わらないこの場に眠る人間。
背中の傷のためにうつぶせにした肩が僅かに上下するのを見、安堵する。そうして音を立てないように歩を進めると、彼はそっと傍らで膝をついた。
手を伸ばして傷痕に触れれば、表皮が薄く覆い始めているのが分かる。
触れさせた手をそのままに、再び息をついて呼吸を整える。
やがて指先から放たれた淡い輝きは傷ついた躰に舞い降り、そして静かに散った。
あれから数日が経過していた。
強大な「魔」を呼び起こしたためか、しばらく続いていた地揺れも収まりかけていた。
いや、まだ揺れは続いているのかもしれない。しかし、魔都の中心部である大聖堂から遠く離れたこの地に伝わる揺れは微か。
あの時。
咆哮をあげるようなうねりから逃れようと足掻いた時。
掠れる声で呟かれた転移魔法の詠唱に彼は和した。
最後にはその言葉を半ば奪うかのように。
降り積もる雪のように静かな空間はその時までも、その時からも何も変わらない。
光は淡く仄かに部屋を翠に染め上げる。翠は安らぎの色。
しかし今こうして昏々と眠りに落ちる男にとって、果たしてこの光が安らえるものなのか。アシュレイは自問する。
そもそも、あの時。
おそらく、この男は助かろうとは思っていなかっただろう。所作に、言葉にそれは滲み出ていた。故に詠唱と共に湧き起こった光の波は自分ばかりを包み込み。
咄嗟にそれを遮ったのは自分か。それとも背に受け継いだ鍵か。
溶け込んだ翠が次第にその色をなくした。最後の光の粒は傷を伝い、零れ落ちる。
「……」
魔法を使った後の気怠い感覚に流されながら、彼は回復魔法をかけ続けた男を見下ろす。未だ目を覚ます気配はない。だが、とりあえず快方には向かっているようだった。
その様子を見て取り、彼は再び自らの思考に戻った。
──詠唱を、言葉を遮ったのは。
この場に辿り着いたその時から理由を彼は探そうとした。しかし、咄嗟にとった行動に理由をつける必要はないと思った時、彼は唐突に理解したのだ。
奴のためではなく。これは自分のエゴなのだと。
何もできず、守れず、救えずに終わった自分。
手にしてきたのは悔恨のみという自分の。
故に詠唱に和し、その言葉尻を奪った。気付いてしまえばそれは単純なこと。
死なせるわけにはいかないと、そう思ったのではなかった。
もしここでこの男が死んだとしてもそれは運命だと割り切ることができる。だが、あの崩れゆく大聖堂で感じたのはそうではない。
あのまま転移させられていたならば、消え失せたはずの「後悔」がよみがえるから。
それがエゴでなくてなんだというのだろう。
何度目かの思考の帰着に彼は三度息を吐いた。
静寂は降るように、雪の如く。
3. Broken wings
体と心が分離し、心ばかりが軽く軽く、虚空へと。
誰か手を。伸ばすことのできない自分のかわりに誰かその手を。
「……気が付いたか?」
壁を何枚か挟み更にその向こう側で問い掛けられたような、ぼやけた響きが覚醒を促す。ふわふわと浮いていた体が急に引き戻されるようなそんな感覚。
今一度、繋ぎとめてほしいと願ったように。
引き戻されてしまえば、途端に痛みが襲う。引き攣れ、絡み付く痛みは彼をより覚醒へと導いた。
(な……?)
まだ頭はその痛みの訳を理解できずに混乱のまま。
解けた記憶を辿りながら彼はそれでも重い両瞼をこじ開けた。
──―声が、聞こえたような気がした。
目を開けたはずなのに、何も見えずに困惑する。しかし、焦点が合わさっていなかっただけなのか、二、三度瞬きをすると薄暗い中にもぼんやりと物の輪郭が浮かびあがった。
だが、その瞬間に激しい眩暈が襲う。堪えきれずに彼は再び瞼をおろした。
「無理はしない方がいい」
聞き覚えのある声。すぐそばに誰かがいるらしいことに彼はようやく気付く。
誰だ?
集った思考がまたすぐに四散する。そしてまた集い。
その繰り返しの中で彼は意識を繋ぐ。次第に鮮明になる記憶に彼は痛みの原因を見出した。
では、自分の傍にいるのは。
それより、自分は何故今ここに。
一度おろした瞼を再び開く。今度は然程眩暈も感じずに、開いた目はすぐに情報を彼に差し出した。
薄暗い部屋。視界の端で蒼く光るのは魔法陣か。
寒さはあまり感じない。どこかで炭の爆ぜるような音。
その中で自分はどうやらうつぶせに寝かされているらしい、ということを彼は認識する。
それはおそらく、背に広がるじくじくとした痛みが原因なのだろう。
──しかし、この痛みは自分を死に追いやるのではなかったか。
ふと思い起こした疑問に今一度視線を泳がせる。
「相当痛むようだな、シドニー」
声が降った。
「……アシュレイ」
返すことができたのは、掠れるような声。
口に出してみて、ああそうだったかと頭が理解する。自分は未だ生きている。
繋ぎとめたのはこの男か。それとも。
それとも。
緩く視線を動かすと、片腕はあの時失ったままでその先がない。にも関わらず──持ったことなどないのに──痛みを覚え、彼は顔を顰めた。
自分のつくりものの手足は、背に負っていた聖印を剥がされた時に死んだ。
そしてこの鼓動も同じ運命を辿るはずだったのだ。
助かろうなどとは思ってもいなかった。あの場で魔都と共に消え失せるのもまた自分の望みではあったから。
肉体を塵に還し、魂を解き放つことは。
「力を……使ったのか?」
包帯を巻くからと、こそりとも動かない我が身を起こされる。支えられないと崩れていきそうな躰に苦笑しながらシドニーは質問を投げかけた。
その問いにアシュレイは小さく頷く。完全ではない肯定。
「元々回復魔法は使える。……もっとも効くかどうかは分からなかったが」
「……なるほどな」
そして自分は今ここに。
包帯を隙間もないほどに巻かれ、再びその身を横たえられる。頼んだわけでもないのに治療をする青年の手付きは意外にも器用と呼べるものだった。
──どうして助ける気になどなったのか。
自分の疑問など聞こえているだろうに、聞こえない素振りを見せる男を眺め、シドニーは口の端を釣り上げて笑う。
否、笑うべきは自分の心。偽ることを止めない自らのそれ。
眩む視界を宥めるのを諦め彼は瞑目した。
すぐに意識が軽くなる。それはあまりにも慣れた感覚。
引いては満ちる波のように心がたゆとう。その意味するところは"永遠"。
故にか、無意識裏に繋ぎとめられるのを望んだのは。崩れゆく大聖堂で魔都と共に消え失せるのを望まずに。
「折れた羽では空には舞い上がれないということか……」
「……シドニー?」
怪訝そうな聞き返しには応えず、彼は再びその感覚に身を委ねた。
望んだのは肉体を塵に還し、魂を解き放つこと。
永遠に縛られる不完全な死でもなく、完全なる不死でもなく。
全てを無に。
それは生まれ落ちてから無意識あるいは有意識に抱えていただろう自分の望み。
向き直ってしまえばあっけないほどの。
だが、それを今叶えることはできない。
そう、今は……。
4. Pioggia
風のない空間であかりがじじ、と揺れた。
「……眠ったか」
不規則な呼気が次第に一定になる。それを見て取りアシュレイは毛布をぱさりと傷ついた身の上にかけた。
──自分の疑問など聞こえているだろうに。
脳裏で傍らの男はそう自分に語りかけた。波長が近いからではない、純粋に魔力が強まった結果だと。
こちらの思考が向こうに伝わらなかったのは、彼が既に魔力の大半を失ったためかそれとも自らの思考に潜ったためか。そのどちらも当てはまるのだろうとアシュレイは思う。
伝わらないかわりに思考は流れ込む。仮面を取り去り、鍵をも負わない男の本意を彼はそうして知った。
「……見えていたということか、シドニー?」
折れた羽が飛ぶのを諦めるのが見える。
銀の砂が夜のように黒くなるのが見える。
それは古くに伝わる唄の一節。
──舞い上がることもできず、たゆとうばかり。彷徨うばかり。
ずっと諦めていたのだ、心は告げる。そして叶うことのできるならばと。
語りかけるのではなく、まるで偽ってきた自らの心を認めるように繰り出された言葉の破片をアシュレイは聞いた。
全てを無に。それはひとつの道。
瞬間の迷路を抜け出て辿り着いたその道は、終わりのための始まり。
そして自分にとっては始まりの。
蒼の陽炎の向こう、その道は白く輝いて見えた。
雨に煙る向こうにあかりが見える。
夜は闇を作り、闇はあかりを映す。
そして光を。
小雨降る夜半すぎの街路、あかりの先を見つめる。
窓の向こうに数多の光が揺れた。
光の粒が宙に舞う。自分を包む雨粒は地に。
ことりという何かの落ちた音はそうして闇に響いた。