降りしきる雨のために、昼なお暗い廊下を彼女は歩いていた。
時折、遠く微かに雷鳴が聞こえる。一瞬の静寂の後に雨は激しさを増した。
ひんやりと湿った廊下に響く靴音はそれでも音高く。
壁に取り付けられているあかりを揺らしながら、前だけを見て歩く。
──これであの魔都に対する書類は全部かね?
先程まで上司であった男との会話を彼女は思い出していた。
この廊下と同じように薄暗い室内に灯されたあかりを頼りに、男は彼女の提出した書類を眺めやった。
──はい。私が見聞きした限りでは。
──あの"危険請負人"はどうした?
ざっと書類に目を通し、男が顔を上げる。完璧すぎるほどに無機質なその表情に彼女は不快感を覚えた。
(あなたたちは……!)
魔都の中で流れ込み、混線状態となった人々の記憶、そして想い。
揺れる蝋燭。鐘の音。剣鑓の響き。
それらは一群となって彼女の脳裏に舞う。
信じていた事柄を根底から覆されるような事実の数々。
──エージェント・ライオットとはワイン貯蔵庫で別れたきりですが。
しかし、感情を押し殺し、平静を装い。彼女は事実だけを述べた。
魔都での異変は、既に国家機密としてVKPにも届いているはずである。目の前の男も知らないわけがない。つまり、このように彼女にも質問を投げかけるとすればその理由はただひとつだった。
それはすなわち、「異変」を引き起こしたといわれる者の追跡である。
先日、バルドルバ公爵を暗殺した容疑で手配されているアシュレイ・ライオットをVKPは血眼になって探していた。
──………。
男は、書類を見る目と同じ視線で彼女を眺めた。
探るような、疑いを持った目つきに彼女は口を開く。
──退出してもよろしいでしょうか。
彼女の言葉に、男は肯く様子を見せた。
それを見届けると彼女は、軽く頭を下げ、上司の机に「何か」を置く。
──……メルローズ、これは?
そのまま退出しようとした彼女の背に声が投げかけられる。振り向くと、上司は一通の白い封筒を手にしていた。
蝋燭の火を反射し、暗く光ったその瞳が疑問を投げかける。
不振な素振りなどすぐに見通せる。視線が語っていた。
──今回の件で人質となり、国家及びVKPに負担をかけたのは事実です。それに……
──それに?
扉の取手に手を置く。
──少し、疲れました。休養を取ろうと思います。
一礼して、彼女は軋んだ音をたてる扉を開けた。薄暗い廊下を照らすように稲妻が光る。
それは、あたかもレアモンデで最後に見た朝日のようだった。
窓ガラスに張り付く雨粒を見やりながら彼女は考える。
──エージェント・ライオットが何処に行ってしまったのか。
元上司に問われるまでもなく、それは彼女自身が知りたいことだ。
情報分析官としての使命が自分をそうさせるのか。それとも。
「……」
自分の考えに少し彼女は笑う。もう既に自分は『情報分析官』などではない。
ただの『キャロ・メルローズ』なのだ。
純粋に知りたいと思う。
あの男達がどうしたのか。生きているのか死んでいるのか。
公爵暗殺の件に関しても、彼女は疑問を持っていた。手配されているように、ライオットが公爵を暗殺して何のメリットが生じるのか。
自分達があの若きカリスマによって強制的にテレポートさせられてから、魔都が崩壊するまでそんなに時間はなかったはずだ。
その間に何があった?
唯一推測できる手がかりといえばハーディンが確かめるように言ったあの言葉。
『公爵を……、親父さんを』
──助けたかったんだな?
「友」と呼ぶ男の目をじっと見つめ、死に喘ぐ男は呟いた。
その言葉は不思議に彼女の胸にも響いて、今もこうして残っている。
──シドニーが公爵の……。
死ぬ気なんだといつか語った幻影は、ジョシュアではなくシドニーで。
ライオットはそれらの鎖を断ち切り逃走したのだろうか。
「……」
呼びかけても、心の繋がりはなく。
あの都で幾度か励ましてくれた声ももう聞こえない。
「情報分析官殿!」
思考は呼びかけによって遮られた。窓に落としていた視線を上げ、振り返る。
廊下の奥から一般兵が駆け寄ってくる。
彼女の記憶にはない人物だった。
「任務御苦労様です」
すぐ傍まで寄ると、彼はそう彼女に話し掛けた。曖昧に肯き、再び降り続ける雨を見たまま、彼女は「あなたもね」と言葉を返す。
しかし、兵士は意外なことを口にした。
「……ところで、分析官殿。あれから風邪などはひかれませんでしたか?」
数日前の雨は冷たかったですからね。兵は続けた。
「え?」
──あれから?
兵の言葉に引っかかるようなものがある気がして、彼女は視線を留めた。あれからとは?
「あ、あれ? 先日バルドルバ公爵別邸前でお会いしたのですが……」
そんな彼女の所作に不安を覚えたのか、兵士がうろたえるように呟く。
彼女は兵の言葉を口の中で注意深く繰り返した。
──数日前。
──バルドルバ公爵別邸の前。
──公爵を暗殺し、逃走したという男の噂。
奇妙に重なる事象の数々。自分はその時、漂う疲労の中、提出書類をまとめていたはずだ。グレイランドのバルドルバ公爵別邸になど足を運んだ覚えもない。
──ということは。
(あ……?)
「分析官殿……?」
隣にいるはずの兵士の声も耳に遠い。
彼女は思い出していた。
不思議な力。「鍵」のありかを聞き出すためにギルデンスターンがハーディンを相手に使った錯覚能力。
もし、あれを使ったのだとしたら……全ての符号ははまっていく。
彼女は咄嗟にひとつの選択肢を消し去っていた。ギルデンスターンが公爵を暗殺するという可能性はありえない。彼ならばもっともらしい理由をつけ、更に闇底へ葬り去るだろう。
逃走する理由もない。
──それはつまり、あの能力を使える人間が移ったということだ。
彼女は顔を上げた。
「分析官殿」
「ああ、ごめんなさい。少し疲れているものだから……確かに会ったわ。おかげさまで風邪は引かなかったけれど。……冷たい中、本当に御苦労様」
そうして兵に向けて笑顔を浮かべてみせる。安堵したように兵も辞儀をした。
「いえ。これが自分の役目ですから……。それでは、これで」
背を向けて立ち去る兵を見送りながら彼女は苦笑した。
多分、数日前にもあの兵は同じやりとりをしたのだろう。そう思った。
雨は夜更けには雪に変わっていた。
雪は街を包み込み、全てを静寂に戻す。音のない世界を歩き、彼女は家路へとついた。
事後処理をし、突然の辞職に驚く同僚を宥めすかし。そうして生まれた疲労は深く肩にのしかかる。
これからどうするかなんて考えていなかった。
ただ、これ以上国家に隷属する気はなかった。それだけのこと。
「ふう……」
フラットの石段を一段一段ゆっくり昇る。パサパサというレインコートの布ずれの音ばかりが妙に耳に響いた。
思い出したように髪についた雪を払う。石段を昇り終えると、昼間と同じようにあかりの少ない薄暗い廊下が彼女を待っていた。
──太陽を見に行くのも、いいかもしれない。
頭の片隅でそんなことを思いながら、鍵を取り出す。いつものように便り受けに手を入れ、自分あての手紙がきていないか調べた。
「?」
指が何か包みのようなものを探り当てる。鍵を探す動作をやめ、彼女はそれを取り出してあかりに近づけた。
小さな封筒。裏返してみても差出人の名はない。
封をしていないそれを逆さにすると、冷たい金属の感触が手に落ちた。
光を鈍く反射するそれは、古い装飾の口紅入れ。
それだけが無造作に入っていた。
「……」
──無事、だったのね。
誰が入れたのか、とか。何のために、とか。そういったことを考える必要はない。
手のひらの熱が移り、ほのかに暖かくなったそれを彼女は模様沿いに辿った。
言葉はなくとも確実に受け取った、それはメッセージ。
扉を開け部屋に入る前に、彼女は虚空に視線を彷徨わせる。
数奇な運命に立ち向かうことになった人へ、せめてものエールを。
「……元気で、アシュレイ」
言葉は、あかりを揺らし、そして闇に紛れた。