鈴蘭の日

- Timeline until abandon the crown -

「へいか!」
 舌足らずな声に名を呼ばれ、ディリータは足を止めた。
 瞬間、浮足立っていたその場の空気が波を打ったかのように静かになる。己の挙動が影響するところを知っているディリータはその静寂を半ば無視し、声がしたほうを見やった。
 沿道の両脇を埋め尽くすのは、王の行幸のために集まったのか集められたのか大勢のゼルテニアの民。殆どが王である己を見つめていたが、何人かは別の方向に慌てたような視線を送っている。その視線を追ってみると、笑顔の少女と目が合った。
 目が合ったのをどう受け取ったのか、少女は隣の大人と繋いでいた手を振り切った。道の真ん中、ちょうどディリータの目の前まで駆け寄ると、片手に持っていた花を差し出す。
「へいか、これをどーぞ」
「……花?」
 闖入者を追い払おうとした警護兵を制し、ディリータは少女に向き直った。おお、と群衆が何故かどよめく。
 王が見下ろしても、警護兵に槍を一瞬突きつけられても、少女は物怖じもせずに笑顔のままだった。随分肝が座っている、とディリータは年端も行かぬ少女に思ったが、幼さが為せる技かとも思う。
 少女の笑みには邪気がなかった。へいか、とは呼んでいるが、その言葉の重さなど理解していないのかもしれない。あるいは、そういう名前を持つ男だとしか思っていないか。
 花、と呟いたディリータに、少女は勢いよく頷いた。
「そう、おはな! カリンのいえね、はるになるとたくさんのすずらんがさくから、へいかにもおすそわけ! ねえ、へいかは、すずらんってしってる?」
 カリンという名らしい少女の勢いに気圧されて、ディリータは差し出されたというより突きつけられた鈴蘭の小さな花束を受け取った。瞬間、群衆がさらにどよめき、続いて少女の名を呼ぶ女の声が聞こえた。
 きっと母親なのだろう。ディリータはそう思ったが、意識を少女カリンに戻す。
「一応は知っているが……」
「よかった!」
 ディリータの答に、カリンは歓声を上げた。
「しらなかったらカリンがおしえてあげようかなっておもってたけど、だいじょうぶなのね! へいか、おはなのこと、くわしいの? なんでもしってる? やっぱり「おうさま」だから?」
 食い気味にカリンが次々と問いを重ねる。その問いの多さと幼さ故の勢いにディリータは己の顔が僅かに引きつるのを感じた。子供の相手は慣れていない。
「……そうだな」
 否定と肯定、どちらにしようかと迷った末にディリータは曖昧に頷き、嘘をついた。花など詳しいわけもなかったが、王が自らの無知をさらけ出すという構図に良くないものを感じたためだった。
 王は万能でなくてはならない、民はそう信じている。善き者でなくてはならない、そう決めつけている。かつての王達が自らの地位に胡座をかき、何もしてこなかったのを今でも民は覚えていて──、だからこそ今の王には貴き者が持つ義務の遂行を要求している。
 当然だ、とディリータはその感情を肯定する。昔は己もそう思っていたのだから。
「すごいのねー、へいか! えらい!」
 満面の笑みでカリンが言う。簡単な言葉で褒められてしまったディリータはどう答えたものか分からなかった。
「カリン、もうやめなさい! やめて! ……陛下、娘の無礼にどうかご寛恕を賜りますようお願い申し上げます……!」
 悲鳴じみた声と共にひとりの女がまろび出ると、少女をその胸に庇った。そうして顔を伏せ、叫ぶように詫びる。
 雲が消えたかのようにざわめきが止んだ。固唾を呑んで事態を見守る数多の群衆の視線が身に刺さったが、ディリータは頓着せずに首を振った。
「……別に気にしていない。元気な子だ」
「カリン、げんきだよ! ……かあさま、くるしいー」
 ディリータの言葉が自分のことを言っていると分かったのだろう。ひょこりと顔を出してカリンは笑ったが、その笑顔は彼女の母が抱きしめる力を強めたことで不服げなものへと変わった。
「子は国の宝。大切に育てるとよい」
「は、はい!」
 カリンを抱きしめたままひれ伏す女に、ディリータは鷹揚に頷いてみせた。続いて、カリンへと視線を流す。屈んで目線まで合わせようかとも思ったが、それは止めた。
「カリン、礼を言う。ありがとう」
 ディリータがそう言うと、少女は笑顔で頷いた。


 用意された車に乗り込み、ディリータは手にしたままだった鈴蘭の花束を見つめた。釣鐘状の小さな白い花が清楚に並んで咲いている。
 ──鈴蘭を、今日もらった人はね。
 妹に昔言われた言葉が不意によみがえる。囁くように言っていたのを思い出す。……彼女の声はもう思い出せない。忘れてしまった。
 そのはずなのに、胸の内に響く妹の声は温かくて。
 ──幸せになるんですって。
 思い出の中の妹がはにかんで続ける。そうして彼女は鈴蘭の花束を差し出し──、受け取ったディリータの前から姿を消した。
「……幸せ、か」
 ディリータは呟いた。
 幸せをもたらすという春の白い花。それは、自分こそが彼女に贈るはずだった花。
 誰よりも幸せになってほしい、そう願っていたのに。
 願うだけでは駄目だったのだ、と今では思う。あの頃感じていた違和感をそのままにせず、「持たざる者」だったとしても何かできることをしておくべきだった。足掻くべきだった。……どうやって。
 悔やむ心はいつもそこで止まる。過去の自分から投げかけられた問いへの答は今も持たない。持てないでいる。
 それでも。
 ──幸せになってほしかった。幸せにしたかった。彼女を……彼女達を。
 その想いだけは変わらずに心のなかに在り続けている。変えられない過去、叶わない願い。そうしたものを抱えて今まで生きてきて、たぶんこれからもずっと。過去ばかりに囚われて、これからもきっと。
 冬の雪。胸に突き刺さった矢。最期の言葉は、何だったろう。
 春の光。胸に突き刺した刃。最期の願いは、何だったろう。
 彼女達に伝えたかった言葉は、想いは……。
 ディリータは目を瞑った。まるで逃げるようだと思ったが、そうするほかなかった。強く打ち付ける感情の波から己の心を守るすべを、それしか持ちあわせていなかったがために。
 投宿先である城に着いたのだろう、鳥車が止まる。
 春の日。朽ちた石畳。落ちた花束。……そういえば、あの日ももう近くに。
 開門を告げる衛兵の声を聞きながら、ディリータは手の内の花束を緩く握り直した。