溜息の行く先は

- Timeline until abandon the crown -

 先刻まで聞かされていた円舞曲が耳に残っている。
 王城の自室に戻ると、ディリータは側仕えの者をすべて下がらせた。主のこのような命令は彼らには既に慣れたもの、困惑や不服といった表情を見せる者はない。侍従長が目配せをすると、静々と全員が下がっていった。
 最後に侍従長が出ていくのを見届け、ようやくディリータは上着の釦を外した。
 しんと静まり返った部屋の中、脱いだ上着を瀟洒なソファに投げたディリータは一瞬思案した。……思案といってもたいしたことではなく、今日は疲れたからもう寝てしまおうか、それとも、といった程度のことだ。
 疲れた、と思う。既に夜半、ともすれば日付も変わってしまっていることだろう。休んだようでまったく休んだような気がしない「休日」は今日だけで、明日からはまた日常がやってくる。それを考えれば、早々に休むのが正しいということは明らかだった。
 だが、すぐには眠れそうにはないというのもまた明らかで。
 卓に置かれた水差しからグラスに水を注ぐ。軽く唇を水で湿らせて害がないことを確かめると、ディリータは一気に水を飲み干した。
 疲れた、とそうしてまた思った。人は疲れすぎるとかえって眠れなくなるという。今の自分は多分それだろう、とディリータは推測する。
 あまり好きではない酒。きらびやかな雰囲気。着飾った御婦人方。笑顔の裏にある貴族達の思惑。舞踏会は「面倒」の塊だった。だからこそ、城では滅多なことでは開かない。
 ──侯爵夫人には悪いが。
 社交界を牛耳る侯爵夫人の顔を思い浮かべながら、再び水を注いだ。
 彼女の思惑もまた、ディリータには面倒事だった。縁を取り持つことを生き甲斐としている彼女は何を考えたのか、自分に目をつけた。後ろ盾も何もない、あまりにも危うい「王」に縁談を事あるごとに勧めてきた。そして、そのための夜会も。
 まあ、彼女の場合はある意味において邪気がない。夫の出世を第一に考えているふうでもなし、他の貴族がそろそろ危惧しだすように世継ぎを殊更願うふうでもない。勿論、ある程度は願っているのだろうが。
 ──世継ぎ、か。
 手にしたグラスを眺め、一瞬躊躇した。飲もうか飲むまいか。それだけのことなのに、やはり何故か迷う。
 結局、中身はそのままにしてディリータは卓にグラスを置いた。
 そうして考える。……ぼんやりと思うだけだが。
 自分が消えた先の国のことを。
 ここまで立て直しておいて、と前置きをして問いを自身に投げかける。──世継ぎを自分の血に求める必要は果たしてあるのか。また、そのつもりが自分にはあるのか。
 夜会が面倒だというのはある。侯爵夫人のお節介も。貴族の勢力図を考え、均衡を保つためにはそれなりに功を認め、それなりに機嫌を取る必要もあった。それでも不満そうな表情で自分を見やる者達も多いが、そういう輩は腹に何かしらを抱えている。悪意とまではいかないが、ささやかな抵抗。突き放すのは容易だったが──、そればかりでは立ち行かないのも事実で。
 いっそ、恐怖政治にしてしまえば良かったかと笑えない冗談をディリータは浮かばせた。彼らは甚だ御し難いが、そこまでする必要はないと思っている。第一、その皺寄せが行き着く先は結局は民なのだということを考えると、それはできなかった。
 善き王でありたいとは、別段思っていなかった。だが、かつての自分を見ているような気分に進んでなりたいとも思わない。
 今、自分の手にあるのは、この国。──そう、この国だけを自分は持っていて、他はすべて手放してしまった。……手に入れることができなかった。ディリータは思い、溜息をついた。今日は何故か感傷的だ。
 そうして浮かび上がりそうになるのは、近くはない過去。昔と言ってしまっても良いのだろうか、それでもはっきりと覚えている出来事の数々。遠いのは自分の感情ばかり。
 妹。幼馴染。愛した女。
 貴族達は「好意的に」囁く。──野心のみで近寄ったはずが愛してしまった妃を失い、今も忘れられないのだ、と。
 それは本当のことだった。あの日のことを、それまでの日々のことを、彼女のことを、いつの間にか踏み外していた道のことを忘れるなど、できはしない。
 だが、それだけではなく……。
「……」
 ディリータは再び溜息をついた。整えた髪をぐしゃぐしゃにしてしまうと、首を左右に傾ける。鈍い音がし、そういえば疲れていたのだと思い出した。
 心に蓋をした。疲れた頭で、しかも真夜中に考える事柄ではなかった。
 客間を横切り、私的な執務室へと入る。勘を頼りに暗闇に沈む部屋を進むと、机の上にある蝋燭にディリータは火をつけた。
 そうして行儀悪く机に座り、書状を手に取る。持ち込んでいた書状に目を通すうちに、心は不思議と落ち着いた。
 仕事中毒だな、と呟き、ディリータは笑う。
 無論、応えなどなかった。