夢見る人形

- Timeline until abandon the crown -

 こんなはずじゃなかった、とレティシアは思った。
 側付きが心得たように近付いてきて扇子を渡してくる。ぼんやりとそれを受け取りながらレティシアの視線は一点に釘付けだった。
 父と談笑している男。──否、男性。
 こちらに背を向けているため、彼がどんな表情をしているかは分からない。ただ、頷きながら嬉しそうに何事かを言っている父の様子から察するに、ついさっきまで自分に向けていたあの優しい笑顔のままではないだろうかとそう思う。
 扇子を開くのも忘れ、レティシアは立ち尽くした。
 ──こんなはずじゃ、なかったのに。
 そうして繰り返し思う。自分の予想が甘かったことを悔いもしたが、しかしそれどころではなかった。
 何と表現したら良いのだろう、この気持ちは。
 頭がくらくらする。胸がどきどきして落ち着かない。視界までぼやけてきたのは、なぜ?
 次の曲が始まったのだろう、側付きに促されるままに歩き出す。それでも、目が彼のことを追うのは止められなかった。


 彼のことは人づてにしか聞いたことがなかった。
 野心家。成り上がり。若造。身の程知らず。下賤の者。
 彼を表す言葉はそんなものばかりで、だからどこかで侮っていたのだ。父やその友人、母に乳母、家庭教師までもが嘆く姿を見るに、厄介な者なのだろうと。
 この国の頂点に立つ者。イヴァリースの新しい王。
 ディリータ・ハイラル。
 自分にとっては物心ついた頃から彼が王だったが、父達にとってはそうではなかった。先の戦であたふたしているうちにいつの間にか彼は玉座までのし上がっていたのだという。本当に、気付かない間に。
 王家に縁があるわけでもない、貴族に連なる者でもない。今は名を消してしまったどこかの名家に仕えていたようだが、それもよく分からない。
 確かなのは、平民の出だということ。
 父達は当然反発したらしい。けれども、その反発はすぐに封じ込められてしまった。従順な者には栄華を、歯向かう者には断罪を。彼はそう口にし、そしてそれは現実のものとなったのだから。
 そして時間は降り積もる。次第に穏やかになっていく世の中──勿論まだまだこれからなのだけれど──に大半の貴族達は河岸を変えた。若き王に恭順の意を表したのだ。
 さらに時は流れ、そして、今。


 誰かからフルートグラスを渡されてもレティシアはぼんやりとしたままだった。
 ──反則だわ。
 てっきり、粗野な者だと思っていたのに。若いとはいっても既に二十も半ば過ぎ、「苦労」も相当したのだろうから老けていそうな気もしていた。まず、偉ぶっているのだろうと決めつけてもいた。
 なのに、だ。
 今日まで抱いていた彼への見解、いや、偏見を改めなければならないとレティシアは思った。思っていたのと、まるで違っていたのだから。
 国王陛下はそこらの貴族よりも余程紳士だった。
 こうした夜会は初めてではなかったから、緊張はそれほどしていなかった。父から「陛下からお言葉を賜るだろう」と聞いても、それは変わらなかったのだが。
 実際に相対してみると、緊張どころの話ではなかった。
 話の流れで踊ることになり、挨拶程度の言葉を交わした。流麗な言葉遣いで恭しく挨拶をされ、まずそこで少し驚いた。抑揚には癖がなく、庶民じみた物言いも彼はしなかった。
 集まる視線を受けながらエスコートされ、ホールの中央に出る。音楽が始まり、ゆったりと踊り始めて──、レティシアはまた驚いた。彼のリードは完璧だった。テンポにぴったりと合い、握られた手はあくまで軽く、当然のように足は踏まれなかった。勿論、それだけで完璧などとは称せないかもしれないが、今まで見知った青年貴族の面々はこれほど上手ではなかった。どの男も自分勝手で強引で、踊り終わる頃には疲れてしまうのが普通だった。
 踊りながら微笑まれて、その笑みが自然だったからさらに驚いた。驚きすぎて何がなんだか分からないままに曲は終わり、父のもとまでエスコートされた。その後には何か話しかけられたのだと思うが、どう返したかは覚えていない。
 最後に再び礼を尽くされ、優しい笑みをもらった。そうして夢のようなひとときは終わってしまったのだが──。
 ──本当に、夢だったのかも?
 父との話が終わったのだろう、今度は別の貴族と国王は話していた。やはりこちらには背を向けているし、離れてしまっているからどんな表情なのかは分からない。笑顔かしら、とレティシアは思いかけて、頭をぶるぶると振った。自分以外の相手にあの笑みを渡したくはない、とそう思った。強欲だと心のどこかでは知っていたが、誰かと踊ってほしくなんかないと思った。
 だけど。
 ほわほわと浮き上がった心はすぐに沈んでいく。きっと、この後にも彼は誰かと踊り、誰にでも笑みを振りまくのだ。これまで開かれていた夜会でもそうだったはずだ。
 グラスを傍らの卓に置き、扇子を握りしめる。ますますぼやけてきた視界をそのままにして、レティシアは自分の淡い恋心を自覚した。
 ついこの前読んだ物語をふと思い出した。身分違いの恋に悩む主人公。読んだときには主人公の心がよく分からずにつまらない話だと思ったが、今は少し分かるような気がした。
 雫が頬を転げ落ちる。そういえば、物語の主人公もこんなふうに泣いていた。彼女はその恋を最後には見事に実らせたが、自分は。
 レティシアは思う。自分の想いは届かない。届くはずもないのだ。
 父に言えば、何か変わるかもしれない。けれど、そうではなくて。
 溜息をつく。忘れていた扇子をようやく開こうとして──、レティシアは肩を叩かれた。
「レティ、どうした?」
 聞き馴染みのあり過ぎる声に、目を瞠る。
 頬を乱暴に拭ったレティシアが勢いよく振り返ると、そこにはハンカチを差し出しながらそっぽを向いた幼馴染がいたのだった……。