雨の日の夢

- STARWALKERS -

 漆喰が剥がれかけた壁のような具合だった。
 時折吹き荒れる砂嵐のような具合でもあった。
 古びた羊皮紙の端。引っ掛けてできてしまったかぎ裂き。中身のなくなったインク壺。錆だらけの鐘。
 暗い隧道を抜け、白い光の渦に突き落とされる。ふと仰いでしまった陽に眩むような、そんな具合。
 薄衣をまとったように紗がかかっているわけではない。
靄に包まれているわけでもない。
 普段省みることもないそれは、朽ちた小箱の中に入っている。鍵はないが、歪んだ蝶番が開けようとする者を拒む、そんな箱に。
 それが何なのか、彼女は知っていた。彼女だけが知っていた。何故なら、それは彼女のものだから。
 だが、彼女も忘れていた。もう、長いこと。
 心の片隅に置き忘れていた小箱。その中にあるものは──。

 バルマウフラは足早に歩いていた。
 道に転がる小石を足裏が覚え、裾や袖口から入り込む埃っぽい風が肌に触る。それらに顔をしかめながら彼女は使い先へと急いだ。
 底が擦り減った靴は少し大きく、春先に着るには薄手すぎる服もまた同様に大きい。どちらもお下がりなのだから仕方がないのだが、後でもう少し直さなければと思う。
 歩きながら重い籠を持ち直す。すると、籠に入った瓶がカチャカチャと音を立てた。
 教会で作った葡萄酒を懇意にしている家や店へ配って歩くのが、今日の彼女の仕事だった。教会に住む子供達で手分けをし、それぞれが重い籠を持って街に散る。辿り着いたら日頃の礼を丁寧に言い、葡萄酒を渡す。そうして、幾ばくかの寄付をそれとなく求める……そこまでが今日の自分達の仕事。
 冷たい水に触らなくて済むから、今日の仕事は楽だなとバルマウフラは思った。籠は重いし、礼に添える笑顔は得意ではない。貰うものだけ貰って扉を閉める大人に悪態をつくこともある。それでも、少しはましだった。
 ──早く終わらせて帰ろう。
 そう思い、最初の家の扉を叩いた。しばらく経って顔を出した使用人は主人の不在を素っ気なく告げ、犬猫を追い払うように手を振った。
 閉まりかけた扉を手で押さえ、早口で口上を述べる。不機嫌そうな色を隠さない使用人に葡萄酒が入った瓶をつくった笑顔で渡し、急いでその場を離れた。
 扉を叩く。笑顔をつくる。礼を言う。葡萄酒を渡す。運が良ければ寄付の依頼を。
 最後の一本になるまでそれを繰り返したが、結果は芳しくなかった。寄付の話まで漕ぎ着けても半分は渋い顔をし、もう半分が気の毒そうに扉を閉める。笑顔で応える大人はひとりもいない。
 仕方ない、とバルマウフラは思う。
 戦がそうさせている、と訳知り顔でそう教えてくれたのは教会をよく訪う大人達だった。もう長いこと続いている隣国との戦でこの国は駄目になってしまった。王はおろか貴族も重税に喘ぐ民には見向きもしない。貧しくなっていく現実を直視しようとしない。せめて勝ち戦なら、とも思うが旗色は悪いらしい……。
 嘆きなのかぼやきなのか判断のつかない大人の言葉はよく分からなかったが、諸々を諦めてしまうには十分だった。
 真新しい靴や服。甘いお菓子。可愛い人形。安息日に出されるという雉の丸焼き。ただでさえ孤児には縁遠いものばかりなのだから、この先それらを手に入れるなどということは夢幻に違いない。
 故に彼女は諦めることを覚えた。仕方ない、と現実を適当に受け入れるすべを覚えた。
 そう、仕方がない。ちっぽけな自分にできることなんて何もないのだから。彼女は思った。
 軽くなった籠を腕にかけ、最後の一軒である商家を訪ねた。鉄扉に据え付けられた呼び鈴を引っ張り、待っている間に口角を上げた。思い出さずともすらすらと口をついて出る言葉をもう一度だけ頭に呼び起こし、それから深呼吸をする。
 この商家は別格だった。街の小さな教会にとって生命線ともいえるほどにその存在は大きく、それはそのままバルマウフラ達孤児の運命をも左右する。そう思うと失敗は許されなかった。
 だが。
 たっぷり四半刻は待っただろうか、現れた使用人は手に何かを持っていた。門の向こうに佇む孤児を使用人は一瞥し、葡萄酒はもう不要だと告げた。
 バルマウフラは顔色をなくした。今年だけですか、と問う声が震えた。
 使用人はゆっくりと首を横に振った。手紙らしき紙切れを門扉越しに渡してよこし、神父様に知らせるようにとだけ言い残して去っていった。
 後にはバルマウフラだけが残された。
 閉ざされた門扉に力無く触れ、しばらく彼女はその場に呆然と立ち尽くした。砂埃の舞う風が全身を洗ったが、そんなことに気を回す心の余裕はなかった。他の家や店のときと同様に悪態をついてやり過ごすなどということもできなかった。
 転がり落ちる坂道の先に待っていたのは脆い崖だった。昨日から続く今日、今日から続く明日の先に見えるものはもう何もない。
 あるとすれば、絶望という名の海くらいだろうか。
 やがて、彼女はぱちぱちと目を瞬かせた。忘れていた呼吸を意識して繰り返すと、目に入った砂を押し流すべく浮かんだ涙は乾いた頬を流れた。
 ──仕方が、ない。
 緩みかけた心の螺子を締め直そうと歯を食いしばる。乱暴に擦った目で商家を睨むと、彼女は門扉から手を離した。
 睨んだまま一歩退く。そうしてまた一歩。後ろ歩きでそのまま街路へと戻ろうとしたそのとき、背後から車輪の音が聞こえた。
 振り返ると、品の良い風情の鳥車がこちらへと向かってくるのが見えた。路の中央を歩いてしまっていることに気が付いたバルマウフラは、慌てて道脇へと退いた。
 ──貴族様だろうか。だったら。
 通り過ぎようとする鳥車をぼんやりと眺めながらバルマウフラは思う。
 ──この葡萄酒、持っていってくれないかな。
 街の大商人には見事に振られてしまったが、それよりも貴族に捧げられれば教会が受ける見返りはそのほうがずっと大きいだろう。そうすればこれからの糧に困ることもなくなるし、今回の失態で罰を受けることもない。それどころか、よくやったと褒めてくれるかもしれないし、新しい靴や服を買ってもらえるかもしれない。
 衝動のままにバルマウフラはふらりと一歩前に出た。そうしてまた一歩。
 路に出てきた子供に気が付いたのだろう、鳥車の御者はぎょっとしたような顔で手綱を引いた。驚いたのか、車を引いている鳥も妙な鳴き声を上げて歩く速度を落とす。
 好機だった。
 睨んできた御者には目もくれず、バルマウフラは車に向かった。何事かと外を見やった鳥車の乗客──きっと貴族様に違いないと彼女はそう思った──に急ごしらえの笑みとともに籠を掲げる。
 ──あの、これ。教会で、葡萄酒を作って、それで。
 あれほどすらすらと出ていた口上はすっかりたどたどしく、頭の中は真っ白になった。何を言おうか、何を言っているのか、自分でもよく分からなくなっていた。
 それでも、と彼女は思った。震えだした体を励まし、乗客を見つめた。
 だが、戸惑う様子の乗客と張り付いた彼女を無視して鳥車が再び動き出す。御者の舌打ちに気を取られる間もなく、よろけた彼女は籠を落とした。
 聞こえたのは、自分を蔑む他人の心。それから、砕けて消えた自分の未来。
 落とした籠から赤い液体が流れ出る。転んだ彼女はその正体を勿論知っていたが、そのとき思い浮かんだのはまったく別のものだった。
 砂埃に塗れた路に流れたのは、葡萄酒などではなく夥しい血。
 砂埃に塗れた路に伏すのは、瓶などではなく自分の骸。
 ──それは、そう遠くはない未来に必ず起きること。
 啓示めいたそのひらめきは、凄まじい速さで彼女の心を縛り上げた。僅かに残っていた心の柔らかな部分を蝶番の歪んだ小箱に閉じ込め、溶けぬ氷を代わりに満たす。そうして凍りついてしまった心を棘のついた鎖でがんじがらめにしてしまうと、最後に啓示は彼女へ仮面を贈った。
 彼女は、それを静かに受け取った。


 小さな箱の中にあるのは、封じられてしまったのは、古い記憶。諦めの中に漂うかすかな期待。明日。未来。
 思い出すこともなくなったもの。思い出せなくなったもの。
 忘れてしまったものは──、心。
 啓示が施した鎖は解けるはずもなかった。それ故に、未来を望む彼女は存在するはずもなかったのだ。
 だが。
 季節は巡り、星も巡り、人も巡る。
その、只中で。

 耳には聞こえぬ音とともに、彼女は鎖から解き放たれた。

 雨が降り続いている。
 眠りに落ちる前からずっと聞こえる雨音に促されるように、バルマウフラは意識をゆっくりと覚醒させた。
 朝が近いのか、それとももうとっくに朝なのか、窓に張ったタペストリの隙間から見える外は薄明るい。正確な時刻こそ分かりようもないが、この天気を考えるとたぶん後者なのだろうとバルマウフラは思った。
 雨の朝は嫌いではない。勿論、何日も降り続く長雨ともなると鬱陶しいことこの上ないし、快晴の朝もまた捨てがたい。だが、何の予定もとりあえずは見つからずにぼんやりと過ごすことができる日の始まりとしては、これはこれで良いものだと思う。
 何にも急かされることなく、ゆったりとしたまどろみから目覚める朝。今日の雨はその一助だった。
 何より暖かい。部屋に冷気は満ちているし、そもそも何も身に着けていないからそのぶんだけ肌寒くはあるが、それでも上掛けを被ってしまえば十分に暖かかった。
 その暖かさが心地良くて、再び瞼が閉じかける。眠いというわけではないが、もう少しこうしていたいとなんとなく思った。
 幸せだから、というのとは違うとバルマウフラはぼんやりと思った。今は満ち足りているから? 続いてそう考えてみたが、それもなんだかしっくりこない。
 ただ、本当に、なんとなく。今はこうしていたい。
 ──不思議ね。
 この感情の変化はいったいどうしたことだろう。そう思い、バルマウフラは忍び笑いをもらした。かつての自分とは少しずつ変わってきていると思う。何がどう、とはいえないのだが、何かが違う。
 持ち前の気の強さも、突き放すような物言いも、他人への手厳しさも基本的には何も変わっていないはずなのに、昔の自分とは何かが。
 ──そういえば。
 昔、という符号に思い至り、彼女はうっすらと目を開いた。
 夢を、見た。幼かった頃の、忘れていた遠い過去の、そんな記憶を思い起こすような夢を。
 その夢は懐かしさを帯びてバルマウフラに語りかけた。こんなこともあったでしょう、と包み込むような優しさで漆喰が剥がれかけた壁のような記憶を呼び起こした。
 夢の中身は──記憶自体は優しいものではなかったけれど、胸をぎゅっと締め付けるようなものではもはやなく、ただ懐かしく思えた。
 そんな夢を、最近見るようになった。夢だけではない、ふとした拍子に思い出すことも多くなった。
 まるで、固く閉じられた箱を開けたかのような。
 戒めの鎖を解いたような。解かれた、ような。
 ──何故、かしら。
 答は出ていると思いながら、唇だけでそう呟いた。
 素直に認める気にはなれないが、ひとりではないというこの状況がそうさせているのだろうとそんなふうに思っている。それが自分なりの答だ。……あまり認めたくはないことだが。
 守るように、包み込むように。そんなふうに今も自分を抱いている背後の男が、きっと。
 ふう、と息をつくと、バルマウフラは手を滑らせた。そうして自分の腰から太ももにかけて撫でさすっている男の手をつねった。
「起きているんでしょう、オーラン」
「痛いなあ」
「変な真似をするからよ」
 笑い含みの声を背に受けたが、バルマウフラは振り返らずに言った。掠れているが、いつもの声色が出せて少しほっとする。

<続>