Sorrow And Bitter Memory

「自分で渡すべきじゃないか?」
「わたしが? 馬鹿なことを言うのね?」

 ……それは、まだ何も知らなかった頃の思い出。

 扉を叩く音が聞こえたが、ラムザは振り向かなかった。そうなることは分かっていたのだろう、叩いたほうも許しを得ずに扉を開く。ギィ、と軋む音が響いた。
「帰るわ」
 開口一番、扉を開けた者は言った。
「わたしがあなたに付き合う理由なんか、考えてみればないもの。一区切りもついた感じだし、帰らせてもらうから」
 許可の問いではなく、確認のそれでもなかった。相手の意思なぞどうでもいいといった口ぶりで続けられた言葉に、ラムザはようやく振り向く。
「……アカデミーに? それとも、家に?」
 ラムザが訊ねると、戸口に立つ者──ここまで共に戦った仲間のひとりだ──は頬に指を当てた。
「そうね、一旦は家に帰るかしら。泥臭い争いに巻き込まれてしまった愛娘を、父や母は殊更心配しているから。それに、わたしの未来にこんな戦いは必要ないの」
「……」
 高貴な生まれの彼女はそう言い切ると、冷えた表情でラムザを見据えた。
 ──こんな戦い。泥臭い、争い。
 ラムザは彼女の言葉をぼんやりと反芻した。それは、どのことを言っているのだろう。
 士官候補生として殲滅戦に駆り出されたそのときから、今まで。教官が決めた編成で偶々一緒になったから、彼女は巻き込まれてしまった。彼女にとっては「必要ではなかった」争いに。
 殲滅戦。侯爵の救出。骸旅団との戦い。ミルウーダを、ウィーグラフを斬った。……そうして。
 兄の命令。放たれた矢。炎の向こうに消えた幼馴染。
 歯車が狂ったのは、どこからだっただろう。分からない。
 何故? 僕は、どうしてしまったのだろう。何故、こんなことに。なぜ。どうして。
 いくつもの問いを過去に投げかけてみても、答は返ってこない。そうしてまた問いかける。なぜ。
「今のあなたに価値なんてない」
「……そう」
 思考の底なし沼に沈み込んでいくラムザを現実に引き戻すように、彼女は言った。剣の切っ先を突きつけられたような心持ちになったが、それも仕方がないとラムザは思う。
 むしろ、思う。いっそ斬ってくれと。言葉で。本物の剣で。断ち切ってくれ、そう願う。
 誰も助けられず、何もできなかった。自分がなくて、流されて、食いしばるような思いもなくて、疑問だけが空回りして、何も考えてこなかった。何も見えなかった。見なかった。
 そんな自分を、誰か。誰か、裁いてくれ。
 ──ああ、でも。ラムザはそっと笑った。彼女が言うように、自分にはそんな価値もないのだった。
「何を笑っているの?」
「……いや、なんでもない。確かに、僕には君が言うような価値なんてない。そう気付いただけ」
 ラムザがそう言うと、彼女は腕組みをして扉に凭れた。
「今更よ」
「そうだね。だから」
 ありがとう。ラムザは続けた。
「……?」
「僕は何も分かっちゃいなくて、目の前で起きた出来事ばかりを追って、ここまで来た。……ここまで来てしまった。それでも今まで死なずに済んだのは、君や皆がいたからだ。皆が僕の傍にいたから、僕は」
「わたしも馬鹿だったのよ。それだけのこと」
 ラムザの言葉を遮って彼女は告げた。
「馬鹿、か」
「そう。見切りをつけるのが遅すぎた。あなたが私情を持ち出したときに離れたらよかったの。ディリータの妹を助け出すためなんて意味のないことに付き合う必要なんかなかった」
「……」
 幼馴染の名を出され、ラムザはただ黙した。厳しいことを言う彼女に返す言葉を探したが、出てこない。脳裏に今まで浮かべられなかった名前に囚われる。
「大概だと思ったけれど、今ではアルガスの気持ちが少し分かるわ。平民を助ける義理なんてない!」
 彼女が扉を打ち付けた強い音に、ラムザは身を竦ませた。そんなラムザを一瞥し、彼女はさらに言い募る。
「そんなことをしていたら、命がいくつあっても足りない。わたしは……いえ、私達は統べる立場なのよ。当然、見るべき世界は違う。身を置く場所も違う。善悪で語れるものじゃなく、現実だわ。役割がまったく違う、命の重みも」
「……それ以上言うなッ!」
 思わず立ち上がり、ラムザは怒鳴った。
 血を吐くようなミルウーダの言葉がよみがえる。──知らないということ自体が罪。
 今はどうだろう。ミルウーダの叫びを聞き、アルガスに現実を突きつけられ、そうした果てに自分は「何か」を知った。鏡の向こうに実在していた世界を見た。……そのはずだと思う。
 ここまで共に来た仲間達──そう、彼女も同じ。気高くも狭い世界から、鏡の向こうの現実に足を踏み入れた。知らなかった絶望を知った。嘆きを、怒りを受けた。
 それでも。いや、それだからこそ?
「わたしには、わたしのすべきことがある」
 彼女は宣託を告げるように、厳かに言った。
「すべきこと?」
「あなたがベオルブであるように、わたしも「舞台」に立つ人間だわ。尊ばれる者として為すべきこと、果たすべき義務を持つ者」
 それを、と彼女は続ける。
「あなたは分かっていない」
「……」
 ラムザは黙り込んだ。自分の感情は拒絶しているが、彼女の言葉には理が通っている。……そう、高みにある者がゆえの役割は確かにある。
 ──でも、そんなのは。
 心が叫ぶ。
 それを決めたのは、何。誰。高貴な者、そうでない者。持つ者。持たざる者。ああ、草原でディリータが言っていた。──覆せないものがある、と。
 諦念の顔だった。彼は分かっていて、自分は分かりたくなかった。
「あなたはどこへも行こうとしない。逃げる勇気もない。与えられるのを待つだけ、誰かがなんとかしてくれると思っている」
「それは……そんなことは……」
 反駁しようとして、しかしラムザはできなかった。事実を前にして何を言えばよいのか分からず、途方に暮れる。
 ふ、と彼女が笑んだ。
「……ディリータも途中まで分かっていなかったわね。彼こそ現実を見たくなかったのかも。そう、ふわふわと浮いていたかったのかもしれない。そんなこと、できるわけがないと知っていたはずなのに」
 遠い過去を懐かしむように言った彼女の姿に、ラムザは数月前のことを思い出した。

『これをディリータに渡して』
『ディリータに? これは?』
『あなたが知る必要はないわ』
『今年も? ……いい加減、自分で渡すべきじゃないのか?』
『わたしが? 馬鹿なことを言うのね?』

 感謝祭でのことだった。
 彼女はディリータに好意を持っていたのだろう。想いが飛び交う祭で何を告げたかったのか、そんなことは分かりきったことだった。気位の高さや彼女の身分を考えると、少し意外でもあったが。
 いや、それだから惹かれるところがあったのかもしれない。
「……プレゼントを直接渡さなかったのは、この「現実」が理由?」
 言葉を選びながら訊ねたラムザに、彼女はせわしく瞬きをした。急に話が飛んだことに驚いたのだろう、怪訝そうな表情を垣間見せる。
 だが、それも一瞬のことだった。
「そうよ。まさか、わたしが恥ずかしがっているとか思っていたの?」
 合点がいったとばかりに彼女は揶揄するような笑みを見せた。本当のことなのか、それともただの虚勢なのか。本心を窺い知るのは難しい笑みだった。
「僕は、君がディリータのことを好きなんだと思ってたけれど……」
「好ましいと思っていたわ。ベオルブから引き抜こうと思うほどにはね」
 でも、あなたが言うような「好き」じゃない。そう言い切ると、挑むような目つきで彼女はラムザを見据えた。ただ、と繋げる。
「あなたの傍にいても、ディリータは幸せになれなかったわ」
 断じた彼女をラムザは咄嗟に睨んだ。
 彼女の放った言葉は正しかった。考えないように、触らないようにしてきたが、ディリータが自分と並び立つ未来はなかった。努力すれば、何かが変わる。そんなふうに思い込んで、彼にもそう言って。なんだってできると信じ込んでいた未来は虚幻だった。
 今なら、少しはそれが分かる。……だが、認めてしまうのはあまりに苦しかった。
「何が幸せなのか、君には分かっていたのか? ディリータが何を望んでいたのか」
 睨めつけたまま問いを絞り出したラムザに、彼女は首を横に振った。
「さあね。ただ、あなたの傍にいるのだけは駄目だと思った。ディリータのほうが才覚は上なのに、あなたは彼を潰したことでしょう。何の自覚もないままに」
「……」
「もっとも、彼がそれを望んでいたのだとしても……無駄ね、こんな話は」
 ディリータは死んだのだから。
 肩を竦め、彼女は話を切った。部屋に入り、立ち尽くしたままのラムザに向き合う。
「ああ、髪が傷んでいるわ。後で切りなさい」
 忠告のような響きで告げると、彼女は片手を挙げた。じゃあね、と手を振って踵を返した彼女の背に、ラムザは声をかけた。
「……君は、自分で渡すべきだった」
 歩が止まる。ちらりと振り返り、彼女は笑った。
 そうして──。
「そうかもね」
 それだけを言って、彼女は去った。

「ライザ・シェーン伯爵夫人にございます」
 側近の声に合わせて、目の前の婦人が優雅に腰を折る。
 ただの黙礼で返し、ディリータは次の客へ目を向けた。社交界を牛耳る侯爵夫人が開く夜宴は例によって忙しい。次々と引き合わせられる客の一人ひとりを覚えられるわけもなく、覚えるつもりもなかった。
 だが。
「失敗したわ」
 軽い口調で言葉をかけられ、思わずディリータは声の主を見やった。すると、紹介されたばかりの伯爵夫人がゆったりと微笑む。
「わたくしは自分で渡すべきだったし、あなたは……陛下は幸せを掴みそこねた」
 残念ながら、ね。
「……?」
 謎かけをするように彼女は言うと、再び礼をとった。言葉の意味を訊ねそうになったディリータに頷き、「彼は」と囁く。
「あなたを殺し、そして生かしたのでしょう」
「彼……?」
 訊き返したディリータに彼女は答えなかった。貴婦人の微笑みを浮かべたまま辞去の挨拶を述べ、そうして立ち去った。
 早春の日、彼女がかつてそうしたように。
 それは、ディリータが知る由もないことだった。

あとがき

ジークデン戦後のラムザと汎用さん(離脱寸前)の話でした。汎用さん→ディリータな感じにもなっていますが、特段何が起きるというわけでもないです。過去にも、未来にも。でもディリータに想いを寄せてた子は結構いたのではと思っています(きっとラムザ以上に)。表立って告げそうな子はいなさそうですが…それもまた切ないな。

しかしラムザが超ぼんやりさんになってしまいました…。

2022.02.20