Knot

 ──帰ったほうがいいと思うよ。

 耳に残って消えなかった言葉がある。

 ──家族がいるなら、一度だけでも顔を見せたほうがいい。それが無理なら、故郷だけでも見てきたほうがいいと思う。

 ふとした瞬間に思い出す言葉がある。

 ──家族は大事にしたほうがいいと思うんだ。

 晴れた空。風渡る草原。
 終わった、と彼は笑顔で言った。後は彼に託す、とも。
 晴れた空。己の意思で集った者達の別離のとき。
 それぞれの未来へと向かおうとする仲間達に、彼は噛みしめるように言った。

 ──何があってもそれもひとつの絆だから。

 季節は巡り、星も巡る、そうした只中で。
 その言葉に立ち止まってしまっていた自分が、いる。



 乗ってきた鳥を木に繋ぐと、アグリアスは屋敷へ続く道に出た。
 降り続いていた雨も上がり、道の両脇に植わっている木々から木漏れ日が降り注いでいる。草葉の匂いが濃く混ざった空気は新鮮で、清々しい。
 アグリアスは深呼吸をした。そうしてみると、体中に巡る澱みが洗い流されたような気がした。ここに来るまで抱えていた迷いも振り切れたような気がした。
 生家へと続く道を、ゆっくりと歩く。久しぶりに。
 久しぶり、などという表現は控えめかと頭の片隅で思う。もう幾年も帰っていなかった。そのためか、映る景色はどこか新しい。時折思い出しては打ち消していた追憶色の景色とは違って、目の前に広がる景色は色鮮やかだった。
 木々や草葉の緑。幹に巻き付いた蔓の、そのところどころに咲く古薔薇の白。早くも咲き始めた紫陽花の赤紫。それより低いところにひっそりと佇む小花の薄黄や白。木漏れ日の向こうに見える空の青。
 目に、心に、優しい景色が広がっている。
 こんなにも慕わしい場所だっただろうか、とアグリアスは記憶の中のそれと比べて思った。
 自分が暮らしていた頃は、もっと整っていたと思う。厳か、とまではいかないが、他所と比べても差異はない「普通の貴族の館」だったような気がする。古臭く、少しだけ息の詰まりそうだった場所だったような、そんな気が。
 今、目の前の景色からはそんな印象は受けなかった。優しく、慕わしく、他者を迎え入れるような、穏やかな雰囲気に包まれていた。
 それは、この場が変わったからなのか。それとも、自分が変わったからなのか。時が流れたからなのか。
 どれも正解なのだろう、と思いながら歩く。少なくとも、自分と時代は変わった。思ってもみないきっかけで自分の心の内は変わり、思いもしない方向に時代はその流れを変え、次へと進んだ。
 変わらないものはない、と思う。同じように、この慕わしい景色も自分が憶えているものから変わっていったのだろう。……自分が知らない間に。
 そう思いながら目線を上げると、木々の隙間から屋敷が見えた。
 ああ、とアグリアスは嘆息した。
 蜂蜜色の壁に這う蔦。灰色の屋根。少しばかり曲がって見える煙突。硝子がはめ込まれた幾つもの窓。屋敷の前に広がる庭。自家の紋章を配した門。
 変わらないものはない、と思う。憶えているものとは少し違う、とも思う。だが、それでもこの光景は懐かしかった。
 込み上げてくる何かを追い払うようにまばたきをする。そうして、いつのまにか止めてしまっていた歩をもう少し進め、門の前に立った。
 閉ざされている門扉を何気なしに押してみると、それはあっさりと開いた。
「──」
 てっきり施錠されていると思っていたアグリアスは、慌てて門扉に手をかけた。放っておけば緩々と開いていく気配のそれを再び閉める。すると、門扉は反抗するようにギィ、と音を立てた。
「……不用心だ」
 扉を押した自分を棚に上げ、ぼそりと呟いてみる。
 使用人の手落ちなのだろう、とアグリアスは思った。もしかするとこれから来客があるのかもしれないが、その場合にしても客の御者なり従者なりの先触れを介して門を開ければ良いだけのことだ。こうして開けておく必要はない。
 厄介な輩が──たとえば今の自分のような者が──忍び込みでもしたらどうするのだろう。正面から入って忍び込むというのもおかしな話だが。
 門扉を睨んでいると、ふつふつと怒りめいたものが何故か湧き上がってきた。自分の立場を置いても何か言っておくべきような気がして、門の向こうに人影を探す。陽も高いこの頃合いなら庭師でもいるかと思ったのだ。
 ならば、と庭の端から見ていく。だが、アグリアスはすぐ視線を止めた。
 確かに、門の向こうには人がいた。少し死角になっていた場所で男がひとり、こちらを見ている。
 目が、合う。
「おや、アグリアス」
 軽い口調でそう言うと、男はにっこり笑った。手にしていた杖を掲げ、危なっかしい調子でひょこひょこと歩いてくる。
 アグリアスはそのさまをただ見入った。何か言おうとしたが、言葉が出て来ない。魔法にでもかけられてしまったかのように、立ち尽くした。
「どうした?」
 やがて、男は門の向こうに立つと、まるで当然のように門扉を開いた。ギィ、とまた門扉が音を立てる。
 その音にアグリアスは我に返った。笑顔の男をまじまじと見つめたまま、今なお空転する頭のなかから言葉を探す。
「……兄様」
 掠れた声でぼんやりと呼びかけると、彼は目尻を下げて頷いた。


 ──家族は大事にしたほうがいいと思うんだ。何があってもそれもひとつの絆だから。


「元気だったか?」
「はい」
「それはなによりだ」
 立ち話もなんだからと言う兄に案内されたのは、庭園の一角に配してある四阿だった。
 着座を促され、石造りのベンチに座る。アグリアスが座ったのを見届けると、向かいにある同じようなベンチに彼もまた座った。
 飴色をした杖は、卓に立てかけられた。
 ──いつから、なのだろう。
 自分が知るかぎり、兄の足に不自由は別段なかったはずだ。杖を持っていたような記憶もない。どこかで怪我をしたのか。あるいは、何らかの病気でそうなってしまったのか。
 杖を眺め、アグリアスは口を開いた。が、それを遮るように彼が言葉を繋ぐ。
「茶を用意できれば良いんだが、あいにく皆忙しくてな。すまん」
「お気遣いなく。……兄様は何を?」
 浮かんだ問いをとりあえず胸にしまい、アグリアスは別のことを尋ねた。
「気分転換に少し庭の手入れをしていた。ついでに、応接室に飾る花を切りに……。今日はハンスもアーニャも休みなんだ」
「そうなんですか」
 古くから働く庭師夫妻の名前を挙げられ、ふと懐かしい気持ちになる。庭を走り回っていた幼い頃、彼らは顔をしかめて自分によく小言を言った。
 ──お召し物をこのようになさって。庭もめちゃくちゃだし……旦那様に叱られるのは私どもなのですよ。
 そうして聞こえよがしに溜息をついてみせるのだ。
 はじめの頃は小言とその溜息を聞くたびに、彼らの処遇を思って少し不安になったものだった。だが、彼らが呆れながらも笑っていることに気が付いてからは、小言も溜息もあまり怖くなくなった。
 庭を荒らしているのが誰なのか。それを分かっていた父は彼らを罰しなかったからだ。
 一方で真犯人である自分には、雷を時折落とした。声を荒げるわけでもなく、手を上げるわけでもなく、長い説教をするわけでもなかったが、その雷は堪えた。
 それでも、喉元過ぎればなんとやらで、数日もすればまた庭に出た。走り回り、木の枝を剣に見立てて振り回し、手近な木に登った。相当なお転婆だったと自分でも思うが、「外」を見ることが叶わない者のささやかな反抗心だったのかもしれないとも今では思う。
 屋敷と庭、そして時々訪れる教会。それが世界のすべてだった。この家を離れるまで、ずっと。
「そういえば、アグリアスはよく駆け回っていたな。そうしてそのたびに二人に怒られていた」
「……古い話です」
 今まさに思い出していたことを言われ、赤面する。それを取り繕うように軽く睨みつけてみても、彼は面白そうに笑っていた。
「私の……、まあいいか、俺の悪友と手合わせめいたこともしただろう。見事に叩きのめしていたな」
「……よく憶えていますね」
「面白かったからな。奴は腹を立てて、お前に毛虫を投げつけたんだっけ?」
「芋虫です」
 アグリアスは苦々しげに言い返した。
 天敵を投げて寄越されたのは、苦い思い出だ。身の毛がよだち、凍りついたように身動きができなかった。今までのことが走馬灯のようによぎったのも憶えている。やっとの思いで目を瞑り、神に加護を祈ったことも。
 ──勿論、そんな願いが聞き届けられるわけもなく、さりとて死ぬわけでもなく、虫は髪にひっついたのだが。
「……ご友人はお元気ですか」
 兄の友人の名前はもう憶えていない。
「ああ、それなりにやっているよ。今も大事な飲み仲間だ。ところで、アグリアス」
 髭のない顎を撫でると、兄は小首を傾げた。
「何ですか?」
「お前、幾つになった?」
「……」
 脈絡もなく繰り出された問いに、アグリアスは目の前の兄をますます睨んだ。兄妹の仲とはいっても、この手の話題は少し不躾な気がした。
「御自分の歳から差し引けば良いのでは?」
 自然に口調も刺々しくなる。だが、それでも彼はどこ吹く風だった。
「そんなに睨んでくれるな。さすがに自分の歳は分かるが……何歳差だった?」
「……。六歳差です」
 大きな溜息をついた後にそう言うと、彼は鷹揚に頷いた。なるほどね、と言いながらじっとこちらを見つめる。
 まっすぐで優しい視線を受け止めきれず、アグリアスは少し目を逸らした。そうして口早に言葉の先を促す。
「どうかしましたか」
「そうだな……。いや、大きくなったと思って」
 視界の端、兄が目を細めたのが分かった。
「家を出たときと背丈はそう変わってはいませんよ?」
「そういう意味じゃなくて。綺麗になったよ」
 苦笑まじりの声色で告げられたその言葉に、思わず視線を戻す。一体何を、と言いかけ、しかしアグリアスは口をつぐんだ。
 兄は穏やかに笑っていた。再会したときからずっと笑顔だったが、少しばかりとぼけているような風情もあった。だが、今は違う。
 ただ、嬉しそうだった。
「変わっていないな、と最初は思ったんだ。勿論、良い意味だよ。でも、変わったところもあるようだね。勿論、こちらも良い意味で」
 噛みしめるような物言いだった。
「それは……」
「具体的にどこがどう、とかは言い表わせないかな。そんなふうに感じただけだ」
 そこで言葉を切ると、彼は両手で右足を掴んだ。よいしょ、という小さな声とともに左足にそれを乗せ、足を組む。瞬間、不自然な格好になったためか、上体が大きく揺れた。
 アグリアスは咄嗟に手を差し伸べたが、彼はそれを拒んだ。
「大丈夫」
「そう、ですか。……足は……?」
 差し伸べた手の行き先に困りながら、しまっていた問いを繰り出す。杖を見やってから兄に視線を戻すと、彼は困ったような顔をした。
「たいしたことじゃない。走れはしないが、杖さえあれば歩ける。……石につまずいて転んだらこうなってしまってね」
 そうしてやはり笑う。だが、その笑みはどこか不自然なような気がした。
 少し前とはまた違う、口元だけの笑み。何故か寂しげに揺れる視線は、何かを隠そうとしている。
 ──それは。
「本当ですか?」
 それは何だろうか、と思うよりも先に問いが口から出た。まるで詰問のようだ、と尖ってしまった声音を後悔しながらも、アグリアスは兄を見据えた。
 優しい隠し事は要らない。
「怒るな、怒るな」
 大袈裟に仰け反り、彼は溜息をついた。そうだな、と諦めたような口調で呟いて肩をすくめると、先の戦の頃だ、と前置きをして語りだす。
「税の納付を求めに──取り立てに行ったんだ。皆苦しい頃だったから、当然のことだが反発された。……悪気はなかっただろうし、未熟な領主だと侮っていたふうでもなかったし、俺個人に恨みがあるという感じでもなかったが」
「……」
「どこからか鍬が飛んできてね、それで足をやってしまった」
「……」
 黙り込んでしまった妹をどう思ったのか、彼は柔らかく笑んだ。たいしたことじゃない、と再び言う。
「良かったこともあった。次の年には戦も終わったし、豊作だった。俺以外の誰かが害されたわけでもない……なにより、父様をこんな憂き目に合わせずに済んだ」
「兄様」
 アグリアスは思わず声を上げたが、彼は頓着しなかった。
「それが正直な気持ちだよ。自己犠牲なのかもしれないし、偽善なのかもしれない。それでも、こうなったのが俺で良かった」
 勿論、こんなのが続いたら音を上げるけどね。
 そう言って片目を瞑った兄に、アグリアスは首を振った。
「父様にはちゃんと叱られましたか?」
「それはもう、しっかりと」
「ならば、私が言うべきことは何もありません。……聞くのが遅くなりました。父様と母様は息災ですか?」
 一呼吸置いてアグリアスは訊ねた。本当はそれこそが真っ先に知りたかったことだった。兄の足のことや、話の流れで随分遅くなってしまったが。
 彼は屋敷をちらりと見、それから頷いた。
「相応に歳は取ってしまったけど、二人ともそれなりに元気かな。ここ最近の天気の悪さで母様は寝込んでいたんだが、今日はだいぶ良いようだ。さっきまで皆を巻き込んで恒例の菓子作りをしていたよ」
「菓子作り、ですか?」
 そんな恒例行事があっただろうか。そもそも、母は菓子作りなどするような人だっただろうか。それどころか、包丁を持ったこともないだろうと今まで思っていた。……菓子作りに包丁は必要ないのかもしれないが。
 逸れてしまう考えを放って首を傾げると、兄は事の起こりを教えてくれた。
「アグリアスが出ていった頃からの恒例行事なんだ。「この季節に生まれた愛娘のために」始まった行事だよ」
「え?」
「毎年この季節になると、よく言うんだ。『瑞々しい草花が、濃くなった木々の緑が、久しぶりの陽が、きっと娘を祝福してくれる』って」
 諳んじるような兄の言葉を、アグリアスはぼうっとした思いで聞いた。母のそんな様子を想像するのは、少し難しかった。
 優しい人だったと思う。父と同じように愛情を傾けてくれていたとも思う。だが、遠い人だった。顔を合わせるのは月に数度あるかないか、会話はいつも弾まずにぎこちない空気が流れていたのを憶えている。乳母や他の使用人のほうがよほど気安く話せた。
 誕生日も同じような具合だった。
 それを寂しく思ったことは、あまりない。全くないわけではなかったが、当たり前のことだと思っていた。
 ──なのに、今では。
「……私が生まれた日は土砂降りの雨だったと乳母のミリーが言っていましたが」
「俺も憶えている。雷が鳴り止まなくて恐ろしかったな。そう……離れているからこそ願うんだと思うよ」
「……はい」
 何故か胸が苦しくて、鼻がつんとする。油断すれば泣いてしまいそうで、アグリアスはそんな自分が少しおかしかった。
 ──何があってもそれもひとつの絆だから。
 いつまでも消えずに残っていた言葉が不意によみがえった。繋がっていた糸を離し、笑顔で別れを告げた青年が噛みしめるように言った言葉だ。
 晴れた空。風渡る草原。仮初めかもしれないし、永遠かもしれない別れのとき。
 それぞれの未来へと向かおうとする仲間達に、過去から離れようとする者達に、妹以外の家族を失くした青年が言った言葉だった。
 それを思い出す。
「知人が言っていました。何があっても、家族という形もひとつの絆だと」
 その言葉を聞いたとき、この地を去ろうと思っていた心はにわかに揺れた。父の、母の、兄の……家族の顔が浮かび、望郷の念にかられた。
 青年が言うとおり、一度なりとも帰ろうか。そう思った。
 だが、結局はそのまま国を離れた。教会の変事は少なからず世に広まり、それらに関与していた者として──異端者である青年に寄与した者として──追われるおそれがあったからだ。
 捕まってしまえば命はないだろう。悪くすれば、自分に連なる者達も危険に晒してしまうことになる。家族も、仲間達も、そしてあの青年も。それだけは避けたかった。
 大丈夫だから、と青年にあのとき言われても頷かなかった。この地を訪れることはなかった。
 それで良いと思っていた。
 ……けれど、本当は。
「それを聞いたとき、私は今更ながらに怖くなったのです。この絆という形は誰かを害していないか」
「……」
 今度は自分が告白する立場になっている、とアグリアスは頭のどこかで思った。言うつもりはなかったのに、何故か吐露している。
 兄は黙って聞いていた。
「そして……絆は途切れてしまっていないか」
 アグリアスは続けた。
 それはずっと抱えてきた想いだった。今まで誰にも語らなかった想いだった。ただ、ひとりを除いて。
 少なくはない時間を経てもなお心に残っていた言葉を呟いたのは、つい先日のこと。何気ない会話のなかで急に出てきたそれを聞き取った会話の相手は──かの青年は、突然どうしたの、と自分に訊ねた。
 問われ、うろたえた。どうしてそんなことを言い出したのか、自分でも分からなかったのだ。よく憶えているね、と笑顔で青年に続けられても曖昧に頷くのが精一杯だった。
 ──そういえば、アグリアスはご家族に会った?
 当然のように続いた問いには首を横に振った。その応えに青年は自分を見つめるだけで何も言わなかったが。
 ──この絆で、誰かが傷ついているのが怖い。
 ──この絆が、途切れてしまっていないか。……それを知るのが怖い。
 気がつけば、心に抱えていた想いを青年に打ち明けていた。自分の声音とはまるで思えないくらいの小さな声で、懺悔のように呟いた。
 鏡を見たなら、おそらく迷い子のような顔をしていたことだろう。
 そんな自分のことを、青年は驚く様子もなく見つめた。……自分がその視線に耐えきれなくなるまで、ずっと。
 そうして。
「彼は……知人は、私に言いました。大丈夫だから、と」
 晴れた空。風渡る草原。
 あのときと同じ笑顔をひらめかせ、青年は言った。自信に満ちた声でそんなふうに言い、肩を叩いた。何度も、何度も。
 ──大丈夫だから。絶対に、大丈夫。
 その自信はどこから来るのだろうと思いながらも、そうして背を押された自分がいた……。
「……そうか。その言葉は正しいと俺も思うよ。大丈夫」
 告白を聞いていた兄が微笑んだ。良い言葉だな、と大きく頷く。
「絆はちゃんとある。お前が心を砕いてそんなふうに想ったように、俺達もお前のことを想っているよ。そして、誰も傷ついたりなんかしていない」
「兄様」
「大丈夫、アグリアス。父様も、母様も、勿論俺も。皆、お前のことを愛している」
 兄の言葉に、笑顔に、アグリアスは今度こそ泣きそうになった。兄様、と繰り返し、感謝を告げようとした。
 そのとき。
「──伏せて」
 鋭く視線を門へ向けると、硬い口調でアグリアスに彼は言った。
「は、はい」
 何が起きたのか戸惑いながらもその言葉に従う。背の低い壁に身を潜め、傍らに置いていた剣を掴んだ。
 立ち上がった兄を見上げると、その表情は険しかった。その様子に、彼の視線をそろりと追う。
 門の前に、何者かがいた。
「……これから来客の予定があるんだが、その先触れだろう。訪問の時間はまだ先だと思っていたが、気が早いな」
「お客様ですか?」
「招かれざる、ね。……隠れていて」
 吐き捨てるように言った兄にアグリアスは少し驚いた。そんな物言いをする兄には憶えがない。余程のことなのだろう。
 壁の割れ目から門を窺うと、先触れだという従者と屋敷から出てきた従僕が何事かを話しているのが見える。何を話しているのかはここからではさすがに聞こえないが、従僕がちらりとこちらを見やったのは分かった。
 話が終わったのか、従者が元の道を帰っていく。それを見届けると、兄の従僕は小走りに四阿へとやって来た。
 アグリアスは気配を消した。
「失礼をいたします。クラウス様の到着は少し遅くなるとの由、ただいま知らせが入りました」
「分かった。その旨、父にも伝えてくれ」
「はい。旦那様も、お早めに」
 従僕の言葉に彼が頷く。それを見てとった従僕はとりたてて詮索もせずに一礼をすると、屋敷へ戻っていった。
 完全に足音が消えるのを待って、アグリアスは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。そのままの姿勢で再び兄を見上げると、視線が合う。主としての表情を崩したその顔には憂いが浮かんでいた。
 クラウスという名の客は、あまり好ましい客とはいえないのだろうと兄の表情にアグリアスは思った。……そして、おそらく自分にとっても。
 自分と関係がない客だとすれば、身を隠す必要などないのだから。
「……。お客様とは……」
「アグリアス、母様の焼き菓子を持っていかないか? 土産にはちょうど良いだろう」
「……兄様?」
 唐突に言葉を遮られ、アグリアスは目を瞬いた。話に脈絡がない。
 憂いを払うような笑みをつくってみせ、彼は杖を手にした。ぎこちない足取りで数歩を進むと、身を潜めたままの妹を振り返る。
「少し時間ができたようだから、急いで取ってくるよ。ここで待っていてくれ」
「兄様!」
 早口で言い残して屋敷へと向かいかけた兄をアグリアスは呼び止めた。
「どういうことですか? 何か不都合なことがあるのでしたら、私はここで去ります。……隠し事はしないでください」
 それが悪いことであったとしても。否、悪いことであればこそ。
 言外にそう匂わせて兄を見つめると、やがて彼は降参とばかりに杖を持っていないほうの手を挙げた。
「……どうも俺は物事を隠してしまう癖があるようだな」
 肩を落とし、苦笑混じりに彼は言った。先刻と同じような溜息をつくと、改めてアグリアスに向き直る。
「私に関係することなのですね?」
 確認の意味をこめて訊ねたアグリアスに、彼は頷いた。
「……そういうことになるな。父様のもとにもうじきクラウス様が──神父様がお出でになるんだ。告解を促しに年に数度はわざわざやって来る」
 ある程度の予測はついていたため、アグリアスは兄の言葉に驚かなかった。それでも血の気が引いていくのが分かる。
 告解とは、罪の許しを求めるための儀式。──その罪とは何か?
 父自身が何か罪を犯したなどとは思わない。許しを乞うほどの罪を犯すような人ではないし、教会もそれは考えていないだろう。父自身に罪はない。
 だが、それでも教会は父に告解を促すという。それは、何故か。
 ──罪を犯した者を生み出した。それこそが罪になるのだと、そう思いなしているからだろう。
 自分という存在が、父を罪人に仕立てた。今も途切れていない絆が、父を傷つけている。
「やはり、私が父様を」
「そんなふうに考えるのはやめなさい。そんなことは気にしなくていい」
 アグリアスのぼんやりとした呟きを兄は咎めた。その言葉とまなざしの強さにアグリアスはびくりと震えた。
「自分のなしたことを否定する必要はないんだ。すべてが正しかったとまでは思わないかもしれないが、後悔はしていないのだろう?」
「はい」
 アグリアスは正直に頷いた。こればかりは自信を持って言えた。
 兄が言うように、自分の歩んだ道がすべて正しかったなどとは思っていない。選び取らなかった道を想って迷ったこともある。歯ぎしりをするような想いをしたことも。
 それでも、あの青年と行動をともにしたことに後悔はないのだ。
「だったらそれでいいんだ。父様の、俺達のことを気にする必要はない」
「ですが」
 咄嗟に言い返そうとしたアグリアスを彼は制した。
「アグリアスと教会の間に何があったかは分からないが、俺達は信仰を捨てられない。……心の奥底では今も神を信じている。けれど、それとこれとは別問題なんだ」
 そこまで言うと、彼は首を横に振った。そうして思い出したように小声で続ける。
「そうそう、神父様が帰った後に父様は俺によく言うよ。『神はすべてを見ている。教会がクソだということもな』ってね。信心深い父様にしてはかなり過激な物言いだけど」
 俺もそう思う。言葉を付け足し、彼はまた片目を瞑った。


 ──消えるなよ? 逃げるなよ? すぐに戻ってくるから。ああ、姿は隠さなくてもいい。皆には俺の客人だと言っておく。
 そう言いおいて屋敷に帰っていった兄の背を、アグリアスは姿が見えなくなるまで見送った。
 視線を走らせ、他者の姿がないことを確かめてから立ち上がる。少し迷った末に、ひっそりと静まり返る庭に出てみた。
 降り続いた雨を吸って小道は程よく柔らかく、夏を前にして木々の緑は濃い。整えられた庭のあちらこちらには様々な花が咲き揃い、陽を享受していた。
 ──瑞々しい草花が、濃くなった木々の緑が、久しぶりの陽が、きっと。
 先刻の言葉を思い出す。母の言葉だと兄は言っていたが、アグリアスには今ひとつ信じられなかった。自分を切り離していないという父の想いも。
 否、信じられないというわけではない。すぐさま自らの考えを訂正して他の言葉を探してみるが、何か一言で表すのは難しかった。
 嬉しい、と思う。
 そうであってほしい、と願う。
 言葉は本当なのだろう、と分かっている。
 だが、願わくば直接会って、顔を見て、その言葉を受け取りたかった。母の愛を、父の想いを。
 そして──、自分の想いを伝えたかった。抱きしめて、これからも続く絆を誓いたかった。
 それが叶わない願いだということは知っていた。もう時間がない。
 来客が遅くなると従僕は言っていたし、すぐに戻ってくるからと兄は言った。それらの言葉は正しいと思うし、だからこそこうしてここで待っている。
 しかし、これが互いにとっての精一杯だ、とそう思う。これ以上を望んではいけない。
 そもそも、様子を垣間見れればと思っただけで誰かに会うつもりで帰ってきたわけではなかった。兄に会えただけでも十分に僥倖だったのだ。
「……そうだな。これだけでも過ぎる幸せだ」
 自分自身に言い聞かせるように呟く。無理矢理に笑みをつくり、そうしてアグリアスは肩の力を抜いた。


 兄が戻ってきたのはしばらく経ってのことだった。焼き菓子が入っていると思しき大きな袋を抱えている。
「すまない、遅くなったね」
 そう言うと、彼は袋をアグリアスに手渡した。わりと軽いなと思いながら袋を覗き込んでみると、その軽さに反して沢山の焼き菓子が入っている。
 食べきれるだろうか、と甘いものがあまり得意ではないアグリアスは思った。
「結構日持ちするらしいから大丈夫。「知人さん」と一緒に食べなさい」
「え? ……あ、はい」
 虚をつかれ、アグリアスは誤魔化すことも忘れて素直に頷いた。それを見て兄が朗らかに笑う。
「知人さんが甘いものを好きだといいんだが。大丈夫かな?」
「……大丈夫だと思います」
 アグリアスは「知人」であるところの青年を思い浮かべた。酒を飲む飲まないとは関係なしに、あれは甘いものがわりと好きなはずだ。自分にとっては胸焼けがしそうなほどに甘いパイをぺろりと平らげていたことも何度もある。
 それを思えば確かに大丈夫だとは思うが──。
「兄様、知人はあくまで知人であって」
 弁明するような具合だ、と自分でも思いながらアグリアスは慌てて言いかけたが、彼はそれをやんわりと遮った。
「でも、アグリアスにとって大事な人なんだろう? 目が語っていたよ」
「……そう、ですか?」
 それほど分かりやすい顔をしていただろうか。そう思って訊ねると、彼は目を眇めた。
「とても、ね。兄としては複雑な気持ちだが……まあ、それは仕方ないな」
 わざとらしいほどの悲しそうな顔つきで言うと、彼は手にした杖を振った。杖を剣に見立てたのだろうその所作に、アグリアスは頬が少しばかり引きつるのを感じた。そして、妙に熱い。
 純粋に打ち合えば、あれは勿論勝つだろうと思う。だが、別の意味では勝ち目がなさそうだった。仕方ない、と言いながらも兄は何らかの方法でこてんぱんに伸すのではないか。おそらく、いや、必ず。
 ──ともに訪れなくて良かったのかもしれない。
 アグリアスは思わず溜息をついた。物語に出てくるような悲劇の主人公には自分は到底なれないだろう。青年が伸されたら(それはもう確定事項のようなものだが)、自分はさらに追い打ちをかけるに決まっている。呆れ顔で叩きのめすのだ。
 そうして、青年のほうは──。
「兄様、複雑ですか?」
 気がつけば、自然に笑みがこぼれていた。
「複雑だな。でも、アグリアスのこんな笑顔が見られたという意味では知人さんに感謝するよ。ありがとうと伝えてくれ」
「……確かに伝えますね」
 伝えるには多少の努力が必要になりそうだ、と思いながらもアグリアスは笑んだ。気恥ずかしくはあるが、そういう未来があってほしいと実は願っている。
「兄様」
 袋を抱え直すと、アグリアスは兄に呼びかけた。なんだい、と優しい声が返ってくる。
「……大事な人です。大事にしたいと思っています」
 兄の目を見つめ、宣した。
 青年は自分にとっての何だろうと時々思う。仲間。憧憬。道標。──失いたくない、大事な人。
 認めてしまうのは何故か悔しい気もして、普段は心に蓋をしている。面と向かって告げたのは仲間だということだけで、他にはまだ何も言っていない。……なんとなく、言えないでいる。
 そうした先にあるものは願う未来とは違ってしまうのだと分かっていても、未だ勇気は出ずに安穏としてしまっている。流されている自分がいる。
 ──でも。
 あの青年にも告げる日が必ず来るだろう。そうしてみせる。
「そうしなさい。そして、大事にされるんだ」
 兄の応えに、アグリアスは頷いた。
「それでいい。……ああ、そうだ」
 何を思い出したのか、彼は隠しから一通の封筒を取り出した。折れ目がないことを確認するような仕草をし、それからアグリアスに差し出す。
「これは?」
「父様からの恋文だよ。あとで読みなさい、とのお達しだ」
 宛名もない封筒を受け取ると、それは少し膨らんでいた。手紙のほかにも何か入っているらしい。気になって封筒の上からそっと撫でてみると、何か硬い感触があった。
「……父様から?」
「そう。それで遅くなったんだ。……アグリアス、後ろを見て」
 言われるままに振り返り、兄の視線を追って屋敷を見る。どうしたのだろうと思いながら目を凝らすと、とある窓に人影があった。
 二つの人影がこちらを見つめている。兄から聞かずとも、彼らが誰なのかアグリアスには分かった。
 ──何があってもそれもひとつの絆だから。
 確かに、青年の言うとおりだった。



 別れを告げ、通用門から外に出た。
 まもなく来るのだという神父と鉢合わせにならないように注意を払いながら、来た道とは別の道を進んだ。幸い、こちらの道からでも繋いだ鳥のもとには戻れる。
 木漏れ日の向こうに見える空は未だ青く、思ったよりも時間の進みは緩やかだったのだと知らせていた。正確な時刻は分からないが、一刻も経っていないだろう。もっとも、この季節になると昼は相当に長い。なかなか落ちない陽に油断して夜更かしをしてしまうこともあるくらいだから、陽の高さだけで時を計るのは少し難しくもあるのだが。
 紫陽花と古薔薇の道を歩く。遠くに鳥車の姿を見かけたが、気取られることはなかった。
「待たせたな」
 元の場所まで無事に戻り、待っていた鳥に声をかけた。身を擦り寄せてきた鳥の首元を掻いてやると、鳥は嬉しそうに羽ばたいてみせた。
 鳥の状態をざっと確かめる。そうして焼き菓子の入っている袋を丁寧に鞍に括り付けると、アグリアスは手紙の封を切った。
 取り出してみると、便箋のほかに乳白色の小さな石をあしらった首飾りが出てきた。
「これは……」
 守り石である月長石をあしらった首飾り。それには見覚えがあった。
 昔、この首飾りを誕生日に贈られたことがある。確か、家で迎えた最後の誕生日のときだったと思う。いつものように人づてに渡されたそれは、母からの成年祝いだった。
 当然、今までの贈り物と同じように大切にしたが、家を離れる際に持ち出したりはしなかった。どこかにしまいこんでしまって、親不孝にも存在自体を忘れていたのだ。
 それが、手の中にある。時を経て、再び。
 忘れ去られた首飾りを見て母はどう思っただろう。呆れただろうか。悲しんだだろうか。……その想いを聞くことはもうできない。
「……ありがとう、母様」
 首飾りをつけ、懐にしまう。石は不思議と温かく、素肌にすぐ馴染んだ。
 体がふっと軽くなったのを感じながら、アグリアスは便箋を開いた。『親愛なるお転婆娘へ』と宛名書きがあり、それに続いて短い文が二行綴られている。筆跡は異なっていたが急いで書いたのだろう、いずれも乱れていた。

 一行目には、『愛している』とあった。厳つく、角ばった字。
 二行目には、『幸せに』とあった。細く、流れるような字。

 ただそれだけの、短い手紙だった。
 読み返し、目で字をなぞる。すると、心の奥底に沈んでいた声が聞こえたような気がした。記憶の中だけにある、懐かしい父母の声。
「……はい」
 聞こえたその声にアグリアスは頷いた。私もです、と呟く。必ず、と誓った。
 ついに込み上げてきた涙をまばたきでやり過ごし、汚れぬようにと便箋をたたんで封筒にしまう。焼き菓子が入った袋の口を開いて手紙をその中に入れると、空を仰いだ。

 この絆のように途切れることなく、きっとどこまでも続く空を。

あとがき

2019年アグリアスさん誕生日記念話でした。作中でとにかく「兄様」と呼ばせたいがために書いた話(……)でしたが、なんとなくアグリアスさんにはお兄さんがいるようなイメージがあります。あと、虫に弱そうなイメージもあったりしますが、どうでしょう。

2019.06.18